蒲池氏
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蒲池(かまち)氏は、鎌倉時代以来の筑後国の大身領主で、戦国時代は筑後十五城の旗頭で柳川城主であった一族。
蒲池氏は歴史的に見ると、嵯峨源氏そして嵯峨源氏渡辺党松浦氏族の「前蒲池」時代(鎌倉時代~南北朝時代)と、藤原氏系宇都宮氏族の「後蒲池」時代(室町時代~戦国時代)がある。
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[編集] 伝承・前史:多氏、藤原純友、橘公頼
出自についての伝承としては、
1.古代の多氏の子孫説 2.藤原純友の子孫説 3.橘公頼の子孫説
がある。
多氏の子孫説は、阿蘇神社関係の古文書によると阿蘇氏の祖とされる多氏は神武天皇の子の神八井耳命(かむやいみみのみこと)の子孫とされるが、神八井耳命の孫の速瓶玉命(はやみたまのみこと)の奥方(妃神)が阿蘇国造神社の主神である蒲池媛(かまちひめ)であり神功皇后に仕えたとされ、その子孫という伝承である。
藤原純友の子孫説は、蒲池城の築城者が藤原純友の一族であり、その子孫が蒲池邑の領主だったという伝承から純友の子孫と柳川では語り継がれてもいる。
しかしこれらはいずれも伝承の域を出ない。蒲池城の築城者は、藤原純友一族ではなく、大宰府をめぐる戦いで純友の弟の藤原純乗の軍勢を迎え撃った大宰権帥の橘公頼であり、その子の橘敏通の子孫が蒲池城に拠り蒲池の領主となったとする説が有力とされる。大治元年(1126年)に長壽院(天台宗)を建立した僧侶・慈光の俗名は「蒲池右仁」と伝わるが、地名の蒲池を号とした筑後の橘氏関連の人物と考えられている。
[編集] 嵯峨源氏/渡辺党松浦氏(「前蒲池」時代)
最初に蒲池を氏名とし、蒲池氏の祖とされるのは、鎌倉時代初期の嵯峨源氏の源久直であり、久直は、平安時代後期の平清盛の全盛時代の仁安3年(1168年)に九州の肥前国の天皇家直轄荘園の神埼荘(鳥羽院領神埼荘)に荘官(荘司)として下向した嵯峨源氏の源満末の孫(『蒲池家譜』)。久直の祖父の源満末は従三位中納言の源行久の後裔とあるが、行久とは嵯峨源氏初代の源融の孫の従三位中納言の源是茂かその係累とされているが未だ定説をみない。
源久直は、祖父の満末以来の松浦一族の山代氏の勢力地であり、平家が支配していた肥前国神崎にいたが、松浦党と同じく源平合戦の壇ノ浦の戦いで源家方に与した功により鎌倉幕府の鎮西御家人となり、建久元年(1190年)に筑後国三潴郡の地頭職に任じられた。久直は三潴郡蒲池邑の領主だった大宰府府官の筑後橘氏 の娘婿となって土着し、地名を苗字として蒲池久直と名乗った(蒲池邑の領主は藤原純友の子孫で、その娘婿になったとする説もあり、そこから蒲池氏を藤原純友の子孫とする伝承もある)。しかし、松浦氏や秋月氏などと同じく元は平家方だったため源頼朝からの信頼は薄く、頼朝の代官的意志を帯びて、鎮西御家人の抑えを含め守護として赴任してきた新参の少弐氏、大友氏など東国御家人の傘下に置かれる。
その後、承久3年(1221年)の承久の乱に蒲池行房が、後鳥羽上皇の反幕府・朝廷側の武家として参加。幕府の勝利により一族滅亡の危機に直面する。行房は、薩摩国の遠隔飛び地の所領黒島で終生蟄居の身となり、『筑後国史』や『蒲池物語』によると松浦氏一族の源圓(源三圓、源円、源三円)を婿養子に迎え、圓に名跡を譲り、圓が渡辺党蒲池氏として新たに家を興した。元寇の時は蒲池諸久が松浦党の一族として出陣し、執権北条時宗からの感状を受けた。
