藤原時平
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藤原 時平(ふじわら の ときひら、貞観13年(871年) - 延喜9年4月4日(909年5月1日))は平安時代初期の政治家。摂政・関白を務めた基経の子。宇多天皇、醍醐天皇に仕える。
寛平3年(891年)に基経が逝去。宇多天皇は親政を行い、菅原道真を重用していた。醍醐天皇の治世下、昌泰2年(899年)に左大臣兼左近衛大将となって道真とともに内覧に任じられる。延喜元年(901年)、右大臣となったばかりの菅原道真を讒言して大宰府に左遷する(昌泰の変)。六国史の最後となった「日本三代実録」や延喜式の編纂を行う。延喜2年(902年)、最初の荘園整理令を出す。
道真との確執については、個人的な嫉妬のみならず、律令制の再建を志向する道真と社会の実情に合わせた政策を採ろうとした時平との政治改革を巡る対立に求める意見がある。また、39歳の若さで早逝したために、道真の怨霊による祟りだといわれた。
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[編集] 官歴
※特に典拠の無い限り、『日本三代実録』『公卿補任』の記載による。
- 仁和2年(886年)1月2日(2月13日) 元服、正五位下。 4月1日(5月12日) 次侍従。
- 仁和3年(887年)1月10日(2月10日) 従四位下。右近衛権中将。 2月17日(3月19日) 右近衛権中将。 8月26日(9月21日) 蔵人頭に補す〈蔵人補任〉。9月8日(10月2日) 昇殿。 9月21日(10月15日) 重ねて禁色を聴す。
- 仁和5年(889年)1月16日(2月23日) 讃岐権守を兼ぬ。
- 寛平2年(890年)1月7日(2月4日) 従四位上。 11月26日(891年1月14日) 従三位(越階)。
- 寛平3年(891年)3月19日(5月5日) 参議に任ず。讃岐権守元の如し。4月11日(5月26日) 右衛門督を兼ぬ。
- 寛平4年(892年)2月21日(3月27日) 左衛門督を兼ぬ。5月4日(6月6日) 検非違使別当を兼ぬ。
- 寛平5年(893年)2月16日(3月11日) 中納言。検非違使別当・左衛門督元の如し。 2月22日(3月17日) 右近衛大将を兼ぬ。 4月2日(4月25日) 春宮大夫を兼ぬ。
- 寛平9年(897年)6月19日(7月26日) 大納言。左近衛大将を兼ぬ。氏長者。 7月3日(8月8日) 皇太子敦仁親王践祚(醍醐天皇)に依りて、春宮大夫を止む。菅原道真と共に天皇年少の間、奏請宣行(内覧)の詔が下る〈日本紀略〉。 7月7日(8月12日) 蔵人所別当を兼ぬ。 7月13日(8月18日) 正三位。
- 昌泰元年(901年)10月8日(11月26日) 東大寺俗別当に補す〈東大寺別当次第〉。
- 昌泰2年(902年)2月14日(3月31日) 左大臣。5月14日(6月27日) 東大寺俗別当に補す〈東大寺別当次第・東南院文書〉。
- 昌泰4年(904年)1月7日(2月1日) 従二位。
- 延喜7年(907年)1月7日(2月26日) 正二位。
- 延喜9年(909年)4月4日(5月1日) 薨去。4月5日(5月2日) 贈正一位太政大臣。
[編集] 歌舞伎
「時平の七笑い」が有名。
[編集] 人物・評価
笑い上戸だったらしく、大鏡には仕事の途中、史の放屁に思わず爆笑してしまい、仕事に手が付かなくなった逸話が残っている。また、醍醐天皇と打ち合わせをして、わざと華美な装束で参内して、天皇の怒りを買い、退出、邸に閉じこもって誰とも面会しなかった結果世の贅沢が治まったという逸話も有名である。好色でもあり、今昔物語では伯父の藤原国経の妻で、在原業平の孫娘である北の方の噂を聞き、彼の邸を訪れ、酒に酔った隙に彼女を自分の妻としてしまった逸話が残っている。その間に生まれたのが三男の藤原敦忠である。政治的には自らが権勢門家の頭領だったにも関わらず、荘園整理令を出す等意欲的に施政に取り組み、有能な政治家ではあったが、その能力を発揮できた期間は短く、道真の怨霊と噂されたその早世は仲平の71歳、兼平の61歳、忠平・穏子の70歳等(いずれも数え年)他の兄弟が当時としては総じて長命だっただけに余計目立った格好となってしまった。そして、その後はあまり仲は良くなかったとされる弟の藤原忠平及びその系統に政治の実権が移り、時平の系統はいつしか、僧籍に入るか、中・下級官僚の甘んじるなどして歴史に埋もれる事となり、それが道真の比較的早い名誉回復に繋がったとの見方がある。
[編集] 系譜
- 父:藤原基経
- 母:操子女王(父:人康親王)
- 妻:廉子女王(父:本康親王)