日本の鉄道史
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日本の鉄道史(にほんのてつどうし)では、日本の鉄道の展開過程について述べる。なお年表に関しては、鉄道の歴史 (日本)を参照のこと。
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[編集] 日本の鉄道の歴史
[編集] 草創期
日本の鉄道史は、幕末にエフィム・プチャーチンやマシュー・ペリーなどが鉄道模型を持ち込み、日本人に見せ走らせたことで始まったと言える。イギリスを端緒とする鉄道開業の情報そのものは、それ以前にも長崎にある出島のオランダ人から伝えられていたが、実物の模型を見たときの衝撃は大きかったと言われ、佐賀藩のようにその模倣で自製の模型機関車を製造し、現実の鉄道敷設計画を立てるところまで現れたほどであった。
その後、薩摩藩や江戸幕府などでも鉄道敷設計画が立てられ、実物機関車を長崎でイギリスがデモンストレーションのため走らせるということも行われたりしたが、実際に敷設計画が具体化したのは明治維新後のことである。
明治2年(1869年)、明治新政府は鉄道建設の廟議を行い、その鉄道敷設計画に基づき明治5年(1872年)、新橋(現在は廃止された汐留貨物駅)~横浜(現:桜木町)間に、日本が初めて建設した鉄道が開業した。以上に関して詳しくは、日本の鉄道開業を詳しくは参照のこと。
なお当初、鉄道頭の井上勝などは鉄道の原則国有を主張していたが、西南戦争などによって政府の財政が窮乏してしまったため、この頃までに開通していた鉄道は新橋駅~横浜駅間の他、北海道の幌内鉄道(後、手宮線・函館本線の一部・幌内線)や釜石鉱山鉄道、それと大津駅~神戸駅間にとどまり、これでは延々として鉄道整備など進まない事が予想されたことから、岩倉具視や伊藤博文を中心として、私有資本を用いての鉄道建設を望む声が強くなっていき、結局政府の保護を受けた半官半民の会社として「日本鉄道」が創立された。
日本鉄道はまず東京から養蚕地の群馬県へ向かう鉄道路線より建設をはじめ、1883年(明治16年)7月28日に初の路線である上野駅~熊谷駅間を開業させた後、1884年(明治17年)8月20日に前橋駅まで延長、更に1891年(明治24年)9月1日には現在の東北本線にあたる上野駅~大宮駅~仙台駅~青森駅間を開業させるなど、短期間で急速に路線を延ばしていく事になった。
日本鉄道の営業成績は政府の保護を受けたこともあってよかったため、以後山陽鉄道・九州鉄道など幹線の整備を行う私鉄会社が、同じ様な方式で次々と誕生する事になる(なお上記に北海道炭砿鉄道と関西鉄道を加えたものは、明治の五大私鉄と呼ばれる)。この動きは1890年頃に一旦沈静化するが、その後、中規模から小規模の路線を運営する会社が設立されるようになり、1906年(明治39年)の鉄道国有法公布までその流れは続いた。一方、国有鉄道(国鉄)でも紆余曲折がありながら路線整備が進められ、1889年(明治22年)7月1日には現在の東海道本線を全通させたりしているが、その路線の多くは上記私鉄の補助的役割を果たすものになった(現在の信越本線・奥羽本線など)。
なお山陽鉄道では、瀬戸内海航路との競争を強いられたという事情もあり、日本初のさまざまなサービスを生み出している。1897年(明治30年)の入場券、1898年(明治31年)の列車ボーイ、1889年(明治32年)の食堂車、1900年(明治33年)の寝台車などがそれであり、国有鉄道も追随して同種のサービスを取り入れた。
また都市交通機関としては、1882年(明治15年)開業の東京馬車鉄道を端緒に、馬車鉄道がまず誕生した。しかし餌や糞尿の問題もあり、世界的な趨勢に従って、電車を用いた軌道交通―すなわち路面電車へまもなく切り替えられることになる。最初の例は1895年(明治28年)開業の京都電気鉄道であった。
さらには電車の機動性を用いて、都市間交通に用いようという考えも生まれる。これはアメリカのインターアーバンに倣ったものであったが、1905年(明治38年)の阪神電気鉄道を端緒に、関西や関東を中心にして、いくらかの会社・路線が生まれた。これらの多くは、現在の私鉄各線の源流にもなっている。名古屋鉄道の前身である名古屋電気鉄道のように、路面電車を郊外電車に発展させるものも現れた。
