飯島秀雄
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飯島 秀雄(いいじま ひでお、1944年1月1日 - )は、日本の陸上競技短距離選手、プロ野球選手。走塁のスペシャリストとしてロッテオリオンズに入団し話題を呼んだ、元100m走日本記録保持者。プロ野球選手時代は、利き腕が左投右打、ポジションが外野手、背番号が88。
[編集] 来歴・人物
茨城県水戸市出身。茨城県立水戸農業高等学校に入学後、陸上部で短距離走の選手となる。その後、目黒高等学校(現・目黒学院高等学校)陸上部監督の大和田稔に素質を見出され転校。当時の100m走日本記録保持者吉岡隆徳のコーチを受ける。
早稲田大学教育学部進学後、ロケットスタートの異名を取るダッシュで頭角を表し、1964年6月26日、西ベルリンの国際陸上競技会で100m10秒1を記録し、吉岡の持つ日本記録(10秒3、当時の世界タイ記録)を29年ぶりに更新した。しかし同年の東京オリンピックでは準決勝で敗退した。早大卒業後茨城県庁に入庁、1968年のメキシコオリンピックでメダル獲得を狙うも、またしても準決勝で力尽きた。このときの記録は電気計時で10秒34であったが、なぜか長らく公認されなかった。
1968年シーズン終了後のドラフト会議でロッテが9位指名、永田雅一オーナーの説得もあり入団、5000万円の保険を足にかけて話題を呼んだ。なお、中学校時代は野球部に所属しており、野球と全く無縁だったわけではない。
代走専門選手としては他球団の徹底したマークにあい、1969年から1971年の3年間で117回代走に起用され、盗塁成功23、盗塁死17、牽制死5という結果に終わった。この結果は「盗塁には足の速さだけではなく技術も必要」という実例としてよく引き合いに出される。その他、通算得点は46、打撃では二軍で1回だけ打席に立ち、三球三振であった。
しかし、代走専門選手として話題性は高く、不入りに苦しんでいたロッテの観客動員に貢献している。また飯島が塁上にいることで相手投手の集中力が殺がれたことによるものか、飯島が塁上にいるときの通算チーム打率は.424(151打数64安打)を記録している。
現役引退後、1年間ランニングコーチを務めた後退団。いくつかの職を経て、水戸市内で運動用具店を経営したが、1983年8月27日、東京都新宿区四谷の都道で、筑波大学講師の城生伯太郎の長女(5歳)をはねて死亡させた。裁判で懲役1年2ヶ月の実刑判決を受け服役する。服役中だった1984年、日本陸連はメキシコオリンピックでの記録を16年ぶりに公認日本記録とした(その時点での電気計時の日本記録は10秒40だった)。この年はかつての師であった吉岡が逝去、その翌日に不破弘樹が飯島と並ぶ日本タイ記録を叩き出すなど、飯島の名前が出る機会が多かった。社会復帰後は陸上競技のスターターなどを務めている。1991年の世界陸上選手権の男子100m決勝で、カール・ルイスが9秒86の世界記録を樹立し優勝した際のスターターでもある。