三遊亭楽太郎
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三遊亭 楽太郎(さんゆうてい らくたろう、本名:會 泰道(あい やすみち)、1950年2月8日 -は、東京都墨田区出身。円楽一門会所属の落語家、出囃子は師匠の圓楽と同じ「元禄花見踊り」(以前は「花が咲き候」を使用)。墨田区立両国中学校、東京都立深川高等学校、青山学院大学法学部卒業。血液型A型。
博士号を取得しているため、笑点メンバーは元より、お笑い界でもインテリとして通っている。弟子に稽古を付ける際も理詰めで行うほどである。この知識の豊富さから、相談を受けることも多いようである。
ただし、彼の取得している博士号はいわゆる学位ビジネスをおこなう非認定大学(=ディプロマミル)のものであり、実際の学術的・社会的評価はほとんど無い点には注意が必要である。
趣味はゲートボール。審判員の資格を持ち、テレビ朝日系のゲートボール番組で審判を務めていたこともある。また、生前のジャイアント馬場と親交があり、落語界きってのプロレスファンとしても知られる。プロレスラーの天龍源一郎とは墨田区立両国中学校の同級生。ちなみに角界の田上明にプロレス転向を勧めたのも楽太郎である。2006年3月、TBSテレビ系の「ズバリ言うわよ!」にゲスト出演した際、細木数子に人物鑑定されたが、笑点の中で彼女を否定するネタを披露したことから、彼女を良く思っていない可能性がある。
2006年4月、代々木アニメーション学院学院長に就任した。
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[編集] 笑点でのキャラクター
1977年8月から「笑点」の大喜利に出演している。この年の3月には師匠圓楽が、8月には圓楽の弟弟子の三遊亭圓窓が卒業したので、その後任として三笑亭夢之助とともに笑点に出演した。 笑点で着用している高座着(着物)の紫色は、師匠圓楽が回答者の時に着用していた色と同じである。
なお夢之助は1979年に笑点を卒業している、その時の後任は後に圓楽一門に移籍してくる林家九蔵(現三遊亭好楽)であった。好楽は1983年10月に一度卒業しているが、1988年4月に復帰していて現在も出演している。また圓楽一門では香盤は好楽の方が上である。
他のメンバーからは、腹黒と呼ばれ、たまに師匠である圓楽を「若竹で借金をこさえた人」「馬面」と言い、時には馬扱いする(大喜利で歌丸が賞を取ったときのネタで、うちの師匠は菊花賞と天皇賞の2冠を取りましたよetc.)など小バカにするが、本心ではないらしい。現に圓楽とともに贈答品のCMに出演したこともある。
かつては顔が瀬古利彦に似てたので、彼の物真似もやっていた。瀬古が引退してからはやっていなかったが、「笑点」2005年7月31日放送分で林家たい平に17年ぶりに「これを給水地点まで持って行くといいって隣の瀬古選手が言ってたんですよ」と言われた。
大喜利の挨拶では、毎回、世評などの小難しい薀蓄をたれ、インテリであることをアピールしていた。それに対して、林家こん平が「私にはそういう難しいことがよくわからないんですが・・・・」と挨拶でのべるのは長年の定番であり、回答でも長々としゃべって座布団を没収されたり、途中で司会の円楽が次の回答者を指名したりすることが多かった。歌丸が司会になってからは多少パターンを変え、歌丸に自殺行為を促すようなネタ(棺桶に入れ、飛び降りろなど)や他愛もないことをくどくどしゃべるパターンが増えている。
春風亭昇太が加入してからは、両隣の昇太やたい平を率いて「フレッシュヤングチーム」を結成した。その後、腹黒にあやかり「ブラック団」と命名している。しかし、勝手に同チームのメンバーにさせられた昇太とたい平は、あまり乗り気ではないらしい。そして、小遊三・好楽・木久蔵の年長メンバー3人からは「3人でやればいいじゃないか」と冷たくあしらわれ、特に木久蔵には「3人でNHKに行け!」とまで言われる始末。
なお、代々木アニメーション学院学院長に就任した直後は、歌丸が楽太郎に対し「学院長」と言ったりする場面がよく見られたが、2006年5月に学院が学費返還で公正取引委員会から排除命令を受けてからは、番組内で学院長について触れられることはあまりなくなった。
[編集] 歌丸VS楽太郎の罵倒合戦
桂歌丸についても「あの世へ逝った」や「毛が無い」、「お迎えが来る」などと侮辱ネタをやるため、歌丸が激怒し、座布団を持っていかれることも。最悪の場合「くたばれ」「いらねぇや、こんなもんっ!」「じゃ、やめたっ!」「やるかじじい」(最近はこれが一番多い)等と言う事もある。歌丸が司会に就いてからは楽太郎の「歌丸死亡ネタ」は、「山田くん! 楽さんの座布団全部持っていって」と座布団没収が日常茶飯事。ちなみに歌丸が司会になってから現在まで、楽太郎の座布団が6枚を超えた事はない。
