蒲池鑑盛
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蒲池 鑑盛(かまち あきもり、永正17年(1520年) - 天正6年11月9日(1578年12月7日))筑後南部の大名。近江守。蒲池鑑久の子。蒲池鎮漣や蒲池統安、蒲池統春、蒲池鎮久の父。
法名は宗雪(そうせつ)。正式な名のりは源鑑盛(みなもと・の・あきもり)。
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[編集] 筑後筆頭大身
蒲池氏十六代目。筑後国南部1万町(約10万石)を領した大身(『大友幕下筑後領主附』)。筑後十五城筆頭大名として筑後を統轄。それまでの蒲池城に代えて、柳川城を本格的に造作し、九州屈指の難攻不落の堅城にし、蒲池氏の本城とする。
[編集] 義心強き武将
筑後守護大友氏の幕下にあった城持ち大名分の在地領主で、兵法家、勇将として、筑前国、肥前国など各地に転戦する。また、龍造寺家兼や龍造寺隆信が家臣団の反乱に遭って追われたときは、これを匿って手厚く保護し、その復帰にも協力した。『肥陽軍記』は「ここに筑後国蒲池鑑盛と云う人は下筑後にて威をふるい武勇のほまれ有り和歌管弦にも長じた情ふかい人なり」と記しているが、戦以外では、保護を求めてきた者は、たとえ敵側の者であれ手厚く保護したことからもわかるように、鑑盛は「義心は鉄のごとし」と言われるほど義に厚い武将であった。鑑盛は龍造寺隆信をかつて家兼も住んだ蒲池領内の三潴郡一木村(大川市)に住まわせ、三百石を扶持し、家臣の原野恵俊に面倒を見させた。また隆信が佐賀へ戻る時は、蒲池氏の精兵三百で隆信を護衛させ、隆信は佐賀城の奪回に成功することになる。
鑑盛は、大内氏に代って中国地方を制圧し、九州への侵攻を開始した毛利元就と大友宗麟との間の門司城をめぐる戦いや、また毛利氏に加担して大友氏に反旗を翻した高橋鑑種の討伐戦、さらに大友氏に対して何度も叛いた龍造寺隆信の討伐戦などに大友方として度重なる出陣をしており何度も大友宗麟からの感状を受けている。かつて保護した龍造寺隆信の興隆の発端となった今山の戦いにおいても蒲池鑑盛は田尻親種と共に大友宗麟からじきじきの命を受けて数十隻の兵船で筑後川を渡り、龍造寺氏の村中城を包囲し激闘を繰り返した。
[編集] 耳川での最期
1578年、北上する島津氏と大友氏との間の日向国の耳川の戦いには、大友軍の一翼として初老の身で病身だったが、嫡子の蒲池鎮漣や三男の蒲池統安と共に3千の兵を従えて出陣(『北肥戦史』)。すでに家督を継いでいた鎮漣は大友氏から離心しており、病気を口実に2千の兵と共に柳川へ帰城するが、鑑盛は、大友氏への忠義一筋で、大友軍総崩れの中にあって、直属の兵約1千と島津氏の本営への突入を試みるなど奮戦し、統安と共に壮烈な最期をとげた(『大友記』)。その最期について『筑後国史』は「湊川の戦いにおける楠木正成の壮烈な最期にも比せられる」と記している。
菩提寺の崇久寺の霊碑には、「松梅院殿長國覚久居士神儀」と記されている。
[編集] 子孫たち
蒲池鑑盛には、長子で落胤の蒲池鎮久、次子で嫡子の蒲池鎮漣(鎮並)、三男の蒲池統安、四男の蒲池統康(統春)がおり、鎮久の子の蒲池貞久は佐賀藩の諫早に蒲池姓、宇都宮姓の子孫を伝え、鎮漣は嫡子の宗虎丸(蒲池久鎮)の名跡を蒲池鑑続が継ぎ、筑後の一族は蒲池姓、首藤姓、宇都宮姓その他の子孫を伝えており、次男の宮童丸(蒲池経信)は大分の大庄屋として子孫を残し、娘の蒲池徳子は大友氏重臣の朽網宗暦の子の朽網鑑房との間に生んだ子に蒲池の名跡を再興させ、その子孫には徳川幕府最後の西国郡代となった旗本の窪田鎮勝(蒲池鎮克)がおり、一族には蒲池姓、朽網姓、江口姓、鶴姓、窪田姓その他の子孫がいる。三男の統安の子の応誉は瀬高の来迎寺の僧侶だが、柳川藩祖の立花宗茂の正室の誾千代を弔うために1621年(元和7年)に柳川市の良清寺を開き、その子孫は蒲池の名跡を再興し、江戸時代は柳川藩主の立花氏の家老処遇を受ける。ちなみに歌手の松田聖子(蒲池法子)の生家は良清寺の蒲池家の子孫で、松田聖子は幕末の柳川藩の蒲池鎮之の玄孫になる。四男の統康(統春)は、龍造寺氏の柳川攻め(柳川の戦い)の時に討ち死にしている。
[編集] 関連
[編集] 本
- 『筑後争乱記・蒲池一族の興亡』河村哲夫著 ISBN 487415428X
- 『筑後戦国史』吉永正春著 ISBN 4751205420
- 『筑後武士』江崎龍男(芸文堂)ISBN 4-905897-57-2
- 『蒲池氏の歴史』蒲池大気・猷介著