窪田鎮章
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窪田鎮章(くぼた・しげあき、文政10年(1827年) - 慶応4年1月4日(1868年1月28日))は、西国郡代の窪田鎮勝(蒲池鎮克)の子。
旗本(二千石)、備前守、洋式幕府歩兵部隊連隊長。通称・泉太郎。朝臣としての正式な名のりは源鎮章(みなもと・の・しげあき)。
神奈川奉行所取締役を勤める。
子母沢寛の『新選組始末記』では、清河八郎を殺した六人の刺客の中に佐々木只三郎と共に窪田(久保田)泉太郎の名前が見える。
古屋佐久左衛門と共にイギリスの「歩兵操練・図解」を翻訳し、洋式幕府歩兵部隊の編成を進めていた。
鳥羽伏見の戦いでは、洋式幕府歩兵部隊の第12連隊の隊長として幕府軍の劣勢を跳ね返すべく、同じく洋式歩兵連隊長の佐久間信久や会津藩兵、土方歳三率いる新選組の兵と共に奮戦するが戦死。鎮章の嫡子は、彰義隊に加わり上野で戦死。
鎮章の葬儀は、蒲池氏の遠祖の嵯峨源氏の源融ゆかりの寺である摂津国の太融寺(大阪市北区梅田)で行われた。
墓は、東京都豊島区駒込の染井霊園と、静岡市清水区の万象寺にある。染井霊園の墓は墓碑に「故窪田備前守室□□ 春芳院 明治二十九年二月十七日」とあり、春芳院は鎮章の夫人。もう一つ蒲池氏之墓があり、春芳院と大姉二、童子女二の四霊の法名と没年が列記されている。万象寺の墓は同寺の中心部の高台に、父の鎮克(墓碑・克斎蒲池先生)と並んである。