横浜港
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横浜港(よこはまこう)は、神奈川県横浜市の東京湾岸にある港湾である。行政上は京浜港横浜区と称する(京浜港は、他に川崎区(川崎港)と東京区(東京港)がある)。1859年7月1日(旧暦:安政6年6月2日)開港。金港の別称を持つ。
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[編集] 概説
横浜港は特定重要港湾に指定されており、関税法施行令上の開港(いずれも京浜港として)である。港湾管理者は横浜市。
横浜港が造られた横浜村は、開港以前、現在の関内付近の砂州の上に形成された小さな漁村だったが、開港により、東京の外港として、また、生糸貿易の中心港、京浜工業地帯の工業港として、大きく発展した。現在の横浜港は、入港船舶数は全国1位(43,400隻、平成17年)、海上出入貨物量は全国2位(1億3328万トン、同)、外国貿易額は全国3位(104億円、同)で、日本三大貿易港の一つに数えられる。
横浜は横浜国際港都建設法により、横浜を日本の国際港都とし、横浜港はその港湾機能を発揮できるように整備することを指導されている。また構造改革特区として、国際物流特区に認定され、近年は東京港と共に京浜港としてスーパー中枢港湾に指定されている。
[編集] 歴史
[編集] 神奈川湊
横浜港の原型は、かつて対岸に存在した神奈川湊(かながわみなと)にあると考えられる。神奈川湊は、武蔵国橘樹郡神奈川(現在の神奈川県横浜市神奈川区青木町付近)にあった。
神奈川湊は、中世から東京湾内海交通の拠点の一つとされていたと考えられている。鎌倉に幕府が置かれた13世紀以降、湾内の物流が活発になるとともに、神奈川湊も発展して行く。記録によれば、室町時代、1392年(明徳3年/元中9年)の段階で、東京湾の主要積出港の一つとして機能していたことが明らかになっている。神奈川湊とその湊町は、鎌倉時代には鶴岡八幡宮が支配し、室町時代には関東管領・上杉氏の領地となった。
その後、神奈川湊は、戦国時代には後北条氏の家臣である多米氏が支配し、1590年(天正18年)に徳川家康が江戸に入府した際には、その支配に入った。1601年(慶長6年)、神奈川湊の湊町は神奈川宿として東海道の宿場となり、以後、江戸幕府の直轄地とされた。
江戸の発展に伴い、全国各地からの物資輸送と江戸湾(東京湾)内海交通が活発となり、神奈川湊など湾内の各湊でも、廻船業(廻船問屋)を営む者が現れた。
[編集] 黒船来航と横浜開港
1853年(嘉永6年)、アメリカ合衆国のペリー提督率いる黒船が、浦賀沖に来航する(黒船来航)。翌1854年(嘉永7年)には、再度来航し、神奈川沖まで船を進める。幕府は、神奈川湊の対岸にある武蔵国久良岐郡横浜村に応接所を設置してペリー一行を上陸させ、協議に臨んだ結果、日米和親条約(神奈川条約)を締結した。その後、1858年(安政5年)には、神奈川沖のポーハタン号上で結ばれた日米修好通商条約(安政五カ国条約)により、「神奈川」の開港が定められた。
幕府は、松代藩士・佐久間象山、外国奉行・岩瀬忠震らの意見により、東海道に直結する神奈川宿・神奈川湊を避け、対岸の横浜村に開港場を新設することを決める。諸外国の公使は、あくまでも神奈川の開港を求め、神奈川宿周辺に領事館を開いた。しかし、開港後は居留地で取引が活発化して神奈川湊は衰退し、居留地が外国人向けに整備されるなど既成事実が積み重なり、諸外国も横浜開港を受け入れた。当時の横浜村は、砂州の上に形成された半農半漁の寒村ではあるものの、その沖はすぐに水深を増し、南に野毛山があるため風を防ぐ、天然の良港であった。とはいえ、短期間で居留地、波止場、神奈川運上所(税関)、神奈川奉行所などを整備し、東海道から横浜村に至る脇往還(よこはま道)を造成しなければならなかった。これらの事業や初期の町作りを担ったのは、神奈川宿・保土ヶ谷宿や周辺の村々の人たちだった。横浜開港の成功の背景には、神奈川湊及び同宿によって培われた経済的基盤が存在した。
