東京大空襲
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東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、第二次世界大戦中アメリカ軍により行われた東京に対する空襲のうち、1945年(昭和20年)3月10日と5月25日のものを一般的に指す。太平洋戦争に行われた空襲の中でも、とりわけ民間人に大きな被害を与えた空襲として知られている。
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1945年3月10日以前の空襲
1942年4月18日にアメリカ軍によるドーリットル空襲が行われ、東京にも初の空襲があった。1944年7月、サイパンなどマリアナ群島をアメリカ軍が制圧し、ここが日本本土に対する空襲の基地となった。同年11月24日、軍需工場である中島飛行機工場に対する初の空襲が行われた。それ以降、空襲が続き、1945年1月23日には有楽町・銀座地区が標的になり、有楽町駅は民間人の死体であふれた。
3月10日の空襲
3月10日の空襲は、市街地そのものを攻撃対象とした低高度夜間爆撃である。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の三個航空団が投入された。
1945年3月9日から10日に日付が変わった直後に爆撃が開始された。B-29爆撃機325機(うち爆弾投下機279機)による爆撃は、午前0時7分に深川地区へ初弾が投下され、その後、城東地区にも爆撃が開始された。0時20分には浅草地区でも爆撃が開始されている。
投下された爆弾の種類は油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾などであり、投下弾量は約38万発、1,700tにのぼった。日本が中国戦線で数年に渡って繰り広げてきた重慶爆撃の全投下量は1万8000トンであり、その10%に相当する量を一夜にして投下したのであるから、この空襲の規模の大きさを窺い知ることが出来る。
当夜は低気圧の通過に伴って強風がふいており、この風が以下の条件と重なり、大きな被害をもたらした。
- 警戒用レーダーのアンテナを揺らしたため、確実に編隊を捕捉できず空襲警報の発令を極端に遅れた(発令されたのは初弾投下後の0時15分)。
- 「低空進入」と呼ばれる飛行法を初めて大規模実戦導入したことで、爆撃機編隊を通常よりも低空で侵入させ、そのまま投弾させたため、着弾範囲が以前より精密だった(逆に火災による強風で操縦が困難になり、焼夷弾を当初の予定地域ではない場所で投下した記録もある。そのため、火災範囲がさらに広がった箇所もある)
- 強風が火勢を煽り、延焼を広げた
- 調布・入間・成増・所沢・厚木・柏・松戸等、東京近郊の飛行場に配備されていた陸海軍戦闘機隊の発進を妨げたため、ただでさえ絶望的に少ない迎撃のチャンスを奪った(通常は戦闘機が到達できない高度から爆撃を行っていたが、この日は違った)
これら複数の要因が重なり被害が拡大。8万人以上(10万人ともいわれる)が犠牲になり、焼失家屋は約27万8千戸に及び、東京の3分の1以上の面積(40平方キロメートル)が焼失した。
このとき使用された焼夷弾は日本家屋を標的にしたものであり、当時の平均的な構造とは違う作りをしていた。通常、航空爆弾は瞬発または0.02~0.05秒の遅発信管を取り付けることで、爆発のエネルギーを破壊力の主軸にしている。しかしこれでは木材建築である日本家屋に対してはオーバーキルとなる。そこで爆発力ではなく、燃焼力を主体とした「焼夷弾」が開発され、これが木造を主とする日本家屋を直撃した。
火災から逃れるために、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人もいたが、火災の規模が大きく、炎が竜巻や滝のように流れてきて焼死する人や、炎に酸素を奪われ窒息(ちっそく)死する人も多かった。また、川に逃げ込んだものの、水温が低く凍死する人も少なくなかった。
