立花氏
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立花(たちばな)氏は、大友氏の流れを汲む武家。同訓の橘氏とは系統上の関係はない。
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[編集] 出自
南北朝時代に、大友貞宗の子貞載が筑前国糟屋郡立花城に拠り立花を称したことより始まる。以来大友氏の重臣として重きをなしたが、立花鑑載のとき大友義鎮(宗麟)に背いたため、同じく大友氏支流の戸次鑑連により攻め滅ぼされ、鑑載の子立花親善の代で断絶した。
[編集] 立花氏(道雪以前)
[編集] 立花鑑連(道雪)と誾千代
大友義鎮は戸次鑑連を立花鑑載・親善にかわって立花城に入れ、立花氏の名跡を継がせた。立花鑑連はのちに入道して道雪と号したため、立花道雪の名で知られる。道雪は男子がなかったため、娘の誾千代(ぎんちよ。「ぎん」は門がまえに言)に立花城を譲り、晩年に高橋紹運から統虎を誾千代の婿に迎えて養子とした。統虎改め立花宗茂は斜陽の大友氏を支え島津氏との戦いに活躍し、豊臣秀吉の九州征伐の後、筑後国柳川に13万2000石を与えられた。
[編集] 立花宗茂
しかし、宗茂は関ヶ原の戦いで西軍に参加したため所領を没収され流浪したが1604年に徳川氏により取り立てられ、1606年、陸奥国棚倉で1万石を与えられて大名に返り咲いた。その後、大坂の役でも戦功をあげ、1620年、関ヶ原の戦い以降、筑後柳川32万石を支配していた田中氏が絶家したのをきっかけに柳川藩10万9千石を与えられ、旧領柳川に戻った。関ヶ原で改易された武将が再び「大名」として復活できた例は少なく、その中でも旧領に戻れたのは立花宗茂ただ一人である。
江戸時代の立花氏は柳川藩主として明治維新まで続き、維新後は華族に列して伯爵を授けられた。現在の立花家は、柳川市の自邸を改装した料亭・旅館・宴会場「御花」を経営している。
[編集] 高橋統増(立花直次)
また、立花宗茂の実弟であり実家の高橋家を継いだ高橋統増(直次)は豊臣政権下で1万8000石を領していたが関ヶ原の戦いで兄とともに西軍につき失領し、のちに徳川氏から5000石を与えられた。直次は兄の姓にちなみ立花氏を称するようになり、立花直次の子種次のとき三池藩1万石を与えられて大名に返り咲いた。三池藩立花氏は立花種周のとき外様大名ながら若年寄にのぼったが、その失脚後陸奥国内5000石に転封され、旗本に降格した。のちに5000石を加増されて大名に復帰し、1868年に居所を再び三池に戻した。この家は維新後、子爵を授けられた。
[編集] 系図
┃ 鑑載 ┃ 親善 ∥ 道雪 高橋紹運 │┏━━━┻━━━┓ 宗茂 直次 ┃ ┃ 柳河藩 三池藩
[編集] 関連
[編集] 外部リンク
- 立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
- 武家家伝_立花氏
- 柳川 御花(立花家が経営する料亭・旅館等)
- 柳川市