漢文
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漢文(かんぶん)とは、
この項目では、1.1の意味について詳述する。
漢文は以下のものに別れる。
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- 純粋文語漢文(現代中国では「文言」という)
- 変体漢文(現代中国語文を含む)
- 漢字混じり文(これは漢文ではない)
目次 |
[編集] 中国
黄河流域に発生した中国文明は、漢字を生み、漢字で文字記録を行う文化を発達させた。ところが、漢字は異なる言語を用いる複数の文化集団によって受容されたため、漢字による文章を取り交わす圏内で共通の文語が形成されていった。これが、漢文の誕生であると言え、漢文を共通文語として用いる文化圏が、正に後の政治的統一中国の原型となった。最初の長期安定統一政権たる漢代には中央と地方との文書のやり取りの中で漢文法が確立し、以降中国ではこの漢代の伝統的な文法に従って、文章が書かれていくことになり、時代や地域による口語の多様性の高さにもかかわらず、文語である漢文の文法上の変化は少なかった。普通「漢文」というと、このような伝統的な文法に従っているもの(正則漢文)だけを指す。
また、漢文で書かれた中国の書物は漢籍(かんせき)と呼ばれる。そこには現代中国の書籍は含まれない。
もちろん、話し言葉のレベルでは、変化が大きく、また地域差もあったが、このような変化が書き言葉に影響を及ぼすことはなく、むしろ様々な口語を話す東亜諸民族は共通文語である漢文によって結び付けられていた。逆に各地域の口語の発展の方こそが漢文から強い影響を受けていき、中国語・ベトナム語・日本語・朝鮮語・広東語・台湾語などと呼ばれる、著しい地域差を持ちながらも一定の共通項を持った言語の形成につながったと考えられる。近世に入ると、中国でも民衆文化が花開くようになり、民衆の話し言葉を取り入れた小説なども編まれていく。しかし、決して官僚の政論や上流階級の文学作品のようなものに取り入れられることはなかった。
20世紀初頭には、中国では魯迅らの働きによって、正則漢文を捨てて話し言葉の文体が試みられた。ここに、現代中国語文が確立した。現代中国語文も、漢字を並べて書くという点では従来の漢文と異ならないが、一種の変体漢文であり、文法的には漢文と大きく異なるようになった。それゆえ、現代中国語文を漢文と呼ぶことはあまりない。ところが現代中国では「漢文」の二文字は中国語を含むものと誤解している人が多い。丁度日本人が変体漢文を正則漢文と区別しないのと似ている。いずれの場合も漢文を自己の属する文化のものと看做している。日本の高等学校の漢文も国語科の一つである。
中華人民共和国成立以降は、正則漢文で文章が書かれることは、滅多になくなった。たとえ正則漢文を真似る場合でも、口語の影響で崩れた漢文がほとんどである。
[編集] 周辺諸民族を含め
日本・朝鮮・ベトナム及び中国などの国家・民族は、漢字および漢文を取り入れて俗語の文字記録を開始した。これらの国では、はじめ漢文文明の共通体として書かれているような文法(純粋漢文)で記していたが、漢文とは全く体系の違う自国語の表記にも漢字を利用しようとした。ここで、漢文と自民族語が混交した変体漢文が生まれた。さらに、日本・朝鮮・ベトナムではそれぞれ仮名・ハングル・字喃と呼ばれる自国語の新しい文字を開発し、また中国では宋代ごろから口語専用の新俗字が作られ、これらの新文字と漢字を組み合わせて自国語を表記するようになった。この段階に入った文はもはや「漢文」とは呼ばれない。
[編集] 日本
日本に初めて漢文が入ってきたのがいつかということをはっきり定めることはできない。しかし、『後漢書』には、57年に倭の奴国が後漢の光武帝に使して、光武帝により、奴国の君主が倭奴国王に冊封され金印を綬与されたという記事があり、江戸時代に発見された金印には「漢委奴国王」という漢字が刻まれていた。この記事からすると、当時の倭国の人々が全く漢文が分からなかったとは考え難い。
また、日本最古の歴史書である『古事記』の応神記には、
- 原文
- 故受命以貢上人、名和邇吉師。即論語十巻、千字文一巻、并十一巻、付是人即貢進。
- 現代語訳
という記述があり、さらに『古事記』と同時代の歴史書である『日本書紀』の応神紀の記事には、
- 原文
- 十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王遣阿直岐。(中略)阿直岐亦能讀經典。即太子菟道稚郎子師焉。於是天皇問阿直岐曰、「如勝汝博士亦有耶。」對曰、「有王仁者、是秀也。」(中略)十六年春二月、王仁來之。則太子菟道稚郎子師之。習諸典籍於王仁。莫不通達。
- 現代語訳
