オランダ
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- オランダ王国
- Koninkrijk der Nederlanden
-
(国旗) (国章) - 国の標語 : Je Maintiendrai
(フランス語: 私は維持するだろう) - 国歌 : ウィルヘルムス・ヴァン・ナッソウエ
-
公用語 オランダ語註1: 首都 アムステルダム、ハーグ註2: 最大の都市 アムステルダム 国王 ベアトリクス 首相 ヤン・ペーター・バルケネンデ 面積
- 総計
- 水面積率世界第131位
41,526km²
18.4%人口
- 総計(2004年)
- 人口密度世界第58位
16,318,199人
393人/km²GDP(自国通貨表示)
- 合計(2005年)
4,789億ユーロ 註3 (EUR, €) ※オランダのユーロ硬貨GDP(MER)
- 合計(2005年)世界第16位
6,293億ドルGDP(PPP)
- 合計(2003年)
- 1人当り世界第20位
4,614億ドル
28,600ドル独立
- 宣言
- 承認スペインより(八十年戦争)
1581年7月26日
1648年10月24日通貨 ユーロ 註3 (EUR, €) ※オランダのユーロ硬貨 (EUR) 時間帯 UTC (+ 1)(DST: (+ 2)) ccTLD .NL 国際電話番号 31 - 註1: フリースラント州ではフリジア語も公用語
註2: 法律上の首都はアムステルダムだが、王宮、国会議事堂、政庁などはハーグにあり、こちらが事実上の首都となっている。
註3: 1999年以前の通貨は、ギルダー
オランダ王国(-おうこく)、通称オランダは、西ヨーロッパの立憲君主制の国。憲法上の首都はアムステルダムだが、政治の中心は王宮や国会の所在地であるハーグ。
ヨーロッパ北西部に位置し、東はドイツ、南はベルギーと国境を接し、北と西は北海に面する。ベルギー、ルクセンブルクと合わせてベネルクス三国と呼ばれる。
ヨーロッパの交通、交易の要所。リベラルな政策、気風。人口密度が高い。堤防により囲まれた低地。チーズ、チューリップ、風車で有名。有名な画家を多く輩出している。
目次 |
[編集] 国名
正式名称は、Koninkrijk der Nederlanden(コーニンクライク・デル・ネーデルランデン)。通称は、Nederland(ネーデルラント)。俗称のHolland もよく使われる。
公式の英語表記は、Kingdom of the Netherlands。通称は、The Netherlands。Holland は俗称。
日本語の表記は、オランダ王国。通称はオランダ。漢字による当て字で、和蘭、和蘭陀、阿蘭陀と表記され、蘭と略される。また、オランダ語由来のネーデルラント(またはネーデルランド)、ドイツ語由来のニーダーラントと呼ぶこともある。
オランダ語のネーデルラントは、「低地の国」「低地地方」を意味する一般名詞(複数形扱い)なので、基本的に(複数形)定冠詞をつける。ゲルマン系言語では、The Netherlands(英語)、Die Niederlande(ドイツ語)、ラテン系言語では、Les Pays-Bas(フランス語)、los Países Bajos(スペイン語)など。
一方、Holland(ホラント)は、スペインからの独立戦争で重要な役割を果たしたホラント州(現在は南北2州に分かれる)の名に由来し、固有名詞であるため冠詞が付かない。
日本語のオランダは、ホラントのポルトガル語訳である Olanda が、ポルトガル人宣教師によって戦国時代の日本にもたらされたことによる。
[編集] 歴史
詳細はオランダの歴史、オラニエ=ナッサウ家(オランダ王家)、オランダ君主一覧を参照
