宇都宮貞泰
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宇都宮 貞泰(うつのみや さだやす)とは、鎌倉時代・室町時代の武将。三河守。当初は景泰、後に貞泰に。正式な名のりは藤原貞泰(ふじわら・の・さだやす)
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[編集] 京都
下野宇都宮氏第6代(藤原宗円から数えると第8代)の宇都宮貞綱の弟で九州の筑後国に下った宇都宮泰宗の子。
武茂系図によれば、宇都宮景泰(後の貞泰)は、「京都烏丸に住み、その子の宇都宮宗泰については三河守で伊予住人」とあり、伊予宇都宮系図には貞泰については「六郎、始景泰、美濃守、遠江守、野州宇都宮の住人、後京都に住す、法名蓮智」とある。
[編集] 伊予国地頭
1330年(元弘元年)に伊予国喜多郡の地頭となり、京都から伊予国喜多に移り、大洲の根来山城に拠る。南北朝時代当初は北朝方であり、四国の南朝方の得能通宗、忽那重清、土居通増らと戦う。
[編集] 南朝方
後醍醐天皇の第11皇子の懐良親王が征西大将軍に任命され、九州を目指して吉野を出立し、瀬戸内海の海賊衆である熊野水軍の援助を得て伊予忽那島(愛媛県松山市 - 旧北条市)へ渡った時、しばらく喜多の宇都宮貞泰の処に滞在。ということは、当初は幕府方(北朝)の貞泰は、この頃は宮方(南朝)に変わっていたことになる。
貞泰は、懐良親王と共に四国の伊予国喜多から九州の豊前宇都宮氏の豊前国仲津に移る。
[編集] 宇都宮氏系譜
貞泰の子については、尊卑分脈、武茂系図、伊予宇都宮系図、筑後宇都宮系図、下野宇都宮系図その他においては、いくつかの異同がある。それらをまとめれば、貞泰には、貞宗、義綱、貞久、貞邦、宗泰という子があり、伊予宇都宮系図は、伊予国守護となった貞宗を長子としているが、下野宇都宮系図その他では、豊前宇都宮氏に入嗣した義綱を長子としている。これは、貞泰が伊予喜多にいた時と、豊前仲津に移った時の境遇を反映していると思われる。
[編集] 宇都宮氏諸流
伊予宇都宮系図が長男とする宇都宮貞宗は、伊予国守護となる。貞宗には子がおらず、伊予宇都宮氏の祖の宇都宮豊房(豊前宇都宮氏の宇都宮頼房の三男)が養子となる。
下野宇都宮系図が長男とする宇都宮義綱の子の宇都宮元綱は、北朝方の豊前宇都宮氏に入る。
次男の南朝方の宇都宮貞久の子の宇都宮懐久は、筑後宇都宮氏後裔の蒲池氏の祖となる。
三男の宇都宮貞邦は、兄貞久と共に懐良親王の九州の南朝方となり、甥の宇都宮懐久と共に筑後川の戦いで討ち死する。
四男の宇都宮宗泰は、長兄の貞宗の養子の宇都宮豊房(宇都宮冬綱[城井冬綱]の弟)の養子となり伊予宇都宮氏を継ぐ。
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