- (応神天皇)15年(西暦284年)の8月6日、百済王が阿直岐を遣わした。(中略)阿直岐は(儒教の)経典も読むことができた。そこで、皇太子である菟道稚郎子の先生にした。ここにおいて、天皇は阿直岐に「お前より優れているような博士はまだいるか」と訊ねた。(阿直岐は)「王仁という者がいまして、この者は優れています」と答えた。(中略)(応神天皇)16年(西暦285年)の2月、王仁が来た。ただちに王仁を皇太子である菟道稚郎子の先生にした。(皇太子は)諸々の典籍を王仁に習い、理解しないものはなかった。
という記述がある。この2つの記事が、日本の歴史書において、文字が伝来した最初の記録である。もっとも、この記事に書かれている事件が本当におきたわけではない。「千字文」は、6世紀前半に作られたものであり、5世紀前後の大王であったと考えられている応神天皇が手に入れられるはずがない。まして『日本書紀』で述べられているような3世紀後半ではなおさらである。しかし、この記事が全くの作り話かというとそうではない。
この記事は、漢文が入ってきたころは、渡来系の氏族が書記の任務にあたっていたということ、倭国土着の豪族たちは、渡来人たちに書記の仕事をさせていたということを示しているのである。また、『日本書紀』の記事で菟道稚郎子が漢文を習ったと書かれているように、非渡来系の豪族も、渡来系氏族から漢字・漢文を学んでいったと考えられている。このような導入されたばかりの時期の漢文は、中国本土の正則漢文の文法に従い、声調なども用いた中国語の発音に従って読んでいたと考えられている。
しかし、時代が下るにつれて、日本語を記すために漢字を用いようという動きや、外国語として漢文を読むのではなく、日本語として読めるようにしようという動きが出てきた。たとえば、春という漢字をそれまで中国語風にシュンと発音していたが、この「シュン」と意味が近いやまと言葉である「はる」と発音するようになった。さらに、漢字の並びを無視して、日本語の文法に沿った読み方をしていく。
- 子曰、吾十有五而志于學。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而從心所欲不踰矩。(『論語』巻一・為政第二)
といった文章をそれまでは、中国語音で読むだけであったが、
- しの のたまはく、われ とを あまり いつつ にして まなぶに こころざす。 みそぢ にして たつ。 よそぢ にして まどはず。 いそぢ にして あめの みことを しる。 むそぢ にして みみ したがふ。 ななそぢ にして こころの ほる ところに したがひて のりを こへず。
といったように、純然たるやまと言葉として読むようになった。このように、漢文を日本語ふうに読むことを訓読という。このことは、日本語を記すために漢字を用いるという動きにつながっていく。
漢文訓読体は奈良時代頃の言葉を基本にした独特の文体であり、日本語の書き言葉・話し言葉にも大きな影響を与えた。またその後長きに渡り日本の公用語として用いられ、戦前の法律にも仮名交じりではあるが漢文訓読体的な文体が用いられた。
漢字を用いた日本語の記し方には大きく2つあり、漢字の音を借りて表記する方法と、漢字の意味を借りて表記する方法がある。
- 漢字の音を借りて表記する方法(音)
- 下のやまと言葉を、
- やまとは くにのまほろば たたなづく あをかき やまごもれる やまとしうるはし
- このように、漢字の音を借りて表記する。
- 夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻登碁母礼流 夜麻登志宇流波斯(『古事記』景行記)
- 漢字の意味を借りて表記する方法(訓)
- この方法では、純粋漢文のように書き、それをやまと言葉として読む。しかし、やまと言葉として分かりやすいように純粋漢文の文法に反する文となることがある。こういった文を変体漢文という。
- 例えば、下の変体漢文を
- 悉言向和平山河荒神及不伏人等。(『古事記』景行記)
- 次のように訓読する。
- やまかはの あらぶるかみ および まつろはぬ ひとらを ことごとく ことむけやはす。
- さて、「言向和平」といった用法は本来の漢文の文法に従えば、ありえない。しかし、「ことむけやはす」というやまと言葉を表現するために、変体漢文にしているのである。
- 2つの方法の併用
- 以上で述べた2つの用法を混用することも可能であり、これが和漢混交体へとつながっていく。
- 新年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰(『万葉集』20巻)
- 太字の部分が、訓で、それ以外のところが音で読む。
- あらたしき としのはじめの はつはるの けふふるゆきの いやしけよごと