日本無軌道電車
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日本無軌道電車(にほんむきどうでんしゃ)とは、兵庫県にかつてあった阪急電鉄宝塚線の花屋敷駅(統合により、現在は雲雀丘花屋敷駅)から新花屋敷(現在の川西市満願寺町あたり)間を結んでいた無軌条電車(トロリーバス)である。日本初のトロリーバス路線として開業したが、開業4年で廃線となった。
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[編集] 概要
宝塚線花屋敷駅から2km離れた山奥には、かつて温泉が湧いていた。大正時代、田中数之助という人物がこの地の開発を行うため新花屋敷温泉土地という会社を設立し、温泉場と遊園地を整備した。しかしここは花屋敷から2km離れている上、坂を上ったところにあるため湯治客・行楽客は難儀を強いられた。そのため、交通機関の整備が必要となった。
しかし当時のバスは性能が悪く、厳しい上り坂を登れるだけの力を持っているかどうか定かではなかった。路面電車も鉄車輪のため坂には弱い。そのため海外で導入されており、急勾配に強いと考えられたトロリーバスを建設することにしたのである。
当時の軌道事業を管轄していた内務省は、初の例ということで困惑したと言われる。しかし1927年には認可が下り、翌年開業させた。社名もこのとき日本無軌道電車と改められた。新花屋敷の約700m手前のところまでの運行で、途中のつつじガ丘(現在の宝塚市花屋敷つつじガ丘)が交換所となっていた。箱型の車両を使用し、定員は28人であった。軌道は砂利道の上で、タイヤの通る所のみコンクリートが敷かれていた。
だが運賃が高いうえ車両の故障が多く、更に昭和恐慌の影響で来客自体が減ったことから、成績は思わしくなかった。田中は失意のまま翌年亡くなり、トロリーバスも1932年には開業僅か4年で廃線となった。なおこの年、京都市で日本初の都市トロリーバス(京都市営トロリーバス)が開業した。
車両はその後、釣鐘山登山口における公衆便所に転用され、戦後に至るまでしばらく使用された。また軌道跡と架線柱も、戦後まで放置されていた。
[編集] 路線データ
[編集] 沿革
[編集] 停留所一覧
花屋敷 - つつじガ丘 - 新花屋敷