3月10日は日露戦争の奉天戦の日であり、陸軍記念日となっていた。日本の戦争継続の気力をそぐ為、あえてこの記念日が選ばれたと言われている。
なお、アメリカ軍の損害は撃墜・墜落12機、撃破42機であった。
3日後の3月13-14日に大阪大空襲が行われた。
5月25日の空襲
3月以降も東京への空襲は続けられた。3月10日に次いで被害の大きかったのは5月25日で、470機が来襲し、それまで空襲を受けていない山の手が主な対象になった。死傷者は7415人、被害家屋は約22万戸の被害となった。
3月-5月にかけての空襲で東京市街の50%が焼失した。また、多摩地区の立川、八王子なども空襲の被害を受けている。
その後
戦争犯罪
これ以降も、日本側の産業基盤を破壊し、また戦意をくじくため、全国各地で空襲が行なわれ、その結果多くの一般市民が犠牲となった。建前では軍施設や軍需産業に対する攻撃であるが、実際には多数の民間人(非戦闘員)が犠牲になっており、戦争犯罪ではないかとの指摘も強い。しかし日本政府は、サンフランシスコ平和条約により賠償請求権を放棄している。
戦後1964年(昭和39年)に日本政府は、日本本土爆撃を含む対日戦略爆撃を指揮したカーチス・ルメイ少将に対し、航空自衛隊の育成に貢献したとの理由で勲一等旭日章を授与した。近年では、戦勝国政府に対する極端な擦り寄りではないかという批判の声もある。
しかしルメイは後年、「自分たちが負けていたら、自分は戦犯として裁かれていた」と述べている。だが、ルメイは同時にこの空襲を日本の降伏を早め、日本人による殺害を止めるものであったと考えていたとされている。
慰霊
身元不明の犠牲者の遺骨は関東大震災の犠牲者をまつる震災慰霊堂に合わせて納められ、現在は東京都慰霊堂になっている。慰霊堂では毎年3月10日に追悼行事が行われているほか、隣接する東京都復興記念館に関東大震災及び東京大空襲についての展示がある。東京都は1990年(平成2年)、空襲犠牲者を追悼し平和を願うことを目的として、3月10日を「東京都平和の日」とすることを条例で定めた。一連の空襲による正確な犠牲者数は不明である。東京都では墨田区の横網町公園に「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」を設置し、遺族などからの申し出により判明した分の犠牲者名簿(1942-1945年の空襲犠牲者)を納めている。
空襲を免れた地区
東京の市街地でも空襲を免れた区域がある。
- 丸の内付近では東京府庁が空襲を受けたが、空襲を免れた区域も多い。これは占領後の軍施設に使用する予定の第一生命館や明治生命館などがあったためという。
- 築地付近が空襲を受けなかったのは、アメリカ聖公会の建てた聖路加国際病院があったからだとも言われる。
- ロックフェラー財団の寄付で建てられた図書館のある東京大学付近も空襲は受けていない。
- 神田には救世軍本営があるため被害を受けなかったともいわれるが定かではない。
- 皇居は対象から外されていたが、類焼により明治宮殿(明治憲法の発布式が行われた建物)が炎上した。
関連事項
- 空襲
- 戦略爆撃
- ドーリットル空襲(東京初空襲)
- アメリカ本土空襲
- 大阪大空襲
- 名古屋大空襲
- 広島市
- 長崎市
- 江戸東京博物館
- 極東国際軍事裁判
- 灯火管制
- 防空壕
- ガラスのうさぎ
- 火災旋風
- チャールズ・ブロンソン
- ドレスデン爆撃
参考
- 東京都編集 『東京都戦災誌』 ISBN 4902622041 明元社刊(2005年)
- 東京大空襲の記録を網羅した唯一の公式資料
- 村上義人著 『手拭いの旗 暁の風に翻る』 福音館日曜日文庫 ISBN 4834005496
- 開成高校の学徒隊として遭遇した著者の被災状況を記録。開戦前夜から敗戦―講和までの日本の状況も記した自伝。
- 『B29対陸軍戦闘隊』 今日の話題社刊(1973年、絶版)
- 本土防空作戦に従事した旧陸軍の航空関係者による回想録集。
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