文観
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文観(もんがん、弘安元年(1278年) - 正平12年/延文2年10月9日(1357年11月21日))は、鎌倉時代から南北朝時代の僧である。小野僧正。殊音、弘真。醍醐座主。
1302年(正安2)には般若寺の律宗の僧で、西大寺に属する播磨国北条常楽寺(兵庫県加古川市)、大和国笠山竹山寺(奈良県桜井市笠)などで真言律を学ぶ。1316年に醍醐寺報恩院の道順から灌頂を受ける。邪教とされていた真言宗立川流の僧としても知られ、円観(恵鎮)とともに遁世僧で貧民救済なども行っている。後醍醐天皇に重用されて醍醐寺座主・天王寺別当となる。1324年(元亨4)には般若寺に文殊菩薩像を造り、1326年から後醍醐中宮藤原禧子の御産祈願と称して鎌倉幕府の調伏などを行っていた事が発覚し、1331年(元徳2)には逮捕され硫黄島へ流罪となる。1333年(正慶2/元弘3)に元弘の変の後に鎌倉幕府が滅亡すると京都へ戻り、建武の新政から南北朝時代となっても後醍醐方に属して吉野へ随行し、東寺長者、大僧正となる。河内国天野山金剛寺(大阪府河内長野市)で没、享年80。
日野俊基の抜擢や河内の悪党として知られる楠木正成と後醍醐天皇を仲介した人物とも考えられている。