最近の歌丸侮辱ネタは、死亡(棺桶・遺体・火葬・通夜)、ガリガリ、禿(鶴・毛がない)、骸骨などが多い。
一番最悪なケースは2006年8月13日放送の第3問。この時は童謡「くつがなる」の歌詞「お手手繋いで○○行けば」に関する問題だった。その際楽太郎がメンバー全員の手を繋いで、
楽太郎:「おー手ー手ー、つーないでー、お通夜にーゆーけーばー♪」
歌丸:『どうなったの?』
楽太郎:「遺体が喋った!!」
と歌丸の顔を見て言い、他のメンバーも「おお!?」と便乗した為、機嫌を損ねた歌丸が全員の座布団を全部没収するという珍事になった。一番被害を受けたのは春風亭昇太で、7枚も座布団を持っていたが楽太郎のお陰で全部没収となった。全員が座布団0枚の状態で〆を迎えたのは、笑点の歴史の中でもかなり珍しい事といえる。楽太郎の歌丸死亡ネタでブラック団全員座布団没収ネタもあった。
歌丸が司会就任までは、楽太郎の歌丸侮辱ネタは、座布団数枚没収か全部没収が定例であった。最近では、ブラック団で歌丸死亡ネタや、楽太郎が歌丸死亡ネタを発言しても座布団全部没収の機会は少なくなり、たいていの場合でも1枚没収、どんなに多くても3枚かブラック団会員各1枚没収に留まっている。しかし過去のケースでは、楽太郎が座布団6枚貯まった際に、歌丸死亡ネタ・禿ネタを言った際に没収の傾向があるので、歌丸が楽太郎の座布団の枚数を見計らって全部没収する可能性がある。
この様に、大喜利での遣り取りを見ていると、一見犬猿の仲のように見えるが、それは舞台の上だけであり、楽屋では至極仲が良く、独演会に歌丸がゲスト出演したり、また所属団体(歌丸は落語芸術協会、楽太郎は円楽一門会)の枠を越えての二人会も多く行われている。楽太郎もそれを非常に誇りとしている。2007年5月には、メキシコで二人会を開催することも予定されている。
ちなみにこのネタを言い出したのは、楽太郎が笑点のレギュラーになった当時、楽太郎は答えるのに困っていたようで、歌丸が「俺のことでもいいから」と言ったことがきっかけである。(このことは歌丸か楽太郎の回の『いつみても波瀾万丈』で明かされていた)
なお、この犬猿の仲の設定は、1980年急逝した三遊亭小圓遊との間の設定を踏襲したものである。歌丸と小圓遊との主な罵倒合戦については、三遊亭小圓遊の項目を参照のこと。歌丸も「毛がない」ことは自身でも認識しており、「儲けはない(もう毛はない)」と自ら発言したこともある。
[編集] 芸歴
- 弟弟子の後任であるから前任が着ていた桃色の高座着を着用するところだが前任卒業当時師匠の卒業で欠員が出ていたため師匠が着ていた紫色の高座着を着用する事となった。
- ちなみに桃色の高座着を着用したのは同じく新メンバーとして加わっていた三笑亭夢之助(2年後降板)である。
- 1979年、落語協会分裂騒動で師匠と共に脱退し落語三遊協会所属となる。この際師匠の弟弟子も加わっていたが大師匠三遊亭圓生 (6代目)が死去すると復帰。しかし師匠は死去後も復帰せず以降師匠と行動を共にして現在に至っている。ちなみに現在は「円楽一門会」所属である。
- 1981年3月、真打昇進。
[編集] 映画やドラマ等
- VIIでは桂歌丸が卯之吉(楽太郎)の父治助役で出演した。また、一度だけ歌丸と楽太郎の罵倒合戦がある。
[編集] CM
- 太洋技建(ポリマーライト)
- 野村證券(株券電子化篇、桂歌丸・林家木久蔵と共演、8月からは三遊亭好楽が加わった)
- 日本香堂 (毎日ローソク ※低煙線香「青雲」のCMで師匠の三遊亭圓楽 (5代目)と共演(※ ただし、師匠は声のみ)していた事がある)
- 代々木アニメーション学院
[編集] 受賞歴
- 1979年1月、放送演芸大賞最優秀ホープ賞受賞
- 1981年1月、若手落語家努力賞受賞
[編集] その他
- 1980年 - 、税務大学校講師
- 1991年9月、アメリカンM&N大学より理学博士号授与
- 1992年11月、国税庁長官より表彰を受ける
- 1994年4月 - 、栃木・中央福祉医療専門学校客員教授
- 1996年9月 - 、ハワイ・オアフパークゴルフ協会名誉顧問
[編集] 一門弟子
また、伊集院光は過去に「三遊亭楽大」という名で楽太郎の弟子だった(自主廃業をしたが、2003年の一門会には参加。楽太郎は今も身内として扱っている)。「伊集院光」はラジオでの芸能活動を楽太郎に知られないようにするため考えられた芸名。 1995年には伊集院のラジオ番組にゲスト出演し、思い出話に花を咲かせた後伊集院を叱咤激励した。