南北朝時代は南朝方に属し、菊池武敏が足利尊氏を迎え撃った1336年(建武3年)の多々良浜の戦いで蒲池武久が嫡子の無いまま討ち死にした。武久の死後、蒲池氏は、懐良親王の率いる南朝方の力が衰えるまでの約20年間、領主不在の状態となり、所領は武久の娘が「女地頭」としてかろうじて守っていた。
この源久直にはじまる「嵯峨源氏の蒲池氏」と、源圓(源三圓)を祖とする「嵯峨源氏渡辺党松浦氏の蒲池氏」を、蒲池氏の時代区分から「前蒲池」という。
[編集] 藤原氏北家道兼流宇都宮氏(「後蒲池」時代)
「粟田関白道兼の末葉宇都宮左衛門尉朝綱の後胤なり。久憲三代の祖宇都宮藤原貞久、正中年間(1324年 - 1226年)、征西将軍営に供奉して肥後国に下り、久憲が時に当たりて渡辺党蒲池氏が婿となりその遺跡を領す」と『筑後志』が伝えているように、南朝方に属した、筑後宇都宮氏の宇都宮久憲が蒲池武久の娘を妻とした。
筑後宇都宮氏は、藤原氏北家の藤原道兼の流れを汲む宇都宮氏の一族であり、筑後国山門郡瀬高の大木城を拠点とした宇都宮泰宗の子で、伊予国忽那島から豊前国仲津に移った宇都宮貞泰の次男で、九州南朝の拠点の肥後国八代にいた宇都宮貞久にはじまる。貞久の子であり久憲の父になる宇都宮懐久は筑後川の戦いで討死しており、また祖父の貞久なき後の南朝凋落期に久憲は筑後に土着すべく、蒲池氏の名跡と遺領を継ぎ蒲池久憲と名のった。
久憲にはじまる「藤原氏族宇都宮党の蒲池氏」は時代区分から「後蒲池」というが、筑後宇都宮氏でもある蒲池氏が、伊予宇都宮氏の同族とされたり、豊前宇都宮氏の分流とされるのは、伊予国から豊前国に移った宇都宮貞泰の足跡に関係していよう。
久憲は、筑後守護の大友氏の傘下に入り、1373年10月に大友親世と菊池武朝が肥後国で激突した時、田尻鑑安ら筑後諸将と共に大友軍に属し竹井に陣を構えたが、戦いは菊池氏の勝利となった。戦いとは別に久憲は、嫡子の蒲池義久、豊前宇都宮氏の嗣子となる城井則房、大木氏の祖となる大木資貞を生み、一族の門脈を筑後に広め、蒲池氏は筑後に大きな勢力を築いた。また蒲池久憲は応永年間に城郭を拡張して城下町を築いた(『三瀦郡誌』)とされることから、久憲がのちの蒲池氏発展の基礎を築いたといえる。
蒲池義久の嫡子は繁久だが、次男の大隈は今村氏を、三男の家久(鎮貞)は犬塚氏を、四男の泰秀(久種)は酒見氏を、五男の親房は城島氏を名のり、それぞれの在地豪族の名跡を継ぎ、蒲池氏の勢力を拡大させた。
蒲池繁久は、筑後の黒木氏や三池氏、肥後国の小代氏が連合して大友氏に反旗を翻した時、五条氏、星野氏、草野氏、問註所氏と共に大友氏側として出陣し、久憲以来の勲功を大友氏が評価するようになり、繁久の子の蒲池親久は、豊後、筑後の守護の大友政親から「親」の字を下賜されている。これ以降、大友氏は蒲池氏に対して当主に一字を与えることを通例とするようになり、大友氏配下の有力領主として存続することになった。
「文亀年中(1501年─1504年)、三潴郡蒲池の城主蒲池筑後守治久築きて居城せり」と『南筑明覧』に柳川城に関する記述があるが、蒲池氏の後の本城となる柳川城は、蒲池治久により蒲池城の支城として築かれることになる。また治久は、後醍醐天皇の勅願寺として建立され、蒲池久憲により再建された崇久寺を修改築し、蒲池氏の菩提寺とした。
柳川城を本城とした蒲池氏の勢力拡大を危惧した大友氏は、蒲池治久の子の代の時に蒲池氏を二家に分割し、柳川の蒲池鑑久の嫡流(下蒲池)と山下の蒲池親広の庶流(上蒲池)になる(※この場合の「上」「下」は方向を表す。上=東、下=西)。
[編集] 戦国時代・蒲池鑑盛(宗雪)、蒲池鎮漣(鎮並)
