アレクサンドル・リトビネンコ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アレクサンドル・ヴェルタロヴィチ・リトビネンコ(ロシア語:Александр Вальтерович Литвиненко、1962年8月30日 - 2006年11月23日) は、元ロシア市民で、ソ連国家保安委員会(KGB)、ロシア連邦保安庁(FSB)の元職員。階級は元中佐。
目次 |
[編集] 経歴
1962年にロシアのヴォロネジに生まれた。1980年、中学校卒業後、軍に召集。
1988年からKGBの防諜部門に勤務。1991年からロシア保安省(MB)、ロシア連邦防諜庁(FSK)、FSBの中央機構で勤務。専門は、テロ対策と組織犯罪対策。1997年、FSB組織犯罪組織工作・活動阻止局の先任作戦職員、第7課副課長。
1998年11月、局の同僚7人と共に記者会見を開き、1997年11月に局長エフゲニー・ホホリコフ少将とアレクサンドル・カムイシュニコフ大佐がボリス・ベレゾフスキーとミハイル・トレパシュキンの暗殺を口頭で指示し、彼らは、命令を拒否したと発表した。また彼は、FSBの一部幹部職員が政治的脅迫や契約殺人(つまり殺し屋)などの犯罪活動にFSBを利用していると告発した。それ以来、彼は脅迫を受けるようになった。ウラジーミル・プーチンは当時、FSB長官を務めていた。
1999年3月、権限踰越の容疑で逮捕され、レフォルトヴォ拘置所に収監。同年11月、無罪となったが、無罪判決の言い渡し直後にFSB職員により別件逮捕され、ブトゥイルスカヤ刑務所に収監。2000年、犯罪構成要件の不在により裁判は停止されたが、3度目の刑事告発が行われた。今度は、出国しないという条件の下で釈放された。
2000年11月1日に彼は、政治的弾圧を非難して、ロシアからトルコ経由でイギリスに亡命した。このため、4度目の刑事告発が行われ、2002年、欠席裁判において禁固3年半(執行猶予1年)の判決が下された。2006年10月にイギリスの市民権を得た彼は、ロシアのプーチン政権と、チェチェンに対するロシア政府の対応を徹底的に批判する。
2002年に Yuri Felshinsky,Geoffrey Andrewsと『Blowing Up Russia:Terror From Within』を共著。そのなかで彼は、「1999年にモスクワなどロシア国内3都市で発生し、300人近い死者を出した高層アパート連続爆破事件は、チェチェン独立派武装勢力のテロとされたが、 実は第2次チェチェン侵攻の口実を得ようとしていたプーチンを権力の座に押し上げるためFSBが仕組んだ偽装テロだった」と証言した。
- その証言を裏付けるような事件も発生している。連続爆破事件の真っ只中の1999年9月22日、リャザン市の集合住宅の地下で、ナンバーの最後の2桁の部分に紙が貼ってある不審車に乗った男女3人を住民が目撃し警察に通報、駆け付けた地元警察が時限爆弾を発見する事件が発生した。警察の爆弾処理専門家は探知機で、非常に強力な軍用爆薬「RDX」反応を確認し、爆弾を処理。地元警察は非常線を張り道路と鉄道を封鎖した。通報した住民は「不審者3人は間違いなくロシア人。チェチェン人ではない。」と証言。その後、「リャザンから脱出できない」とモスクワへ長距離電話をかけた男の会話の一部を地元電話局のオペレータが偶然耳にし、警察に通報。警察が通話記録を調べたところ通話先はFSBだったことが判明した。[1]警察がその後逮捕した不審者2人は、モスクワからの命令により釈放された。[2] 事件から2日後の24日、FSB は「訓練のために仕掛けたダミー爆弾。火薬のように見えた袋詰めの白い粉は砂糖だった。警察の爆薬探知機は故障していた。」と発表した。[3] しかし、爆弾処理に当たった警察の専門家は、事件の数ヶ月後、新聞社のインタビューで、「爆弾は間違いなく本物」「信管と時限発火装置は軍用」「探知機は間違いなくRDX反応を確認」「2万ドルもする爆薬探知機は世界クラス。命にかかわることなので専門家が日頃から厳重に点検・テストしており故障はありえない。」と証言した。FSBはアパート事件も自作自演ではないかとの疑いを持たれることとなる。2000年1月18日付のモスクワの英字紙「モスクワタイムス」はFSBが、ロシア人の反チェチェン感情を煽る目的で実行した可能性がある、と指摘した。事件を調査していた弁護士のミハイル・トレパシュキンは逮捕され、今も収監中。[4]
アパート爆破事件の直前に発生し、ロシア軍のチェチェン侵攻のきっかけとなったチェチェン武装勢力のダゲスタン侵攻に関しては、過激派指導者シャミル・バサエフが関与を認めているが、アパート爆破事件に関しては、バサエフは関与を否定している。