1859年7月1日(旧暦:安政6年6月2日)、横浜港は開港し、貿易を開始した。横浜市は6月2日を開港記念日としている。開港に先立ち、幕府は横浜への出店を奨励する御触を出し、江戸の大商人や、神奈川湊など江戸湾内の廻船問屋のほか、全国から一旗揚げようと意気込む商人が集まり、横浜は急速に発展した。
[編集] 開港後の横浜港
開港当時、輸出品の外国商館への販売は「売込」と呼ばれ、輸入品の外国商館からの購入は「引取」と呼ばれ、それぞれ、売込商人・引取商人という横浜商人を通して取り引きが行われた。開港当初から明治初期までの、代表的な輸出品は生糸と茶であり、輸入品は綿糸・織物と砂糖などである。特に生糸輸出は、昭和恐慌期に至るまで、綿花輸入と並ぶ最大の貿易品であり、横浜は生糸貿易港として世界に名を馳せた。外国との貿易が拡大し、外国人居留地での取り引きが活発になると、外国の文化・技術も流入する。横浜は、その玄関口として、いち早く外国の文化・技術が採り入れられた。
明治20年代になると、横浜港の拡大と充実を目指して港湾施設の整備が行われる。1888年(明治21年)、外相・大隈重信が、首相・伊藤博文に対し、横浜港の港湾設備を整備するよう建言し、翌年から、イギリス陸軍工兵大佐・パーマーの監督の下、築港工事が始められた。この第1期築港工事では、内防波堤と鉄桟橋(大さん橋)が造られた。
明治30年代~大正時代は、日清戦争(1894年)を経て東洋最大の港となった神戸港に対抗できるようにすべく、埠頭や海陸連絡施設など大規模な港湾施設の建設が積極的に行われた時代である。1899年(明治32年)には、海陸連絡施設の整備を目指して、第2期築港工事を開始される(1917年まで)。赤レンガ倉庫と新港埠頭は、この時代に横浜市が政府に建設を働きかけて完成させたものである。以後、現在に至るまで、港湾施設の改良工事は度々行われている。
1926年(大正12年)、関東大震災が起こり、横浜港は壊滅的な被害を受ける。復興事業は、神奈川県と横浜市、生糸商などの横浜商人をはじめとする市民が、国の力も借りて進められた。この事業により、生糸検査所、ホテル・ニューグランド、神奈川県庁庁舎(キングの塔)、横浜税関庁舎(クイーンの塔)や、瓦礫を利用して造成した山下公園など、今の横浜を代表する建築、名所が造られた。事業のための巨額の資金は、アメリカでドル建て市債を発行して賄った。この膨大な負債は、その後長く市財政を圧迫した。
昭和時代に入ると京浜工業地帯が誕生し、その発展に伴って、横浜港は生糸貿易港から工業港となりつつあった。1935年(昭和10年)、日産は横浜市から買収した埋立地に本社工場を完成させ、自動車の生産を始めた。昭和初期は、製鉄、造船、自動車、電機などの軍需産業が発展し、横浜港はその重要な拠点となった。1941年(昭和16年)12月に太平洋戦争が始まり、横浜は翌1942年(昭和17年)4月18日にアメリカ軍から初空襲を受けた。その後、終戦までに、横浜は30数回の空襲を受けた。しかし、臨海部の工場敷地や港湾施設の被害は比較的軽かった。1945年(昭和20年)に終戦を迎え、横浜港と横浜の市街地(関内地区)は連合国軍に接収される。特に横浜港の港湾施設は、その90%までもが接収され、横浜の戦後復興を遅らせた。