周防国を中心に大内氏は筑前守護も兼ね、筑後国の溝口氏、川崎氏、星野氏などが大内氏になびいたため大友義鑑は重臣の田北親貞を総大将とする軍を派遣。筑後からは蒲池鑑久が大友軍の一翼として出陣し、大内氏の影響を一掃する。しかし、大内氏は重臣の陶興房を使い筑後への浸透を諦めず、西牟田氏、溝口氏、三池氏、大津山氏が大内氏に呼応し、筑後の諸将は反大友方になるが、蒲池鑑久は田尻親種、草野鑑安と共に少数派ながら大友方につき、蒲池城は反大友方により包囲された。蒲池城には、池末、成清、山口、富安、矢賀部、大木、田尻、中山、本郷、原、丸野、大谷、池上、高松、藤末、中村などの蒲池累代の家臣たちが守り抜き、反大友勢を筑後から撃退した。
蒲池鑑久の後を継いだのが「義心は鉄のごとし」と称えられた蒲池鑑盛であり、鑑盛は、祖父の治久が築いた柳川の城を本格的に改修し、柳川城を本城として整備した。その鑑盛が26歳の時、肥前国の龍造寺家兼が謀反のかどで主の少弐氏の重臣の馬場頼周による討伐戦に敗れ、筑後に落ち延びてきた。鑑盛は家兼の一行を手厚く迎え、三潴郡の一木村(現・大川市一木)に住居を用意して保護した。やがて肥前に復帰した家兼の命を受け竜造寺の家督を継いだのが仏門から還俗した龍造寺隆信だったが、その隆信もまた龍造寺氏の内紛で肥前を追われ、ゆく宛もなく筑後川近辺をさ迷ったあげく、対岸の筑後の蒲池鑑盛の保護を受けることになる。鑑盛は戦場では苛烈に戦うが、戦以外で、助けを求めてきた者には敵味方を越えて保護するという仁徳者であったという。
鑑盛は、大内氏に代って中国地方を制圧し、九州へ侵攻した毛利元就と大友宗麟との門司城をめぐる戦いや、また毛利氏に加担して大友氏に反旗を翻した高橋鑑種の討伐戦、大友氏に対して何度も叛いた龍造寺隆信の討伐戦などの合戦に大友方として度重なる出陣をしており何度も大友宗麟からの感状を受けている。かつて保護した龍造寺隆信の興隆の発端となった今山の戦いにおいても蒲池鑑盛は田尻親種と共に大友宗麟からじきじきの命を受けて数十隻の兵船で筑後川を渡り、龍造寺氏の村中城を包囲し奮闘した。
蒲池氏の最盛期は、戦国時代の蒲池十六代目蒲池鑑盛(蒲池宗雪)と、その子の鎮漣の時で、柳川の蒲池鎮漣の嫡流は1万2千町(後の禄高では約12万石)、山下の蒲池親広の孫の蒲池鎮運の庶流は8千町(約8万石)の勢力を有したとされる(『大友幕下筑後領主附』『龍造寺政家着到帳』)。 大友氏と島津氏の耳川の戦いにおいても、蒲池氏は三千の兵を率いて大友方として出陣する。大友氏への忠義一筋の蒲池鑑盛に対し、嫡子の鎮漣は大友氏からの独立の意志を抱いていた。結果、蒲池鑑盛は耳川の戦いで奮戦し討ち死にし、蒲池鎮漣(鎮並)が家督を継いだ。
耳川での大友氏の大敗北は、筑後の大友幕下の大身領主たちの大友氏からの離反を招き、山下の蒲池分家の蒲池鑑広以外は、反大友の旗印を掲げ、筑後に侵攻した龍造寺隆信に組することになる。蒲池鑑広は、侵攻する龍造寺軍に対して山下城で約1年間孤軍奮闘するが、大友氏には蒲池鑑広を支援する力は無く、龍造寺氏と和睦を結ぶ。
龍造寺氏は、家兼と隆信の二代に渡り、柳川の蒲池鑑盛の保護と支援により存続出来たという経緯から、龍造寺隆信は娘の玉鶴姫を大恩ある蒲池鑑盛の嫡子の鎮漣の妻にし、蒲池氏と龍造寺氏はいわば親戚関係にあった。蒲池鎮漣はしばらく義父の龍造寺隆信のために働くが、やがて九州の中央への侵攻のため要害の地である柳川を領有化せんとした龍造寺隆信と対立。隆信は約2万の兵で柳川を攻めるが、鎮漣は柳川城の籠城戦で龍造寺氏の柳川攻め撃退し、叔父の田尻鑑種の仲介で龍造寺隆信と講和する。しかし、執拗に柳川を狙った龍造寺隆信は、義父の立場を利用して鎮漣を欺いて肥前に誘い出し、騙まし討ちにした。