また1904年(明治37年)には、軌道でなく鉄道に準拠する路線では初の電車運転を、甲武鉄道が開始している。近郊区間では、蒸気列車より電車列車のほうが優位であることは明らかとなり、南海鉄道など国有化を免れた私鉄では、明治末より電車の投入を開始した。
上記に関して詳しくは、日本の鉄道史 (明治)を参照のこと。
[編集] 鉄道国有化から戦前黄金時代まで
当初はこれら私鉄中心での鉄道建設が盛んであったが、日清・日露戦争を契機に軍事的理由から国家による一元的な鉄道の管理が要請されるようになり、1906年(明治39年)に鉄道国有法が公布され、日本の多くの幹線鉄道が国有化される。これにより、国有鉄道と私有鉄道の比率は逆転し、以後の鉄道史は国鉄主導で進むようになる。
しかしその一方で、新たな私鉄の敷設計画が沈静化するという弊害を招いた。国有化で多くの金を使った国としては、地方における鉄道整備にまで資金を回せる状況ではなかったため、軽便鉄道法を交付して軽便鉄道と呼ばれる、簡易規格の鉄道敷設を奨励するようになった。
また甲武鉄道の国有化で、国鉄も電車運転をおこなう事業者(国鉄電車を略して国電と呼ばれる)となったが、1915年(大正4年)には京浜間の電化を完成させるなど、都市周辺を中心にして本格的に乗り出すようにもなった。
なお、この頃から狭軌を標準軌に改めるなど、既存路線の強化を国による鉄道整備の中核に据えようという「改主建従」派と、既存路線の整備よりも先に、全国に鉄道網を形成するのを優先させようという「建主改従」派の対立が増していく(日本の改軌論争も参照)。さらには、地方の鉄道敷設を支持確保の道具にしようと、国鉄に対する政治の介入が行われるようになり、問題になり始めたのもこの頃である(鉄道と政治も参照)。1925年(大正14年)に公布された改正鉄道敷設法もその一つで、多くの予定線が盛り込まれたものの、優先順位をどうするかなどの具体的なことが記されておらず、後に国鉄のローカル線敷設・廃止問題を引き起こす要因となった。
また私鉄では、前述したインターアーバン型路線の拡大・発展が顕著になりつつあった。小林一三が率いた阪神急行電鉄では、沿線開発や百貨店などの副業を路線敷設とセットで行うなど、現在の日本における鉄道経営のモデルを作り出している。また東武鉄道や参宮急行電鉄など、100kmをゆうに越す長距離運転を行う会社、阪和電気鉄道や新京阪鉄道など、現在でも遜色ないほどの高速運転を行う会社も現れた。また都市交通機関としても、路面電車のほかに地下鉄(1927年、東京地下鉄道を初とする)やトロリーバス(1928年、日本無軌道電車が初)などが出現した。地方路線でも、1921年(大正10年)に初めてガソリン気動車が好間軌道で導入されるなど、近代化の試みは少しずつながら、進められた。
なお戦前、日本が領有していた朝鮮・台湾・樺太などの鉄道も日本の手によって建設された(それぞれ、大韓民国の鉄道・台湾の鉄道・樺太の鉄道を参照)。また満州においては、日露戦争で権益を得て設立された南満州鉄道が現地の開発を進め、「あじあ号」のような豪華列車も走らせた。
鉄道国有化による買収が終了した後も、小規模ながら私鉄が国有化される事例があった。多くは改正鉄道敷設法に記された路線に該当するという理由によるものであったが、第二次世界大戦中には戦時買収私鉄として、国策上必要な産業用路線を有する路線も国有化対象になっている。残存私鉄においても、戦時体制の下では地域ごとに集約する方針が1938年(昭和13年)の陸上交通事業調整法により定められ、東京急行電鉄(大東急)や近畿日本鉄道(近日、今日の近鉄)のような巨大会社も出現した。
以上詳しくは、日本の鉄道史 (大正-昭和前半)も参照のこと。
[編集] 戦中と終戦直後の状況