1952年(昭和27年)、講和条約が発効し、横浜港の接収が解除され始める。それに先立つ1950年(昭和25年)に接収解除された高島ふ頭を足がかりに、京浜工業地帯と横浜の復興は始まり、外国貿易も回復し始めた。横浜港の外国貿易量は、輸入の激増により、1957年(昭和32年)には戦前のピークである1937年(昭和12年)を上回る。横浜港の輸入品は、戦後直後は食料品が占め、後には石油、金属、鉄鉱石、石炭が増加し、輸出品は鉄鋼、車両、機械類が占め、工業港としての性格を強めた。
1968年(昭和43年)、コンテナ専用埠頭である本牧ふ頭が造成され、コンテナ船が入港し始める。陸揚げされたコンテナはトラックに乗せられ、本町通りを通って各地に運ばれた。そのため、本町通はコンテナ街道と呼ばれるようになった。これにより渋滞が頻発したため、本町通を通らずに直接高速道路に入れるよう、横浜港周辺の道路整備が求められた。1989年(平成元年)、この道路整備の一環として、横浜ベイブリッジが建造された。横浜ベイブリッジは、現在では横浜港を代表する建築となっている。
[編集] 現在の横浜港
横浜港は、貨客船定期航路の衰退した1960年代後期以降、定期客船航路が少なくなり、いっぽうでは東京港の客船埠頭整備が進んだ為、東京港や川崎港がフェリー港としての役割を担ったことから、日本における主要な旅客港ではなくなっていた。クルーズ客船の寄港数も常に神戸港・東京港・大阪港より少なかった。市内からこの現状を憂う声があがり、この現状を打開すべく横浜市は、新しい国際客船ターミナルの竣工とワールドカップ日韓大会開催にあわせてクルーズ客船の寄港誘致に市をあげて積極的に乗りだした。その結果、2003年度の横浜港の日本船籍に限定したクルーズ客船の寄港数は、初めて国内第1位になり以降3年連続でその地位を堅持している。(ノート参照)。ただし外国航路の乗降客数は、大阪港や神戸港などに比べると少なく、大阪港の7分の1程度の規模でしかない。また内国航路の乗降客数は主要港である神戸港・東京港・大阪港の20分の1~30分の1程度の規模である。(ノート参照)
2005年データによると、横浜港は、入港船舶数は全国1位(43,400隻)、海上出入貨物量は全国2位(1億3328万トン)、外国貿易額は全国3位(104億円)の港である。埠頭は10箇所、岸壁は249である。
[編集] 年表
- 1392年(明徳3年/元中9年) 神奈川湊が湾内の主要港として記録に現れる。
- 1601年(慶長6年) 神奈川を東海道の宿場、神奈川宿とする。
- 1854年(嘉永7年) 武蔵国久良岐郡横浜村で、日米和親条約が締結される。
- 1858年(安政5年) 神奈川沖で日米修好通商条約が締結され、「神奈川」の開港が定められる。
- 1859年7月1日(旧暦:安政6年6月2日) 横浜港が開港する。同時に、神奈川運上所(現・財務省横浜税関)を設置。横浜村を横浜町と改称。
- 1888年(明治21年) 外相・大隈重信が、首相・伊藤博文に対し、横浜港の港湾設備を整備するよう建言。翌年から、イギリス陸軍工兵大佐・パーマーの監督の下、築港工事を始める。
- 1894年(明治27年) 鉄桟橋(大さん橋)竣工。日清戦争開戦。
- 1896年(明治29年) 横浜船渠第2号ドック(現・ドックヤードガーデン)が竣工。東西防波堤が竣工し、第1期築港工事が完工する。
- 1899年(明治32年) 条約改正実施により、居留地が廃止される。海陸連絡施設の整備を目指して、第2期築港工事を開始(1917年まで)。
- 1904年(明治37年) 日露戦争開戦。
- 1909年(明治42年) 開港50年祭が行われる。
- 1911年(明治44年) 赤レンガ倉庫完成(2号倉庫;1号倉庫は1913年完成)。
- 1914年(大正3年) 第一次世界大戦開戦。