さらに龍造寺隆信は、柳川の鎮漣一族の冷酷なまでの殺戮を命じ、田尻鑑種がその尖兵とされて柳川に兵を進め、柳川の戦いで蒲池氏(下蒲池)は滅びた。この時、龍造寺隆信の娘で蒲池鎮漣の妻だった玉鶴姫は、父の元へ帰ることを拒み、蒲池氏の支城の塩塚城の近くで、鎮漣の後を追うように自害している(同地には、「史跡・蒲池鎮漣夫人他、百八人殉難之地」と刻まれた石標と地蔵がある)。龍造寺隆信の蒲池氏に対する所業は、龍造寺氏の内部でも龍造寺四天王の一人百武賢兼のような疑問に思った者も少なくはなく、また筑後の諸将は、田尻鑑種や黒木家永をはじめ龍造寺氏などの蒲池氏への所業に対して反感を抱き叛旗を翻した。
[編集] 江戸時代
柳川落城から落ち延びたのは、鎮漣の娘の蒲池徳子(徳姫。母は鎮漣の先妻の赤星統家の娘)と次男の宮童丸である。前者の徳子は豊後に移り、大友氏重臣の朽網宗暦の子の朽網鑑房の妻となり、その子孫からは、『蒲池物語』を著した蒲池豊庵や朽網氏の名跡を継いだ朽網鎮武が出ている。徳子の孫の蒲池鎮明の子孫の江口秀種の子の江口鎮誠は肥後柔術三道場の一つとされた扱心流柔術の江口道場を伝える。この江口家から幕末に幕臣の窪田氏の名跡を継ぎ、幕府最後の西国郡代として豊後16万石を預かった旗本の窪田鎮勝(蒲池鎮克)や、その子で鳥羽伏見の戦いでは幕将として戦死している窪田鎮章(窪田備前守)などが出ている。また宮童丸こと後の蒲池経信の子孫は豊後の富裕郷士となる。
鎮漣の嫡子で柳川落城の際に殺された幼い宗虎丸(蒲池久鎮)の名跡は一族の蒲池鑑続が継ぎ、系譜上では蒲池嫡流の子孫とされる。
鎮漣の兄で鎮漣と同じく肥前で討死した家老の蒲池鎮久の子の熊千代は柳川落城の時は塩塚の民家に逃れ、成長して蒲池貞久と名のり龍造寺家晴の配下となる。家晴は龍造寺隆信とは異なり、大恩ある蒲池鑑盛の血筋を残そうとしたのだった。
鎮漣の弟の蒲池統安は耳川の戦いで討ち死にしており、嫡子で塩塚城主だった蒲池鎮貞は龍造寺氏との柳川の戦いで討ち死にしたが、次男の応誉は僧籍にあり、瀬高上庄の来迎寺の第四世住職を勤めていたが、柳川藩主となった立花宗茂に招かれ、宗茂の正室の誾千代の菩提寺である良清寺を開き、その初代住職となる。応誉の子孫は蒲池氏を再興し、江戸時代は柳川藩主の立花氏の家老格となる(家老ではなくて家老格であるのは、蒲池氏が元は柳川の領主であり、立花氏の譜代の家臣筋ではなかったからである)。
[編集] 蒲池氏庶流
一方、蒲池親広にはじまる山下の蒲池氏(上蒲池)は、蒲池鎮運は豊臣秀吉の九州進攻の時、島津氏方にあり、秀吉から領地没収され大名家としては滅びるが、復活し、立花宗茂の弟の高橋統増(立花直次)の与力となり三千石を領した。鎮運は、秀吉の朝鮮の役に出陣するが釜山で病死する。蒲池氏(上蒲池)は、秀吉から大名家としての再興の内諾を受けていたというが、沙汰のないうちに肝心の秀吉が死去。関ケ原の戦いでは、鎮運の子の蒲池吉広は立花氏与力として西軍に属して戦うが、石田三成率いる西軍敗北により、今度は徳川家康により領地没収される。その後、蒲池吉広は、黒田長政の福岡藩に召抱えられ、その子の蒲池重広は5百石を与えられ、後に郡奉行となった。鎮運の弟の蒲池鎮行の子の蒲池正定(蒲池崑山)は、肥後細川藩の藩士となり、宝暦の改革に参加し、その後、奉行となり、中老となり九百石の知行を与えられた。
[編集] 子孫たち
蒲池氏やその係累の子孫は多い。主なものは下記のとおり。
- 明治時代に初代文部卿となり元老院議長、枢密院議長、法相、文相などを歴任し華族(伯爵)に列せられた佐賀藩出身の大木喬任は、蒲池鎮漣に肥前行きを辞めるよう諌めた蒲池一族の大木統光の子孫。
