柳川城
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柳川城(柳河城とも。やながわじょう)は福岡県柳川市本城町にある城。別名、舞鶴城(まいづるじょう)。
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[編集] 概要
- 現在の柳川市は、柳川城の城下町として生まれている。
- 無数の堀が縦横に交わっており、クリークに包まれた天然の要害をなしており、蒲池氏の城主時代に「柳川3年肥後3月、肥前、筑前朝飯前」と大友氏陣中で歌われた戯れ歌にもあるように攻略には3年かかるという九州屈指の難攻不落の城。
- かつての城跡は柳川高等学校と柳城中学校のキャンパスとなり、遺構は天守台、石垣、堀が柳川城跡として残っているだけである。
- また別名を舞鶴城というが、これは鶴が舞うように美しいという城のシルエットによる。
[編集] 歴史
- 承平6年(936年)頃、藤原純友の乱の時に、純友の弟の藤原純乗の軍勢に対抗すべく大宰権帥の橘公頼が築いた砦がルーツとされるが、公頼が築いた蒲池城との混同。
- 下筑後地方(筑後国南部)の領主である蒲池治久が建て、蒲池氏の支城となり、蒲池鑑久あるいは蒲池鑑盛の時に、蒲池氏の本城をそれまでの蒲池城から柳川城に移し、鑑盛が本格的な造作を行い、蒲池氏の本城となる。
- 水路を縦横に張り巡らせた難攻不落の城とされ、蒲池鑑盛(蒲池宗雪)は兵法者で知将でもあったが、築城家としても技量が高かったことを示している。
- 蒲池鎮漣が城主の時、龍造寺隆信や鍋島直茂が攻めたがびくともせず、蒲池氏滅亡後、蒲池氏による造作のままの柳川城には龍造寺氏の鍋島直茂が入り、大友氏の勇将の立花道雪が懸命に攻めたが落とすことが出来ず悔しがったという。
- 豊臣秀吉の九州征圧後、立花宗茂が城主となり、関が原合戦後は、西軍側だった宗茂に代わり田中吉政が城主となるが、江戸時代初期に立花宗茂が再度城主となり、以降、柳川藩藩主の立花氏の城となる。
- 1697年(元禄10年)城の西方に藩主別邸「御花」が造営された。増改築を繰り返し、1910年(明治43年)に建築された迎賓館「西洋館」とそれに続く本館、庭園である「松濤園」が現存している。なお、「御花」は旧藩主立花氏の経営の元、宿泊施設・大小宴会場・料亭として活用されている。
[編集] 歴代城主
- 蒲池鑑久 天文年間
- 蒲池鑑盛 永禄年間
- 蒲池鎮漣 天正9年
- 鍋島直茂 天正9年~12年
- 龍造寺家晴 天正12年~15年
- 立花宗茂 天正15年~慶長5年
- 田中吉政
- 田中忠政
- 立花宗茂
- 立花忠茂
- 立花鑑虎
- 立花鑑任
- 立花貞俶
- 立花貞則
- 立花鑑通
- 立花鑑寿
- 立花鑑寛