ハプスブルク家のスペインとの八十年戦争の結果、1648年のウェストファリア条約で独立を承認された。ネーデルラント連邦共和国は17世紀初頭以来東インドを侵略してポルトガルから香料貿易を奪い、オランダ海上帝国を築いて、黄金時代を迎えた。しかし、イングランドとの3度にわたる英蘭戦争で大きな打撃を受け、18世紀末にフランス革命が勃発すると、革命軍が侵入しバタヴィア共和国が成立した。間もなく、ナポレオンの弟ルイ・ボナパルトを国王とするホラント王国に変えられ、さらにフランスの直轄領として併合された。ウィーン条約ではこれまでオーストリア領であった南部ネーデルランド(ベルギー)を含むオランダ王国が成立し、オラニエ=ナッサウ家が王位に就いた。これが現在のオランダ王国の起源である。ただベルギーは1830年にオランダから独立していった。ナポレオン戦争後はイギリスが世界覇権を称え、オランダの海上覇権は地に落ちた。オランダは残された東インド植民地(インドネシア、オランダ領東インド)の領域支配を進める。第一次世界大戦では中立を維持したが、第二次世界大戦では中立宣言にもかかわらずナチス・ドイツに本国を占領され、東インド植民地も日本軍に占領された。大戦中、オランダ王家はイギリスに亡命した。戦後再びインドネシアに侵攻してインドネシア独立戦争を戦ったが、独立を承認せざるを得なかった。欧州ではベネルクス3国としてヨーロッパ共同体の創設メンバーとなり、ヨーロッパ連合に発展させた。
[編集] 政治
政体は立憲君主制で、国家元首はベアトリクス女王(1980年4月30日即位)。
議会は二院制で、第2院(下院)150名、第1院(上院)75名から構成される。
2003年5月、キリスト教民主勢力(CDA)、自由民主党(VVD)、民主66(D66)の3党連立による中道右派政権が発足。
民主66(D66)が、ソマリア出身の元下院議員の国籍剥奪を企て内外から批判を浴びたフェルドンク移民・社会統合相の辞任を要求。首相がこれを拒否したことからD66が連立離脱を表明したため、内閣総辞職となった。
キリスト教民主勢力(CDA)のバルケネンデ首相は、2006年6月29日、内閣総辞職を行うことを明らかにした。理由は、連立野党の小政党(民主66)が連立離脱を表明したこと。2006年6月30日、バルケネンデ首相は、ベアトリックス女王に辞表を提出し、内閣総辞職した。
[編集] 地方行政区分
オランダ本土の州 州名は数字を、州都は丸印を参照せよ。 なお、星印は首都アムステルダム。 |
オランダ本土は12の州に分かれており、カリブ海には、海外領土(旧植民地)として、アンティルとアルバがある。
- フローニンゲン州 - フローニンゲン
- フリースラント州 - レーワルデン
- ドレンテ州 - アッセン
- オーファーアイセル州 - ズウォレ
- フレヴォラント州 - レリスタット
- ヘルダーラント州 - アーネム
- ユトレヒト州 - ユトレヒト
- 北ホラント州 - ハールレム
- 南ホラント州 - ハーグ(オランダ語ではデン・ハーフ)
- ゼーラント州 - ミデルブルフ
- 北ブラバント州 - スヘルトーヘンボス(デン・ボッシュ)
- リンブルグ州 - マーストリヒト
名称 | 人口(人) | 州都/主府/本部 | 備考 |
---|---|---|---|
ドレンテ州 Drenthe |
アッセン Assen |
■3 | |
フレヴォラント州 Flevoland |
レリスタット Lelystad |
■5 | |
フリースラント州 Friesland |
レーワルデン Leeuwarden |
■2 | |
ヘルダーラント州 Gelderland |
1,970,865 | アーネム Arnhem |
■6 |
フローニンゲン州 Groningen |
フローニンゲン Groningen |
■1 | |
リンブルグ州 Limburg |
マーストリヒト Maastricht |
■12 | |
北ブラバント州 Noord-Brabant |
スヘルトーヘンボス 's-Hertogenbosch |
■11 | |
北ホラント州 Noord-Holland |
ハールレム Haarlem |
■8 | |
オーファーアイセル州 Overijssel |
ズウォレ Zwolle |
■4 | |
ユトレヒト州 Utrecht |
ユトレヒト Utrecht |
■7 | |
ゼーラント州 Zeeland |
ミデルブルフ Middelburg |
■10 | |
南ホラント州 Zuid-Holland |
ハーグ Den Haag |
■9 |
[編集] 主要都市
州都ではないが、本土を代表する都市として以下の都市が挙げられる。
- アムステルダム(北ホラント州)
- ロッテルダム(南ホラント州)
- エンスヘーデ(オーファーアイセル州)
- アーネム(ヘルダーラント州)
- ナイメーヘン(ヘルダーラント州)
- デルフト(南ホラント州)
- アイントホーフェン(北ブラバント州)