- 昭和の作家の広津和郎は、母が幕府最後の西国郡代で日田16万石を預かった旗本の窪田鎮勝(蒲池鎮克)の孫娘の蒲池須美。
- 陸軍の三太郎大将の一人とされる宇都宮太郎大将は、蒲池鎮漣の兄で家老として肥前で共に討ち死にした蒲池鎮久の子の蒲池貞久の子孫である諫早宇都宮氏の後裔。
- 宇都宮太郎の子に政治家の宇都宮徳馬がいた。
- 宇都宮太郎の係累の宇都宮わかは、五・一五事件の時の元海軍中尉で「青年日本の歌(昭和維新の歌)」の作詞者でもある三上卓の妻。
- 久留米市出身の歌手の松田聖子(蒲池法子)の実家は蒲池鑑盛の三男の蒲池統安の子孫が住職を勤める柳川藩祖立花宗茂の正室誾千代の菩提寺である柳川の良清寺の蒲池家であり、同寺を預かった蒲池家は藩主立花氏の家老格の武家として重んじられた。ロス・オリンピックの時、松田聖子と金メダリストの蒲池猛夫との関係から、ザ・トップテン出演の時に示された学習院大学所蔵の『蒲池家系図』は、蒲池徳子の子孫である旗本の窪田鎮克(蒲池鎮克)のひ孫の蒲池崇の子の蒲池道晏の家に伝わるもの。
- ZARDの坂井泉水(蒲池幸子)は松田聖子と従姉妹という噂があったが、先祖は同じ蒲池一族であるものの、江戸時代に分かれているため現在の民法では親戚的関係にはならない。
- 福岡藩郡奉行の蒲池重広の子の蒲池正広の子孫の蒲池正俊は福岡藩士として明治を迎えており、その子孫に明治の歌人の蒲池正紀がいる。
- 蒲池重広の父の蒲池吉広の弟の蒲池鎮等の子の蒲池鎮永(重永)の子孫は長徳郷士の一族として子孫を伝える。
- 筑前黒田藩伝来の柳生新影流兵法の第13代宗家の蒲池則もまた、福岡藩士の蒲池吉広の子孫。
- 蒲池鑑続の流れを汲む蒲池嫡流の系統は、母方の首藤姓を名のり、その後、蒲池に復姓し、筑後の医師の一族として栄え、また城島の銘酒「池亀」や「比翼鶴」など造酒業の一族として現存。
- 詩人の伊東静雄の先輩で後に國學院大學教授になる蒲池勘一は蒲池貞久の諫早蒲池氏の子孫。
- 蒲池幹治は大阪大学大学院理学研究科高分子科学専攻高分子合成化学研究室名誉教授。参考:蒲池研究室同窓会ホームページ
その他の有名な蒲池氏
- 蒲池猛 ベテランジャズピアノ演奏者。別名、ジョー蒲池。参考
- 蒲池美鶴 文学博士。立教大学文学部英米文学科教授。参考
- 蒲池裕治 ブントに属し、三派全学連の初代副委員長。
- 蒲池猛夫 ロサンゼルス・オリンピックでの射撃競技の金メダリスト。
- 蒲池愛 作曲家。
- 蒲池真澄 医療法人財団「池友会」会長。元民主党代議士の永田寿康の実父。
[編集] 累代
(前蒲池:嵯峨源氏)
- 源久直(蒲池久直)【初代】
- 蒲池行貞【二代】
- 蒲池行末【三代】
- 蒲池行房【四代】
(後蒲池:宇都宮氏/蒲池氏嫡流:下蒲池)
- 宇都宮久憲(蒲池久憲。久則)【十代】
- 蒲池義久【十一代】
- 蒲池繁久【十二代】
- 蒲池親久【十三代】
- 蒲池治久【十四代】
- 蒲池鑑久【十五代】
- 蒲池鑑盛(宗雪)【十六代】
- 蒲池鎮漣(鎮並。兄・蒲池鎮久、弟・蒲池統安、娘・蒲池徳子)【十七代】
(後蒲池:宇都宮氏/蒲池氏分流:上蒲池)
[編集] 関連
[編集] 外部リンク
[編集] 本
- 『筑後争乱記・蒲池一族の興亡』河村哲夫著 ISBN 487415428X
- 『筑後戦国史』吉永正春著 ISBN 4751205420
- 『筑後武士』江崎龍男著 ISBN 4-905897-57-2
- 『徳川最後の西国代官』西澤隆治著 ISBN 479470271X
- 『蒲池氏の歴史』蒲池大気・猷介著
- 『蒲池氏物語』多田紀子著