同年の「ルビヤンカの犯罪集団」(Gang from Lubyanka, Лубянская преступная группировка)(2002年)ではプーチンがFSB時代、自ら組織犯罪に手を染めていたと暴露。
2003年には豪テレビ局の取材に対し、モスクワ劇場占拠事件の疑問点を指摘し、犯行グループの内2人はFSBの工作員だった可能性を指摘した。[5]
彼は、FSBでの活動に多くの経験をもつ一人であるため、プーチン大統領に対する彼の批判をよく思わない敵がいるモスクワからの手配者リストに載っているとされていた。
[編集] 中毒死事件
2006年11月1日に、彼は、プーチン政権に対し、批判的な報道姿勢で知られたジャーナリスト:アンナ・ポリトコフスカヤの射殺事件の真相を究明する為、イタリア人教授:『マリオ・スカラメッラ』と名乗る人物と、ロンドンのピカデリーサーカス周辺の寿司レストランで会食後、体調が悪化、病院に収容された。 11月19日、イギリスのマスコミは、タリウム中毒が疑われ、プーチン政権による毒殺未遂の可能性が濃いと報道、翌日リトビネンコ氏は集中治療室に移された。ロンドン警視庁(スコットランドヤード)の対テロ捜査部門は、毒殺が企てられたものとして捜査を開始。11月22日病院側は,毒物はタリウム以外の放射性物質であると発表した。
ロシア大統領府のペシコフ副報道官は、「リトビネンコ氏の毒殺未遂事件にロシア政府が関与するなどあり得ない。全くばかげたことだ」と反駁した。
彼は、集中治療室に収容されていたが、11月23日に死亡した。享年44歳。
11月24日のBBC放送は、彼の体内から、ウランの100億倍の比放射能を有する放射性物質のポロニウム210が大量に検出されたと報じた。大量のポロニウム210を人工的に作るには、原子力施設など大がかりな設備が必要とされる。英外務省は同日、フェドトフ駐英ロシア大使を通じ、事件関連情報の提供をロシア政府に要求した。
25日付の英紙タイムズは、英国内務省の防諜機関で国内の治安を担当する情報局保安部(MI5/SS)と英国外務省の対外諜報機関:情報局秘密情報部(MI6/SIS)も捜査に加わったと報道。同紙は、「動機、手段、機会の全てがFSBの関与を物語っている」と指摘した。捜査当局は同日、リトビネンコ氏の自宅と同氏が事件当日に紅茶を飲んだといわれるロンドン市内のホテルと寿司屋を捜索し、この3カ所で放射性物質の痕跡を確認。英内務省と健康保護庁は緊急ホットラインを設け、寿司屋やホテルのバーを利用した市民に放射能を探知するための尿検査を受けるよう呼びかけた。
ロンドン警視庁は27日、プーチン大統領と敵対し、同国に亡命しているロシアの政商ベレゾフスキーの事務所から、ポロニウム210の痕跡が検出されたと発表した。ロシア国内では、同氏が毒殺に関与したとの見方が強い。[6]
29日付のロシア紙イズベスチヤは、リトビネンコが核物質密輸を行っていた可能性があると報じた。
11月29日、英国の航空会社:ブリティッシュ・エアウェイズ(BA)は、欧州便22機から、少量の放射線反応があったことを発表、10月25日以降の合計221便に搭乗した合計3万3000人余りに対し、保健省緊急窓口への連絡を要請した。便名は自社のウェブサイトで公表している。
21日に作成されたリトビネンコの遺書は、25日に公表された。その遺書のなかで、プーチン大統領を名指し、「冷酷者プーチンよ、あなたは一人の人間を黙らせることに成功したかもしれない。だがプーチンよ、あなたの耳には終生、世界中の人々の抗議の声が響き続けよう」と警告。更に、「あなたは、自らの野蛮で冷酷な一面を示したのだ」と指摘して、プーチン大統領を激しく糾弾した。
[編集] 著書
- 「FSBがロシアを破壊する」(2001年、ニューヨーク。ユーリー・フェリシュチンスキーと共著。)
- 「ルビヤンカの犯罪集団」(2002年)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- BBC report on poisoning
- Sunday Times report on poisoning
- Telegraph report on poisoning
- Guardian report on poisoning
- Terror99 Information on the Russian apartment bombings and books by Aleksander Litvinenko