- ティルブルフ(北ブラバント州)
- ケルクラーデ(リンブルグ州)
[編集] 地理
[編集] 経済
第2次大戦まで植民地貿易に依存していたが、戦後は工業生産に重点が置かれ、国内総生産の1/3を鉱工業生産が占める。チーズ、チョコレートなどの食品工業もある。農業は中小規模の集約農業で、酪農、園芸が盛ん。オランダの経済の特色は、中継・加工貿易を軸とした国際経済依存度の高い経済構造にある。オランダは農産物も重要な輸出品であるが、高度の工業国であり、工業製品を筆頭に海運、投資、仲買業などサービスの輸出が国際収支に大きく貢献している。
[編集] 経済動向
最近の世界経済の停滞、貿易の縮小はオランダ経済にも直ちに波及し、経済の先行き見通しに大きな影を落とし、すでに生産・投資の減退、失業の増大となって跳ね返っている。すなわちオランダは、1970年代後半以来高福祉による財政負担の増大、高賃金による企業利潤圧迫と投資意欲の減退、天然ガス産出に伴うギルダーの高位安定と、生産コストの上昇による輸出競争力の低下に悩まされている。
1983年の実質成長率はマイナス1.4%を記録した。1960年代後半までほぼ完全雇用を達成しつつあった雇用状況は、75年ごろ以降世界経済の低迷と、高賃金による投資意欲の減退により悪化し、06年現在も改善されていない。
物価に関しては、オランダは従来より低物価政策を採っているため、比較的良好である。貿易面では資源を大幅に輸入し、高度な工業製品を輸出する形態をとっており、ドイツが最大の貿易相手国である。
オランダが1970年代後半以来とり続けた景気回復のための赤字予算は、すでに膨れ上がっている社会保障負担とあいまって、正常な経済発展の足かせとなっている。この様な状況の中で、思い切った財政支出の縮小は焦眉の急となっている。欧州通貨制度参加通貨に対しては固定相場制を、域外通貨に対しては変動相場制をとっている。
[編集] 主要産業の概観
第2次世界大戦後、急速な工業化と農業の高度な集約化が実施されたおかげで、オランダは周辺のヨーロッパの大国に伍して高度の工業水準を有する工業国としての地位を固めることができた。
[編集] 農・漁業
農業の全体の産業に占める割合は小さいものの、依然として重要な産業のひとつとなっている。高度な集約化・機械化により農業の生産性はヨーロッパ連合諸国の中でも高く、農民の生活は総じて豊かである。オランダ農業の発展は、土壌本来の肥沃さよりも創意と労力に負うところが大きく、土地はむしろやせている。
主な農業地域はゼーラント州からフローニンゲン州に至る海岸地帯のポルダーで、海成重粘土からなる西南部と、フリースラント、フローニンゲン両州海岸部のポルダーでは良質の穀類と根菜類を産する。第二の新しい農業地域は干拓されたアイセル湖のポルダーで、多様な生産が行われている。南部は市場向け園芸農業が主であり、フリースラント州のポルダーはノールトホラント、ゾイトホラント両州に匹敵する畜産地域である。オランダ南部や東部の砂礫地は肥沃とはいえない土壌であるが、土地改良により1950年ごろまで耕地が大きく拡張されてきた。リンブルフ州南部は他の地域とまったく異なり肥沃なローム土壌で、耕地と牧草地が半々になっており、工業の発達に促されて酪農と市場向け園芸が盛んである。粘土地域の保有面積は平均40ヘクタールであるが、100ヘクタール以上の農場も多い。旧泥炭地帯の経営面積は平均28ヘクタールである。甜菜は砂糖用、飼料用共に特に北部と南西部で作られている。加工農産物には北東部の旧泥炭地帯を中心とするボール紙があり、重要な輸出品となっている。1960年代の市場向け園芸農場面積は約14万ヘクタールで、特にノールトホラント州とゾイトホラント州に多い。またアルクマール北部地域はキャベツ、ホールンとエンクホイゼンのアイでは果物と花の種子が専門である。
果樹栽培は全国的に盛んであるが、リンブルフ州南部とヘルデルラント州およびユトレヒト州西部の河成粘土地域は牧場か果樹園が一番多い。牧畜は牛乳とその製品が主目的であるが、乳牛の飼育と輸出も多い。最も古い酪農中心地はノールトホラント州とゾイトホラント州およびユトレヒト州西部である。豚には2種あり、国内向けにはオランダ肉用豚が、輸出用にはベーコン、ハム用豚が飼育されている。
ニシン、たら、さばなどの遠洋漁業が昔から盛んであったが、20世紀に入り漁法の近代化が遅れて衰退した。沿岸漁業はムール貝、かき、えびおよび舌平目が中心である。
