朽網氏
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朽網(くたみ)氏は、古庄氏の出で大友氏と同族の豊後国救民郡の大身。
朽網氏は、「齋院次官藤原親能の第三子親直は筑井左衛門尉と称す」(「大友系図)とある筑井親直(あるいは筑井親茂。古庄親直とも)の子の古庄重能(古庄重吉)が建久7年に大友能直の代官として九州に下り、朽網郷に土着したことにはじまるとされる。
古庄重能は、藤原秀郷の5代後裔と称し、大友能直の兄弟とされ、能直も幼児の頃は古庄能直と名のっていたとされる。
古庄重能の19代後の朽網親満が天文13年に大友氏に叛き、大友義鎮に討たれて滅びる。
大友氏一族の入田氏の入田鑑康が大友義鎮の命により朽網氏の名跡を継ぎ、朽網鑑康(後に朽網宗暦)と名のる。朽網鑑康は大友氏の加判衆だが、鑑康の子の朽網鎮則が北上する島津氏に与したため討伐され、老身の鑑康は死去し、次子の朽網鑑房は玖珠の浪人となる。
朽網鑑房は、蒲池鎮漣の娘で、柳川の戦いでの柳川落城から落ち延びた蒲池徳子と夫婦になり、朽網宗壽を生む。宗壽は筑後国蒲池にある母方の蒲池氏の菩提寺の崇久寺の食客として食いつなぎ、三人の子をもうける。嫡子の朽網鎮武は、朽網氏の名跡を継ぎ、福岡藩藩士となり、次子の蒲池鎮明は、祖母の蒲池氏の名跡を継ぎ、三男の朽網宗常の子の朽網豊卓は、久留米に住み、蒲池豊庵と名のり『蒲池物語』を著す。豊庵の子の洞摩は朽網に復姓し、その子の朽網宗房は久留米藩郷士となる。
朽網鑑康(宗暦)と鎮則の代で滅びた系譜は、福岡藩士の朽網鎮武と久留米郷士の朽網宗房により引き継がれていく。