サッダーム・フセイン
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イラクの特別法廷で意見を述べるサッダーム・フセイン |
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イラク 第5代大統領 | |
任期: | 1979年 – 2005年 |
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出生日: | 1937年4月28日 |
生地: | イラク北部、ティクリート近郊、アル=アウジャ村 |
配偶者: | サージダ・ハイラッラー(第一夫人)、サミーラ・アッ=シャフバンダル(第二夫人)、ニダル・アル=ハムダニ(第三夫人)イマン・フワイシュ(第四夫人) |
政党: | バアス党 |
サッダーム・フセイン [1](صدام حسين 、1937年4月28日 - )は、イラクの政治家。前イラク共和国大統領、前首相、前革命指導評議会議長。バアス党地域指導部書記長。アラブ人、スンナ派イスラム教徒(ムスリム)。
全名はサッダーム・フセイン・アブドゥルマジド・アッ=ティクリーティー(صدام حسين عبدالمجيد التكريتي Saddām Husayn 'Abd al-Majid al-Tikrītī)[2]。日本ではサダム・フセインと表記されることが多い。
目次 |
[編集] 生い立ち
イラク北部のティクリート近郊のアル=アウジャ村で羊飼いの家庭の子として生まれ、「直進する者」を意味するサッダームの名を受けた。父フセイン・アブドゥルマジド(フセイン・アル=マジドとも)はサッダームが生まれた時には既に死んでおり、母スブハ・トゥルファはまもなく再婚して、サッダームの3人の異父弟を生んだ。
10歳の時から母方の叔父ハイラッラ-・トゥルファのもとで暮らした。彼の敵に屈しない性格とイラク国粋主義的なアラブ民族主義は叔父の影響から生まれたと言われている。1950年代はエジプトで革命が起こり、王制が倒されてナーセル政権が樹立に向かっている時期にあたり、アラブ諸国ではアラブ民族主義が高まりを見せており、サッダームもナーセルの影響を受けた。1958年にはイラクでもクーデターにより王制が打倒されている。
1955年、首都バグダードに上京したサッダームはまもなくバアス党に入党して革命活動に入った。バアス党は王制を打倒して政権についたアブドゥルカリーム・カーセムの共産主義寄り政策に反対し、1959年にカーセム首相暗殺未遂事件を起こした。この事件に関与したサッダームは逮捕を逃れてシリア、ついでエジプトに逃れた。亡命中の欠席裁判により、サッダームは死刑宣告を受けている。
サッダームはエジプトで亡命生活を送りながら高等教育を受け、カイロ大学法学部に学んだ。帰国後の1968年には法学で学位を取得したといわれているが、カイロ大学には彼の在籍記録が存在しない。
[編集] 権力の掌握
1963年にバアス党がイラクで政権を奪取することに成功すると、サッダームは帰国してバアス党の要職に就いた。しかし、この第一次バアス党政権は短命に終わり、1964年、サッダームは逮捕投獄された。1966年に脱獄するが、この1960年代の間にサッダームはバアス党の治安部門を掌握し、党内の実力者となっていった。
1968年、サッダームも貢献したバアス党のクーデターにより党は再び政権を握ると、サッダームは革命指導評議会副議長に就任し、1973年からは国軍司令官を兼ねた。若きリーダーとして国民の期待を集めたサッダームの主導の元で第二次バアス党政権は石油事業の国有化を断行し、石油収入を背景に農業の機械化、農地の分配、学校教育の強化など、近代化と社会福祉政策を推し進めた。しかし、世俗主義的な政策とアラブ系スンナ派ムスリムのイラク中央部出身者の重用は、イスラム知識人(ウラマー)、北部のクルド人や南部のシーア派のような宗教派や少数派の不満を高めることにもなった。
一方でサッダームは政権内での地歩を固め、政敵を排除しつつ次期指導者としての地位を認めさせることに成功した。1979年、アフマド・ハサン・アル=バクル大統領の引退を受けて、大統領に就任する。
[編集] サッダーム・フセイン政権の24年
サッダームは大統領に就任すると反体制派を強硬に弾圧し、大統領の独裁体制を構築した。特に、元来世俗主義的アラブ民族主義の申し子であったサッダームは、イスラム教を掲げて政治に乗り出そうとする勢力を政権の脅威と見なして抑圧し、南部のシーア派地域を中心に高まりを見せていたイスラム主義(イスラム原理主義)の動きを弾圧、多くのシーア派法学者(イスラム聖職者)が逮捕、殺害、国外追放の処分を受けた。更に議会でイラク国内の政治家をひとつの部屋に集め、彼に逆らう政治家を呼びつけては外に出して銃殺刑を申し渡し、即刻行われた処刑を指揮している映像も残されている。