[編集] 鉱工業
オランダの工業には天然ガス、石油、岩塩があるが、天然ガスを除きいずれも小規模である。天然ガスは1940年代、北部フローニンゲン州で豊富な天然ガス田が発見されて以来、生産量の50%程度がドイツ、ベルギーなどへ輸出され、貴重な外貨収入となってきた。オランダの工業化は天然資源の欠乏のために遅れはしたが、19世紀中ば以後は一路成長を続けた。オランダは民間資本が豊富で、はじめは既存工業の技術向上に力点を置き、乳製品、マーガリン、ジャガイモ澱粉、ボール紙など農産物利用の工業を主としたが、その後電気器具、ラジオ、合成繊維、機械部品の様な、原料をほとんど必要としない工業に資本と研究を注ぐ様になった。コークス製造、化学工業から鉄鋼業まで発達するにいたったのである。その一方では、人口の急増が目に見えており、戦後復興のためにはまず第一に工業化を一層進めることが必要になった。
オランダの製造業はこれまでフィリップス、ユニリーバ、AKUレーヨンなどの大会社のほかは、多数の中小企業があるという状態であった。政府の経済政策による新工業化に最も寄与したのはフィリップス社で、約20の都市に新工場を建設した。
[編集] 鉱業、燃料および動力
石炭はリンブルフ州南部で国営企業および民間企業が採掘しており、技術はよく発達している。精油所はロッテルダム地区に5つ、アムステルダムに1つあり、オランダは67年にはヨーロッパで最も重要な石油製品の輸出国になった。60年にフローニンゲン州のスロホテレン地区に発見された天然ガスの確認された埋蔵量は1兆6000億立方メートルで西ヨーロッパの総埋蔵量の約半分に当たる。電力は石炭、ガスまたは石油による火力発電により、その年間消費量は77年に565キロワット時になっている。
[編集] 工業
オランダは鉱物資源が乏しいにもかかわらず20世紀にはいって金属工業を確立した。すず、アルミニウム、亜鉛の精錬も行われている。60年代の半ばには従業員50人以上の造船所の数は約100であったが、近年は船舶の建造より有利な石油化学工場の建設工事に切り替える傾向にある。機械工業の中心地はアイントホーヘンとナイメーヘンである。化学工業は最初は岩塩とコールタールに基礎を置いていたが、現在ではロッテルダム地区、ヘレーン、テルノーゼンを中心とする石油化学工業が最も重要になっている。
[編集] 製造工業
代表的な製造工業としては製鉄、機械、電気機器、造船、航空機などの金属工業が第一に挙げられ、これについで食品加工業、化学工業があげられる。航空機産業ではフォッカー社が小規模ながら健在で、短中距離用民間航空機フレンドシップ機を製造し、新機種の開発も進めている。
食品工業は近年停滞気味の輸出の牽引力として有力視されている。国際的食品加工企業のユニリーバ、ビールで有名なハイネケンの本拠地はオランダである。
[編集] 運輸・通信
オランダはヨーロッパの交通の要衝に当たっており、運輸・通信部門は早い時期から近代化されている。またロッテルダム港には石油精製コンビナートがあり、港に運び込まれる原油はコンビナートを通過し、パイプラインで周辺諸国に輸送されている。また近代的設備を誇るスキポール空港はヨーロッパの物資流通基地となっている。
[編集] 国民
住民はオランダ人が83%で、それ以外が17%である。オランダ人以外としては、トルコ人、モロッコ人、あるいは旧植民地(アンチル諸島、スリナム、インドネシアなど)からの移民などがいる。 日本よりも人口密度が高い(393人/km²,2004年時点)。 世界一平均身長の高い国である。(男性182.5cm 女性170.5cm)
[編集] 言語
言語は公用語がオランダ語である。フリースラント州ではフリジア語も公用語として認められている。識字率は99%である。
[編集] 宗教
宗教はローマ・カトリックが31%、プロテスタントが21%、イスラム教が4.4%、その他が3.6%、宗教組織へ加入していない者が40%である。(1998年時点)
[編集] 文化
オランダは、他国で思想・信条を理由として迫害された人々を受け入れることで繁栄してきたため、現在でもさまざまな文化に対して寛容な態度を取ってきた(ただし、近年、イスラム系住民に対する反感が増大し、移民が極めて厳しくなってきている。EU憲法の国民投票での否決にも、そういう感情が反映されている。また、極右勢力が著しく伸張している。)。たとえば、麻薬(大麻やハッシシといったソフトドラッグのみ)の所持・使用(「コーヒーショップ」と呼ばれる限られた店でのみ購入が認められている)、安楽死がいくつかの欧州諸国とともに合法化されている。
