エフィム・プチャーチン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エフィム・ワシリエビッチ・プチャーチン(Евфимий Васильевич Путятин, Jevfimij Vasil'jevich Putjatin, 1803年11月8日 - 1883年10月16日)は、ロシア帝国(ロマノフ朝)の海軍軍人、政治家、文部大臣(在任期間:1861年6月26日 – 1861年12月25日)。
[編集] 経歴
ロシア出身で、1822年に海軍士官学校を卒業して1842年に海軍少将となった。このとき、ペルシアとの国境画定、通商条約交渉で功績を挙げている。1852年、海軍中将・侍従武官長に栄進し、同時に日本との条約締結のために遣日全権使節に任じられた。そして1853年、ペリーに遅れること1ヵ月半後の7月18日、4隻の艦隊を率いて長崎に来航したのである。
1度目の交渉では幕府側から拒絶され、さらにクリミア戦争に参戦したイギリス軍が極東のロシア軍を攻撃するため艦隊を差し向けてきたため止む無く上海に引き揚げた。しかし翌年に再来航して粘り強い交渉を行ない、遂に日露和親条約の締結に成功を収めた。その直後の安政東海地震で旗艦であるディアナ号が沈没してしまうという不幸があったが、伊豆の戸田村(へだむら)においてロシア人指導の下、日本の船大工により3ヶ月の突貫工事で代わりの船が造船され、感激したプチャーチンは「ヘダ号」と命名し、乗艦して帰国した。1858年には再来日し、幕府と日露修好通商条約を締結して本国に帰国する。日本と条約を結んだ功績により、伯爵に叙され、元帥に栄進した。1861年文部大臣(国民啓蒙大臣)に任命されるが、大学を中心とする学生運動、革命運動を弾圧したため、政治家としての評判は芳しくなかった。
1883年、80歳で死去。幕府の全権としてプチャーチンと交渉に当たった外国奉行川路聖謨は、プチャーチンのことを「軍人としてすばらしい経歴を持ち、自分など到底足元に及ばない真の豪傑である」と評している。