- 1917年(大正6年) 新港埠頭完成。開港記念横浜会館(現・横浜市開港記念会館)竣工
- 1921年(大正10年) 5月、内務省横浜土木出張所横浜港修築工場(現・国土交通省関東地方整備局京浜港湾事務所)を設置する。
- 1923年(大正12年) 関東大震災で大きな被害を受ける。
- 1930年(昭和5年) 山下公園が開園される。
- 1934年(昭和9年) 3月、横浜税関現庁舎(クイーンの塔)竣工
- 1945年(昭和20年) 第二次世界大戦終戦。港湾施設の大部分が連合国軍に接収される。
- 1949年(昭和24年) 港湾施設の接収が解除され始める(瑞穂埠頭や新港埠頭の一部を除く。これらは現在もアメリカ軍が管理。)。
- 1950年(昭和25年) 横浜国際港都建設法(昭和25年法律第248号)が公布される。
- 1951年(昭和26年) 横浜市が港湾管理者となる。
- 1959年(昭和34年) 開港100年祭が行われる。
- 1961年(昭和36年) 横浜マリンタワー(高さ106メートル)が建てられる。
- 1964年(昭和39年) 初代大桟橋旅客ターミナル竣工。
- 1986年(昭和61年) 本牧ふ頭D突堤に横浜港シンボルタワーが建てられる。
- 1989年(平成元年) 横浜ベイブリッジ開通。
- 1990年(平成2年) 大黒ふ頭完成。
- 1991年(平成3年) みなとみらいさん橋(ぷかりさん橋)完成。
- 1994年(平成6年) 鶴見つばさ橋開通。
- 1996年(平成8年) 総合保税上屋YCC(Yokohama port-Cargo Center)オープン
- 2002年(平成14年) 大さん橋国際旅客ターミナルがリニューアルオープン。赤レンガパーク開業。
- 2004年(平成16年) 横浜ベイブリッジ下部(本牧-大黒間)に国道357号線開通
- 2005年(平成17年) 本牧BC間埋め立て完了、BCコンテナーターミナル全面供用
[編集] 港湾概要
[編集] 面積
- 港湾区域面積:7,315.9ha
- 臨港地区面積:2,828.4ha
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- 商港区:972.9ha
- 工業港区:1,697.7ha
- マリーナ港区:5.7ha
- 修景厚生港区:95.7ha
- 分区指定なし:56.4ha
- 参照外部リンク - 臨港地区・分区指定図(横浜市港湾局のサイト、JPGファイル)
[編集] ふ頭
以下10箇所のふ頭(埠頭)がある。
[編集] 岸壁
- 公共及び公社バース数:101
- 民間バース数:166
- 合計:249バース
[編集] 港勢
平成16年度
- 入港船舶数:42,252隻(うち外航船:11,214隻)
- 取扱貨物量:126,960千トン
- 貿易額:9兆8662億円
[編集] 航路
- 東海汽船
- ポートサービス
- シーバス (横浜駅東口-みなとみらい21ぷかり桟橋-赤レンガ倉庫-山下公園)
- 横浜港遊覧船 (みなとみらい21ぷかり桟橋・山下公園発着)
- 京浜フェリーポート
- 水上バス (大桟橋-日本丸-運河パーク)
- 横浜港遊覧船 (大桟橋・日本丸発着)
- レストラン船
- ロイヤルウイング - 横浜港クルーズ (大桟橋発着)
- クルーズ客船
- 飛鳥II(横浜を船籍港としている)、ぱしふぃっくびいなす、にっぽん丸等の国内外クルーズ客船がよく寄港する。
- チャータークルーズ
- ジール みなとみらい21ぷかり桟橋・東京(青海・天王洲)発着
[編集] 関連項目
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