1991年には刑法が改正され、16歳以上でポルノ出演、性行為が適法とされ、互いの同意があれば12歳以上でも性行為は適法となった。国の許可を得れば管理売春も合法である(「飾り窓」と呼ばれる限られた地区でのみ合法的な売春が認められている)。売春を国の管理の下で合法化したことで、衛生状態の向上が図られ、性感染症感染率が低下し、また税収増加、売春に従事する女性達の保護の充実などが実現し、国内では評価する声が高い。
このようなことから、世界有数の性の解放区として知られているものの、性犯罪をすれば容赦なく逮捕されることには他国となんら変わりがない。またこれらの行為に関わることはそれなりにリスクも大きいので、自由な一方で自己責任で行動しなくてはならない国だとも言える。
[編集] 著名人
- オランダ人の一覧も参照
- 画家
- 哲学者
- 音楽家
- ネーデルラント楽派
- アントワーヌ・ボイガー
- エドワード・ヴァン・ヘイレン
- ハンス・ダルファー
- キャンディ・ダルファー
- サッカー選手
- 格闘技
- オランダは優秀な打撃系の格闘家を多数輩出しており、K-1ではヘビー級のトーナメントで13大会中10回の優勝を、ミドル級では4大会中2回の優勝をオランダ勢が占めている。ただし、オランダ人の多くはそれほど格闘技に関心を持っていないようである。
- サッカー
- 主なクラブ
- 主な選手
- その他
[編集] 世界遺産
オランダ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が7件ある。詳細は、オランダの世界遺産を参照。
[編集] 祝祭日
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | Nieuwjaar | |
3月か4月 | 復活祭 | Pasen | 変動あり、2日間にわたって祝う |
4月30日 | 女王誕生日 | Koninginnedag | もともとはユリアナ女王の誕生日を祝う日であったが、ベアトリクス女王になって引き継がれた |
5月4日 | 戦没者記念日 | Dodenherdenking | 祝日ではない 第二次世界大戦の戦没者を想う |
5月5日 | 解放記念日 | Bevrijdingsdag | 1945年ナチス・ドイツの占領から解放されたことを祝う |
復活祭から40日後 | 主の昇天 | Hemelvaartsdag | |
復活祭から7週間後 | 聖霊降臨 | Pinksteren | 2日間にわたって祝う |
12月5日 | シント・ニコラス祭 | Sinterklaas | 祝日ではない サンタクロースの基で、子供達にプレゼントをあげる。 |
12月25日,26日 | クリスマス | Kerstmis | 2日間にわたって祝う |
[編集] 日本との関係
1600年4月に豊後国(大分県臼杵市)にオランダのデ・リーフデ号が漂着。徳川家康がこれを厚くもてなしたことから両国の関係ははじまった。
江戸時代の鎖国中の日本(徳川幕府)の数少ない交易国の一つで、当時のヨーロッパの学問がオランダ語文献により、日本にもたらされた。これを蘭学という。当時の日本の知識人は蘭学によりヨーロッパの風習を取り入れ、「おらんだ正月」などの行事を行った。またオランダ商館のあった長崎には、料理などにオランダ文化が伝えられた。
幕末は太平洋に勢力を伸ばしたいイギリス・フランスらと協調し、国王が開国を勧める親書を江戸に送っている。また、米国の強硬姿勢によって日本が開国した後は、英仏米露と共に通商通航条約(いわゆる不平等条約)を結んだ。その後、明治以降の国際関係のなかで、日本におけるオランダの地位は下がっていった。
第二次世界大戦中、日米間で太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発すると、オランダは日本に宣戦布告して日蘭は戦争状態となった。日本はオランダが植民地支配していた東インド(後のインドネシア)の石油資源を奪取を目的に1942年2月に侵攻作戦を開始、大東亜政略指導大綱で領有する方針が決定された。