日中戦争~太平洋戦争(第二次世界大戦)の勃発に伴い、鉄道は戦時体制に組み込まれ、前述した産業用鉄道国有化や私鉄統合の他にも、「不要不急の旅行」を抑制する動きが目立つようになっていく。満州・中国方面への視察、伊勢神宮や橿原神宮などといった「皇国史観教育」・「武運長久祈願」による聖地参拝旅行といった例外も当初は存在したが、軍需輸送を優先させるために国鉄においては1943年(昭和18年)2月以降は旅客列車の削減が行われるようになり、1944年(昭和19年)には特急列車・一等車・食堂車・寝台車が全廃された。このことは、戦況の悪化が総力戦体制を、それまで見逃されていた特権階級(将校や財界人など)にも次第に強いるようになっていったことを示すものでもあった。
サイパン島陥落以後、鉄道施設に対する空襲も本格化するようになり、また走行中の列車が艦載機の攻撃を受け、死者を出した事例もいくらか発生した。ただ、破壊された後に復旧が困難になる鉄橋に関しては、何故か大きな攻撃を受けることが無かった。戦争の結果、沖縄の鉄道のように全滅する所も出るなど、日本の鉄道網は甚大な被害を受けた。しかし復旧へ向けての関係者の取り組みは早く、東京大空襲の翌日には一部の国電が動き、広島原爆投下の2日後には山陽本線、3日後には広島電鉄の一部区間が営業を再開したほどである。そして1945年(昭和20年)8月15日という玉音放送があった日も鉄道の運行は続けられ、国民を立ち直らせるのに一役買ったとも言われている。また、進駐してきたアメリカ軍が当初日本の鉄道は運行不可能になっていると予想し、ディーゼル機関車や貨車をフィリピン経由で輸入する事にしていたが、鉄道が曲がりなりにも動いているのを見て驚き、それを中止させたという逸話も残っている。
空襲の他、戦後には敗戦のショックに伴う乗客の道徳荒廃も要因となり、多くの設備・車両が破壊されたが、資材不足により復興は遅々として進まなかった。しかし、復員列車や買い出し列車など旅客の需要は急増し、その一方で石炭不足から列車は戦時中より削減された。その結果、旅客需要に答えるために過度の運行をせざるを得ず、鉄道事故も相次いだ。だがそのような下でも、進駐してきた連合軍に関する輸送は最優先で行う必要があり、当時の日本人には縁が無いほど豪華な設備を備えた連合軍専用列車が、全国で運行されるようにもなった。
[編集] 復興から躍進の時代
1949年(昭和24年)に国鉄(当時は運輸省)はGHQの指導の下、「公共事業体日本国有鉄道」に改編される。しかし経営の自主性が薄いなど、構造に欠陥が見られ、後に労使問題やローカル線問題に振り回される要因となった。
なおこの年、下山事件・三鷹事件・松川事件などの怪事件が立て続けに発生し、不穏な世相をあおる一方で、戦中に廃止されていた特急列車の復活、食堂車・一等車の営業が再開(寝台車は前年末に再開)されるなどといった、復興に向けての明るいニュースも見られた。
また私鉄でも、私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)や過度経済力集中排除法の公布に合わせるようにして(両法の直接的な適用事例は無い)戦時統合会社の一部が解体される一方で、1947年(昭和22年)の近鉄を初として、小田急電鉄や東武鉄道が優等列車の運行をこの頃再開するといった動きが見られた。
戦後になると、戦前は陸軍が「変電所の爆破により運行不能になる恐れがある」と主張して、進展してこなかった幹線の電化が、本格的に推し進められるようになる。例をあげると、1956年(昭和31年)に東海道本線、1964年(昭和39年)に山陽本線、1968年(昭和43年)には東北本線の電化が完成した。また、蒸気機関車の全廃が1954年(昭和29年)制定の「動力近代化計画」において制定され、1975年(昭和50年)までに完了させることになった(実際には、入換機が残存して1976年までずれ込むが。日本の蒸気機関車史も参照)一方で、従来からの機関車方式(動力集中方式)から電車・気動車といった動力分散方式への移行も、この頃より本格的にはじめられることになった。1949年(昭和24年)の80系電車投入、それに1957年(昭和32年)の90系(後の101系)電車、1958年(昭和33年)の20系(後の151系)といった新性能電車の開発などが、代表的なものといえた。
1964年(昭和39年)には東海道新幹線が開業し、さらに日本の長期的な高度経済成長に伴って全国的に大規模な路線拡充が進められる。特別急行列車や寝台列車が全国に走り始め、新幹線だけでなく在来線でも、日本の鉄道技術は大きな発展を見るのである。
