木寺宮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
木寺宮(きでらのみや)は、鎌倉時代から室町時代中期にかけて存続した宮家。常盤井宮家に次いで、世襲親王家の体裁を備えていた。始祖は後二条天皇の皇子である皇太子邦良(くによし)親王、初代はその嫡男の康仁(やすひと)親王。邦良親王以下の代々の殿宅が洛西の葛野郡木寺(仁和寺付近)にあり、宮家号の由来となったが、経済的に衰微した後は、遠江国に移ったともいわれる。
後宇多法皇は、孫の邦良親王を大覚寺統の正嫡と定めて御領を譲与し、尊治親王の御領も将来は邦良親王に譲与すること、尊治親王が即位しても一代に限り、その子孫は親王として邦良親王の一流に臣事することを処置した。1318年、尊治親王に皇位が移ると(後醍醐天皇)、邦良親王は皇太子に立てられたが、鎌倉幕府との交渉が膠着し、即位することなく薨去した(1326年)。
次いで邦良親王の子・康仁親王が光厳天皇(持明院統)の皇太子に立てられるが、1333年に鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇が隠岐島から京都に還幸すると、光厳天皇の即位は取り消されて、それに伴い康仁親王も皇太子を廃された。更に、後醍醐天皇は傍流にもかかわらず、自己の子孫による皇統独占に執着し、康仁親王の皇位への道をことごとく閉ざした。大覚寺統の血筋であるはずの木寺宮が持明院統(北朝)寄りの立場を取るようになったのは、このためである。 『康富記』によると、康仁親王の後の木寺宮は、邦恒王 ─ 世平王 ─ 邦康親王と3代を経て、室町時代中期まで存続した(邦恒王・世平王は早世したため、親王宣下を受けた記録がない)。邦康親王の子には師煕親王(静覚入道親王)などがいるが、以後の子孫は確認されていない。なお、先の康仁親王については、南朝方荘園の入野(静岡県浜松市)に下向し龍雲寺を興し、そこに落ち着いたという伝承があって、親王の屋敷跡 ・墓所 ・真影とされるものが寺内に伝存している。親王が京都付近で没したことは『園太暦』に記されているので、伝承には疑問も残るが、少なくとも子孫の木寺宮が入野に下向した事実はあったのだろう。
龍雲寺古文書では康仁親王は次男を出家させ京都相国寺を創建した普明国師の元で修行をさせる。親王は当時南朝荘園だった入野に下向し御館を建立、四百余石を所領し、さらに御館横に祈祷所を建立し開基となる。この時、普明国師を勧請開山、次男(明庵察公)を実質初代住職として迎える。 康仁親王は正平十年に三十六歳で亡くなる。龍雲寺境内地には御墳墓五輪塔が残っている。康仁親王が京都で没した事が事実であれば開山後京都へ戻り没し、遺骨の一部か全てかを龍雲寺に運んだと考えられる。その後、木寺宮家は静覚入道親王まで続くが、その後の赤津中務少輔に至までの二代の方が不明である。この不明の方(六代目か七代目)のどちらかが再び入野に下向したとされる。赤津中務少輔の次男(弟説あり)円堂瑞椿は龍雲寺住持についている。 地方に下った宮家の例としては他に五辻宮が挙げられる。
『龍雲寺文書』によれば、永禄~天正の頃、当寺に「大宮様」が住んでいたが、武田方の軍役を務めていたため、徳川家康に攻められ、寺を焼いて信州に逃走している(1580年)。「大宮様」とは赤津中務少輔のことで、木寺宮(康仁親王)の8世という。皇族の子孫であることは間違いないだろうが、その詳細は不明である。大沢基宿の母と伝わる木寺宮と知久頼氏の妻は赤津中務少輔の娘ある。