植民地軍はまともな抵抗ができないまま、3月10日にオランダ軍は全面降伏した。ここで日本軍はオランダ軍人4万人と民間人9万人を捕虜にしたが、捕虜は自分達が東インド住民を懲罰するために設けた監獄に自ら入れられるという屈辱を味わった。またオランダ人女性が強制連行され慰安婦にされるという白馬事件も起こった。日本の敗戦後、オランダ軍はこれらの日本軍人をBC級戦犯として逮捕、拷問・処刑を行った(連合国中で最も多い226人の日本人を処刑)。中には無実の人も含まれてあり、数合わせてきなオランダの単なる報復行為の側面もあった。
戦後もオランダでは反日感情が根強く、1971年の昭和天皇オランダ訪問の際に卵が投げつけられたり、手植えの苗を引き抜かれたりした。1986年にはベトリクス女王の訪日が国内世論の反発により中止され、また1991年に来日した女王は宮中晩餐会で日本の戦争責任に言及する異例のスピーチを読み上げた。この女王の態度には日本やインドネシアから批判の声が上がった。1995年、日本の村山首相(社会党)は談話で「痛切なお詫びと反省」を発表。1998年に橋本首相(自民党)が改めて村山談話を再確認する書簡を送った。
その後の両国関係は概ね安定しており、2003年のイラク戦争では両国共にアメリカを支持し、自衛隊イラク派遣においてはオランダ派遣軍が治安維持を担当する地域に派遣された陸上自衛隊に対して(先に活動を行っていた立場から)指導・協力を行った。
[編集] 賠償問題
第2次大戦における日本のオランダに対する賠償問題は、1951年の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)と1956年の日蘭議定書により法的には解決され、日本側は当時の金額で1千万ドル(36億円)を「見舞金」名目で元捕虜や民間人へ支払った。この時の日蘭議定書第三条には「オランダ王国政府は、同政府又はオランダ国民が、第二次世界大戦の間に日本国政府の機関がオランダ国民に与えた苦痛について、いかなる請求をも日本国政府に対して提起しないことを確認する」とある。しかし、1990年に対日道義的債務基金(JES)が結成され、日本政府に対して法的責任を認めて一人当たり約2万ドルの補償をもとめる運動がはじまった。これに対し日本は2億5500万円を支払い、2001年「償い事業」が終了した。
これらオランダの日本に対する要求は、実際に支配を受けていたインドネシアを初めとする東南アジア諸国から強い反発がある。
[編集] オランダとアジア植民地
オランダは早くから世界進出し、アジアともかかわりが深い。オランダによるジャワを中心とするオランダ領東インド支配においては、1825-30年におきた民衆抵抗を過酷に弾圧したのち、悪名高い「強制栽培制度」を1年に実施した。これは、ジャワ農民に対し、土地の一定割合で稲作など食用の栽培を禁止し、コーヒーやサトウキビといったヨーロッパ輸出用の高級作物の栽培を強制する制度で、オランダ本国が当時おかれた経済的苦境を打破するためのものであった。この制度により、ジャワから強制栽培品を安く買い上げ転売したオランダは経済が好転、鉄道建設をはじめ、産業革命と近代化のための資本蓄積に成功した。厳罰によって実施されたこの制度で、ジャワ農民は稲や麦という自給食料を失い、1843-48年には飢饉に苦しみ大量の餓死者を出したと言われている。強制栽培制度は中断を伴い形を変えて20世紀まで続けられ終戦まで続いた。 インドネシア側はこうした被支配の歴史に対し、これまでオランダ女王のインドネシア訪問、2000年のインドネシア大統領の訪蘭などで謝罪を要求した。2005年のインドネシア独立記念日にインドネシアを訪問したオランダ外相は1945年以降の植民地支配についてのみ謝罪した。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 公式
[編集] その他
- オランダへの入り口
- 日本外務省 オランダの情報
- 財団法人 日蘭学会
- オランダネット
- 紳士はロリータがお好き (個人サイト内ページ)
- オランダ学入門 (個人サイト内ページ)
- 日本(語)のオランダ (個人サイト内ページ)
- リヒテルズ直子のオランダ通信
- オランダ情報サイト「MARBLE468」
- 世界の国々 > ヨーロッパ
-
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