橘公頼
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橘公頼(たちばなの きみより、元慶元年(877年) - 天慶4年2月20日(941年3月25日))は、平安時代の貴族。従三位、中納言。右京大夫、左中将、大宰権帥。
橘広相の子であり、橘諸兄の6代後。藤原純友の乱の時、大宰府を落として柳川に迫った純友の弟の藤原純乗の軍勢を、蒲池城で迎え撃った。その功により橘公頼の子孫は、筑後国蒲池の領主となる。
地元の柳川市に伝わる伝承では、蒲池城は藤原純乗が築き、橘公頼は柳川城を築いて対抗したとされる。そこから蒲池城に拠る蒲池の領主は藤原純乗の一族と伝えられているが、当時は柳川城はまだなく、橘公頼が子の橘敏通と共に藤原純乗を迎え撃ったのは蒲池城である。また近隣一帯は、田尻氏など純友追討に功のあった大蔵春実の子孫が土着しており、藤原純友一族の子孫が勢力を持ったとは見なしがたい。蒲池の領主もまた藤原純友追討に功のあった橘公頼の子孫であり、鎌倉時代に嵯峨源氏の源久直が蒲池の地頭職になって赴任し、橘公頼の子孫の筑後の橘氏の娘婿となり、その勢力を背景にして蒲池氏を名のる。