イスラムを政治から遠ざけたサッダーム・フセイン政権においては、「世俗主義的な一国民族主義」が主導的なイデオロギーであった。この思想においては、イラク国民とはすなわち古代メソポタミアの民の子孫であり、サッダーム大統領は国内ではネブカドネザルやハンムラビになぞらえられる偉大な指導者とたたえられた。
ただし、アメリカとの対立姿勢を明確にした後は、キリスト教社会との対決を訴えるレトリックとしてイスラム世界の連帯を唱え、イラク国旗に「アッラーフ・アクバル(神は偉大なり)」の文字が加えられる。
男尊女卑の強い中東において「名誉の殺人」が日常化していた中、この「名誉の殺人」を非難した指導者であることは、あまり知られていない。
[編集] イラン・イラク戦争
1979年にイラン・イスラム革命によってイランにシーア派のイスラム共和国体制が興る。同政府は極端な反米活動を展開した。しかし、これは近代化(=政教分離)を目指す周辺のアラブ国家、および欧米の批難を浴びる。
(以下はジョージ・ワシントン大学がアメリカの情報公開法に基づき政府に開示させた資料を元に書く)
アメリカは当時のアメリカ特使ラムズフェルド(前国防長官)をイラクに派遣、全面的な支援を約束した。武器提供・石油パイプラインの建設などでイラン・イラク戦争の開戦を促した。イラクとアメリカの会談の際、話が化学兵器に及ぶと当時のシュルツ国務長官は「我々は特に問題視していない」と答えた。そのため、イランと結びつく危険のある国内の反体勢力である少数民族のクルド人に対して化学兵器が使用されたとされる。また英国メディアによるとこの時期、イラクに向けて化学兵器・生物兵器の原料がアメリカ、イギリスから輸出された。
ちなみに、シュルツ国務長官はイラクで石油パイプラインを建設したベクテル社の役員であり、ここでもアメリカ政府閣僚と石油利権つながりが見える。
[編集] 湾岸戦争
1988年に終結したイラン・イラク戦争は、1970年代の近代化政策がもたらした富をイラクから失わせ、サッダームの関心を、イランに代わって、豊かな石油資源を持ち、以前からイラク人によってイラク領と主張されてきた隣国クウェートへと向けさせた。
サッダームは1990年、クウェートに侵攻し、これを占領、併合を宣言する。しかし、アメリカをはじめとする国際社会の猛反発を受け、翌1991年の湾岸戦争でアメリカを主力とする多国籍軍に敗退した。
敗戦による政権の隙をついて、国内の反体制シーア派が政権への反乱を起こした。しかしシーア派が期待したアメリカの支援は無く、サッダーム政権は鎮圧に成功する。以降、強権政治により、反対勢力を押さえ込むことで、サッダーム政権はかえって安定化した。
湾岸戦争終結以降、イラクにはアメリカを主導とする国際世界から経済制裁が科せられ、経済的に窮乏に追い込まれた。イラク側の主張によれば、この時期に化学兵器等の大量破壊兵器は廃棄したという。
[編集] イラク戦争の敗北と、政権の崩壊
2002年 - 2003年3月、イラクは国連の兵器査察を受けつつ、アメリカによる武力攻撃の危機にあった。 2003年3月20日にアメリカのブッシュ大統領は、イラクが大量破壊兵器を廃棄せず保有し続けているという大義名分をかかげて、国連安保理決議1441を根拠としてイラク攻撃を開始した。攻撃はアメリカ軍が主力であり、イギリス軍がこれに加わった。
4月9日、バグダードは陥落し、5月2日にはアメリカのブッシュ大統領が大規模戦闘終結宣言(開始から44日目、戦争終結ではない)を出した。
サッダーム・フセイン大統領は終結宣言以降も数ヶ月行方不明であったが、2003年12月14日、米軍はサッダームを拘束。米軍の取調べに対しては、「サッダーム・フセイン元大統領か?」という問いに対し、「サッダーム・フセイン(現)イラク大統領である」と答えている。その後、虐殺などの罪で起訴され、2005年10月19日にバグダードの特別法廷で初公判が開かれた。だが初公判の時に裁判長の質問に答えずにコーランを法廷中に唱えたり、名前を聞かれても名乗ることはなく、キリスト教徒に囲まれた回教徒であるひとりの人間がいかに抑圧されているかということが表れている。この裁判の翌日にサッダームの弁護士の1人が誘拐され殺害された。また11月にも弁護士の1人が殺害され1人が負傷し、サッダーム弁護団の警備強化をイラク政府に訴えている。2006年11月、フセインは死刑判決を言い渡された。フセインは判決を言い渡されると、「イラク万歳」と叫び、裁判を「戦勝国による茶番劇」だとして非難している。