この頃になると大都市圏、特に首都圏の鉄道通勤が混雑を極め、慢性的な輸送力増強が問題視されるようになる。これに対し、国鉄は輸送力増強のため「通勤五方面作戦」によって首都圏の鉄道の複々線化を進め、首都圏の鉄道もほぼ現在の水準に達することになった。国鉄末期ごろには山陽新幹線が博多まで延伸され、東北・上越新幹線が開業する。
[編集] 国鉄の分割・民営化
しかしながら、全国的な路線の整備や新幹線の建設、さらに「通勤五方面作戦」に投じた費用は莫大な額にのぼり、慢性的な国鉄の赤字も手伝って膨大な負債を生むことになる。また、当時極度に悪化・慢性化していた国鉄労組による労働争議が頻発していたことから、それらの改革のため、国鉄の民営化による負債の清算および自由化が行われることになる。1987年(昭和62年)4月に国鉄分割民営化が実施され、JRグループが発足する。
[編集] 現在と、未来への課題
JR発足後、JR各社は次第に独自の経営方針を見せ始め、バブル景気によって当初サービスの向上が図られ、民営化の成果が出たと評価された。しかしながら、バブル崩壊による大規模なリストラとともに次第にサービスは簡素化され、現在に至るまで、新幹線食堂車の廃止、寝台列車の削減、ローカル路線の廃止など、サービス水準は低下しているとの声もある。
日本では膨大な旅客運輸需要がある一方、貨物運輸はそのほとんどがトラックによって担われ、モーダルシフトが叫ばれる一方、トラック業界の貨物の鉄道へのシフトはなかなか進んでいない。
また、福知山線脱線事故でクローズアップされたように、運用面の都合や効率を過度に追求した結果、合理化に伴う人員整理で、安全意識や人材育成が著しく等閑にされていたのではないか、との指摘もある。事実、新卒採用がなかった時期があるなど経営改善に偏重しすぎた面も見受けられた。これは、JRに先んじて合理化を行っている、私鉄各社にも同様に問題の種はあり、利益と引き換えに安全性を犠牲にするようなことはあってはならない。日本の鉄道は、安全性やダイヤ面で世界トップレベルであるとはいえ、その信頼性が揺らぐような事態は看過することができない事象である。
しかしながら、安全への設備投資にも、また莫大な費用はかかるのも事実である。都市部路線に限ってはJRや大手私鉄が新型ATSなどの安全装置導入を推進する一方で、採算性の問題から設備投資の進まないローカル線がある。
また、それら新生JRから切り離された形の第三セクター型地方路線の問題とは別に、バブルの過渡期に、大都市で多く計画、開業する、国鉄・JRと関係しない形で発足した第三セクター型新都市交通の赤字問題も深刻である。楽観的な需要見込みにより建設されたが、予想ほど輸送需要が伸びず、未だ採算の目処すら立っていない路線も多く、通勤路線として建設されたものの廃止された新交通システム(桃花台新交通桃花台線)もある。
失敗例の一方、ゆりかもめ、つくばエクスプレス線のように、数少ないながら採算に成功しつつある第三セクターの新線もあり、計画と需要の見定めさえできれば、決して鉄道輸送自体が陳腐化したわけではない。ただ、全国的には、脱公共事業の流れ、そして根本的な財政悪化の影響で、各地の計画線の多くは計画撤回、もしくは変更が検討されている。莫大すぎる投資や、飽和状態の大都市沿線事情を鑑みれば、それもやむなしであろう。
なお、新幹線については、JR側が採算で難色を示している部分もあるにもかかわらず、地方の請願など政治上で希望されている事情もあり、鉄道全般の問題点とはやや趣が異なる。新幹線、整備新幹線を参照されたい。
いずれにせよ、20世紀の日本が、世界でも類を見ないほど鉄道と共に発展してきたのは事実である。広域交通が日本においては鉄道会社が不動産事業や住宅開発が行われ(良質な住宅供給に成功した地域もあるが無秩序なスプロール化につながった例も少なくない)、あるいは小売・流通業をしばしば手がけていたこと、アメリカ合衆国においては時間帯の整備の必要性をもたらしたこと、全国紙のような広域メディアの発行を可能にしたことなど、社会のあり方が鉄道と密接に結びついている例は多い。
[編集] 関連項目
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