岩倉具視
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岩倉具視(いわくらともみ、文政8年9月15日(1825年10月26日)- 1883年7月20日)は江戸時代末期から明治前期の公卿・政治家。幼名は周丸(かねまる)、号は対岳。謹慎中の法名は友山。正一位
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[編集] 経歴
堀河康親の次男として京都に生まれる。1838年(天保9年)に岩倉具康の養子となる。関白であった鷹司政通の門流となり、朝廷改革の意見書を提出した。1854年(安政元年)に孝明天皇の侍従となる。
1858年(安政5年)に老中の堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得るため上京したときに、反対派の公卿を集めて阻止行動を起こした(いわゆる「廷臣八十八卿列参事件」)。1860年(万延1年)に桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後、公武合体をすすめ和宮降嫁を推進した。このため、尊王攘夷派の志士たちは岩倉を佐幕派として排斥しようと朝廷に圧力をかけた。このため、京都洛北の岩倉に幽居した。
幽居中も意見書を書いて朝廷や薩摩藩の同志におくるなどの活動をつづけた。この間に薩摩藩の動向に呼応する形で倒幕派へと路線を変更させた。1866年(慶応2年)の徳川家茂の死を機会に朝廷の名において列藩招集を行おうとするが失敗し、孝明天皇の死の際には毒殺説が流れ、首謀者として疑われた(一説に自分が成り上がろうとして孝明天皇を暗殺し、幼く操縦しやすい明治天皇を早く即位させ利用した、という珍説もある)。1867年には王政復古の大号令と徳川慶喜の辞官納地発令を実現し、戊辰戦争へと導いた。
明治維新後、参議、大納言、右大臣と昇任していった。1871年には特命全権大使として岩倉使節団を組織し、欧米の文化・制度を視察した。帰国後は征韓論を退けるなど内治につとめた。立憲問題では初めは制定に反対であったが、自由民権運動の高まりをみて方針をかえ、大日本帝国憲法の制定に尽力した。その後、皇室財産の確立と華族保護につとめ、日本鉄道会社の設立にも関与した。1884年に死去、享年59。国葬が執り行われた。 墓所は東京都品川区の海晏寺。
[編集] 500円紙幣
1951年発行開始の日本銀行券B五百円券、および1969年発行開始のC五百円券に岩倉の肖像が採用された。C五百円券は500円硬貨の登場(1982年)後も、1985年まで製造されていた。
[編集] 子孫
本家の曾孫の岩倉具栄は英文学者で法政大学教授、岩倉鉄道学校(現岩倉高等学校)総長。具栄の弟の岩倉具実は言語学者で同志社大学教授。具栄の妹の岩倉靖子は非合法時代の共産主義運動に参加して検挙され自殺。具栄の息子の岩倉具忠はイタリア文学者で京都大学教授。 また、農林大臣・日本中央競馬会理事長を務めた有馬頼寧は孫。曾孫に直木賞作家の有馬頼義、高孫に衆議院議員の亀井久興がいる。
分家の曾孫の岩倉具憲はパシフィックホテル社長。具憲の姉小桜葉子(岩倉具子)は女優。小桜葉子の息子(岩倉の高孫)は俳優加山雄三。具憲の娘岩倉瑞江は婦人服ブランド「スポーティフ」を経営している。玄孫に俳優の山下徹大がいる。
また、女優の久我美子も子孫の一人。元ジャニーズJr.の岩倉具博も子孫。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 岩倉具視の肖像(国立国会図書館)