少弐氏
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少弐(しょうに)氏は筑後の守護大名で、後に北九州の戦国大名となる。藤原北家秀郷の子孫という。
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[編集] 出自
少弐氏は、武蔵国の武藤資頼が大宰府の次官である大宰少弐に任命されたことから始まるという。資頼は、藤原秀郷の流れを汲む武藤頼平の猶子となり武藤の名跡を継ぐが、資頼の出自は不詳。その意味では、少弐氏は、資頼の養父の武藤頼平の家系からすれば、頼平の先祖である藤原秀郷の後裔になるが、資頼の血筋からすれば、先祖不詳ということになろう。
[編集] 平安時代末期から鎌倉時代
武藤資頼は平知盛に仕えた平家の武将であったが、一ノ谷の戦いの時に源氏方に投降し、その後、許されて源頼朝の家人となる。平家滅亡後、大宰少弐に任じられ、平家方であった九州の武家に対する鎌倉方の抑えとして鎮西奉行をはじめ、北九州諸国の守護となる。この源頼朝による抜擢が、その後の少弐氏の興隆のきっかけであり、武藤資頼の子の少弐資能の時代から少弐姓を名乗るようになった。鎌倉時代の1274年(文永11)、1281年(弘安4)元寇が起こり、資能は子の少弐経資や少弐景資らとともに戦い、孫の少弐資時は弘安の役の時壱岐で討ち死にしている。戦後には筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬など北部九州における最大の守護大名にまで成長して、少弐氏の最盛期を築き上げた。
[編集] 鎌倉時代後期
少弐資能の死後、経資と景資との間に家督をめぐっての争いが起り、1285年(弘安8)に鎌倉で御家人の安達泰盛と内管領の平頼綱が対立して霜月騒動が起こると、景資は泰盛の子の安達盛宗とともに、頼綱側についた経資と戦い敗死する(岩門合戦)。その後鎮西探題が設置され北条氏の力が西国にも及ぶようになると、少弐氏もその配下とされ雌伏のときをむかえる。
鎌倉時代末期の1333年に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こると、少弐貞経は大友氏らとともに討幕運動に参加し鎮西探題を攻撃する。鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が開始され、新政から離反した足利尊氏が1336年に京都から駆逐され九州へ逃れると、貞経の子の少弐頼尚は尊氏を迎えて赤間関へ赴くが、その最中に宮方に属した肥後国(熊本県)の菊池氏が大宰府を襲撃して父の貞経を滅ぼす。頼尚は足利方とともに多々良浜の戦いにて菊池武敏らを破る。
[編集] 南北朝時代
南北朝時代には、頼尚は九州における足利勢力の九州探題一色範氏とも衝突する。足利家の内紛から観応の擾乱が発生すると、頼尚は九州へ逃れた足利直義の養子である足利直冬に娘を娶わせて接近する。多々良浜の戦いで敗北した菊池氏は南朝が征西将軍として派遣した懐良親王を奉じて勢力を拡大しており、少弐氏は1359年の筑後川の戦いで征西府・菊池軍に破れて大宰府を奪われる。
[編集] 室町時代
九州における南朝方の勢いが盛んになると頼尚の子は北朝方と南朝方に分かれそれぞれに味方した。しかし、北朝方についた少弐冬資が、新たに九州探題として派遣された今川貞世(了俊)により水島の陣で謀殺されると、南朝方についた少弐頼澄の下で一致団結し反今川勢力として活動した。南朝の勢力が衰退し今川貞世が帰国した後は、代わって九州探題に就任した渋川氏の援護と称して周防の大内氏が北九州にたびたび侵攻するようになり、少弐氏は豊後の大友氏や対馬の宗氏と結び抵抗し、一時は大内盛見を討ち取って勝利をしたこともあったが、その後はたびたび敗北し、少弐満貞、少弐資嗣、少弐教頼などが戦死している。
[編集] 戦国時代
戦国時代に入ると、周防の大内氏からの侵攻は益々激しくなった。少弐氏は大内氏の侵攻を懸命に防いでいたが、次第に劣勢となり、十五代当主・政資が大内氏によって討たれて拠点を肥前に移した。当時の肥前は九州千葉氏が支配していたが、その内紛に乗じて同氏の領地を奪い、さらに大内氏が中央での政争や出雲の尼子氏との抗争に忙殺されている隙をついて一度は勢力を取り戻した。だが、今度は家臣の龍造寺家兼の台頭と謀反(一説には龍造寺氏は九州千葉氏の旧臣ともいう)にあって次第に衰退してゆく。そして少弐氏第十六代を継いだ少弐資元は、大内氏の侵攻に耐えられなくなって遂に大内義隆に降伏した。しかし、義隆に欺かれて自害を余儀なくされ、少弐氏は一時、滅亡した。
[編集] 滅亡
資元の子で第十七代を継いだ少弐冬尚は少弐氏を再興したが、龍造寺氏の謀反に対しては、家臣の馬場頼周に龍造寺氏討伐を委ね実権をなくしていく。家兼の後を継いだ龍造寺隆信もまた謀反の立場を鮮明にして、冬尚は1559年、勢福寺城を隆信に攻められて自害を余儀なくされた。これにより、鎌倉時代から続く名族・少弐氏は完全に滅亡したのである。
[編集] その後
冬尚の弟・政興は1563年から馬場鑑周の支援の下、少弐氏再興戦を有馬晴純・波多鎮・大村純忠・多久宗利・西郷純尚などの肥前の武将達と共に、隆信と戦う。 しかし、翌年に龍造寺勢の猛攻で肥前中野城に籠るも鑑周の降伏で、少弐氏の再興の野望は潰えた。
[編集] 少弐氏一族
- 武藤資頼【一】
- 少弐資能【二】
- 少弐経資【三】
- 少弐景資
- 少弐盛経【四】
- 少弐貞経【五】
- 少弐頼尚【六】
- 少弐直資【七】
- 少弐冬資【八】
- 少弐頼澄【九】
- 少弐貞頼【十】
- 少弐満貞【十一】
- 少弐資嗣【十二】
- 少弐嘉頼【十三】
- 少弐教頼【十四】
- 少弐政資【十五】
- 少弐高経
- 少弐資元【十六】
- 少弐冬尚【十七】
- 少弐政興(基本的に政興は当主として認められてはいない)
[編集] 系譜
凡例 太線は実子。細線は養子。
(武藤氏、少弐氏)
頼平 │ 資頼 ┃ 資能 ┣━━━┓ 経資 景資 ┣━━━┓ 盛経 資時 ┣━━━┓ 貞経 資法 ┣━━━┓ 頼尚 頼賢 ┣━━━┳━━━┓ 頼澄 冬資 直資 ┃ 貞頼 ┣━━━┓ 満貞 頼房 ┣━━━┳━━━┓ 教頼 嘉頼 資嗣 ┣━━━┓ 政資 胤資 ┣━━━┓ 資元 高経 ┣━━━┳━━━┓ 冬尚 胤頼 政興
[編集] 少弐氏方の人物
[編集] 少弐支族
- 朝日資法
横岳氏
- 横岳頼房
- 横岳資貞
- 横岳資誠
馬場氏
- 馬場頼周
- 馬場政員
- 馬場鑑周
筑紫氏(支族ではないとする系図もある)
- 筑紫教門
- 筑紫満門
[編集] その他
- 小田資光
- 小田政光
- 小田鎮光
- 小田賢光
神代氏
- 神代勝利
- 神代長利
- 江上元種
- 江上武種
多久氏
- 多久宗時
- 多久宗利
その他