なお、フセインの逮捕拘束や裁判判決がアメリカの国政選挙の直前というタイミングで行われていることから現政権の選挙対策に利用されているのではないのかという論調も存在する。イラク戦争の大義名分であった大量破壊兵器について、後にブッシュ大統領が2006年に入って「イラクに大量破壊兵器は無かった。」との発言をしている。
[編集] 年譜
- 1937年4月28日 -- イラク北部、ティクリートのアル=アウジャ村にて出生。
- 1957年 -- バアス党に入党。
- 1959年 -- カーセム首相暗殺未遂事件で死刑判決を受け、エジプトに亡命。
- 1963年 -- イラクに帰国。
- 1964年10月14日 -- 逮捕投獄。
- 1966年 -- 脱獄。
- 1968年 -- バアス党によるクーデターに参画。バクル大統領の就任を助ける。
- 1979年 -- バクル大統領引退。大統領就任。
- 1980年 -- イラン・イラク戦争開戦。
- 1990年 -- クウェートを占領。
- 1991年 -- 湾岸戦争に敗北。
- 2003年7月22日 -- 息子のウダイとクサイが米軍との銃撃戦で死亡。
- 2003年8月 -- アメリカが懸賞金をかける。
- 2003年12月14日 -- サッダーム元大統領を拘束と日本の各メディアは発表、欧米メディアは、サッダーム拘束と発表している。ティクリートの南15km地点の町の民家の地下に隠れており、銃2丁と75万米ドルを所有しており、付け髭で偽装。同日午後9時に米軍(暫定政権局)が記者会見を行い、サッダームの映像も公開された。2005年5月には拘留中のサッダーム元大統領の下着姿の写真が新聞に掲載され、サッダーム元大統領が虐待がされているのではないか?という疑惑に発展し世界中に波紋を広げた。
- 2005年 -- サッダーム・フセインの著書発禁に。
- 2005年7月30日 -- イラクの特別法廷(高等法廷)の予審尋問の際に何者かに暴行を受ける事件が起こったとサッダームの弁護団が発表した。アメリカ側はこの暴行事件を否定している。
- 2005年10月19日 -- 特別法廷(高等法廷)で初公判が開かれた。
- 2006年11月5日 -- イラク特別法廷(高等法廷)にて死刑判決。
[編集] 家族
- 父:フセイン・アル=マジド(Husayn al-Majid) 若くして死亡
- 母:スブハ・トゥルファ(Subha Tulfah al-Mussallat)
- 妻:サージダ・ハイラッラー・タルファーフ(Sajida Talfah) 最初の妻で、ウダイ、クサイ、ラガド、タナ、ハラの母。
- 長男:ウダイ・サッダーム・フセイン(Uday)
- 次男:クサイ・サッダーム・フセイン(Qusay)
- 長女:ラガド(Raghad)(1967-)
- 次女:ラナ(Rana)(1969-)
- 三女:ハラ(Hala)(1972-)
- 第二夫人:サミーラ・アッ=シャフバンダル(Samira Shahbandar)(1946-) 二番目の妻で、アリーの母。
- 三男:アリー・サッダーム・フセイン・アル=ティクリーティー(Ally)
- 第三夫人:ニダル・アル=ハムダニ
- 第四夫人:イマン・フワイシュ
- 異父弟:サブアーウィー・イブラーヒーム・ハサン(Sabawi Ibrahim Hasan)
- 異父弟:バルザーン・イブラーヒーム・ハサン(Barzan Ibrahim Hasan)
- 異父弟:ワトバーン・イブラーヒーム・ハサン(Watban Ibrahim Hasan)
[編集] 「親日家」説?
フセインは日本の明治天皇を特に信奉しており、自分の私室にも明治天皇の肖像画を掲げていた。また、当時イスラム諸国ではテレビは貴重品で、イラク国内でも殆ど手に入らなかった。それはフセイン元大統領も同じのようで、フセインは1991年時でも『日本はアメリカを敵視している』と思い込み、湾岸戦争勃発時の際は『日本がイラクと手を結ぶ』と本気で考えていたらしい。結果、終戦時に日本が欧米諸国に追随していた事を知り、酷く落胆したと言われている。
[編集] 脚注
- ↑ サッダーム・フセインという名は「フセインの息子サッダーム」を意味する。彼を含め多くのイラク人の名前には、日本や欧米の人名慣習でいう「姓」にあたるものは存在しない。日本ではサッダームのフルネームをつづめて呼ぶ際には「フセイン」とすることが多いが、これは彼の全名の中に含まれる父の名の部分であって、本来適切ではない。アラブ諸国では、つづめて呼ぶ際にはサッダームとする。
- ↑ 全名の「サッダーム・フセイン・アブドゥルマジド・アッ=ティクリーティー」は「ティクリート出身のアブドゥルマジドの息子フセインの息子サッダーム」と解される。詳細はイスラム圏の名前を参照。
[編集] 外部リンク
- Video