六本木
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[編集] 概要
江戸時代は大半が武家地であった。明治時代以降は東京市の麻布区に位置し、お屋敷町であったが、戦後、都内有数の繁華街として全国的に知られるようになった。
六本木は、繁華街というイメージが強いが、それだけでなく、六本木ヒルズ森タワーや泉ガーデンタワーといったビジネスエリアや、鳥居坂などの高級マンション街もあり、多面的な顔を見せている。
なお、六本木は、もともとは麻布地域の一地区に過ぎなかった。また、明治~昭和初期にかけては長らく麻布区であったことから、現在も六本木は麻布と地域的繋がりが強い。行政区分や警察署・郵便局の管轄も、六本木は麻布管内となっている。
[編集] 沿革
[編集] 由来
地名の由来は6本の松の木があったことに由来する説、青木氏、一柳氏、上杉氏、片桐氏、朽木氏、高木氏の各大名屋敷が存在したことに由来する説などがある。もとの「六本木町」は江戸時代の門前町である。明治以降の「六本木町」は、現在の六本木交差点付近の名称であった。1967年(昭和42年)に、この六本木町のほか、竜土町・三河台町・今井町・材木町・鳥居坂町・飯倉片町(の一部)・北日ヶ窪町など麻布地区北部一帯の住居表示が実施され、町名は六本木(六本木一丁目から六本木七丁目まで)に整理再編された。(住居表示実施前後の町名町域の対照を参照。)
明治維新後は武家屋敷跡がお屋敷町になった。また、日本軍の軍事施設が置かれており、六本木七丁目には1936年の二・二六事件にも参加者を出した歩兵第三連隊があり、隣接する赤坂九丁目には歩兵第一連隊と、兵隊の町でもあった。
[編集] 繁華街
これらの軍事施設は太平洋戦争終戦に伴いアメリカ軍に接収される。そのため外国人向けの商店や飲食店が多く集まるようになる。また、テレビ局も開局し、次第に現在のようにバーやクラブ、キャバクラなどが林立する繁華街を形成するようになった。(なお歩兵第三連隊は接収解除後、東京大学生産技術研究所となっていたが、駒場に移転。跡地では国立新美術館などが建設されている。赤坂九丁目の歩兵第一連隊の方は防衛庁が使用していたが、これも2000年5月に移転。現在は再開発(東京ミッドタウンプロジェクト)が進行中である。)
1960年代後半からは、外国人や若者向けのディスコがいくつかオープンし、芸能人やマスコミ関係者、外国人が夜な夜な出歩く東京の代表的な夜遊びスポットとなる。その後、1980年代後半のバブル経済期にはディスコだけで数十軒が立ち並ぶようになり活況を呈したが、その後バブル経済の崩壊とともに多くの店が閉店した。
現在では、夜になるとクラブ通いの若者や外国人のほか、キャバクラ嬢が客引きのために街頭に出ている姿が見られる。また傷害事件やカジノ賭博・麻薬密売等の違法行為も存在し、時折検挙等により明るみになることがある。
また六本木一丁目のスペイン大使館、スウェーデン大使館などの外国公館や、六本木七丁目のアメリカ軍施設(ヘリポート、星条旗新聞社ほか)などがあり外国人の姿も目立つ。外国人向けの飲食店の数も多い。
[編集] 六本木ヒルズ
麻布日ヶ窪(現在の六本木六丁目)には江戸時代に長府毛利家(長州藩支藩の長門府中藩)の屋敷がおかれた。長門府中藩(長府藩とも。現山口県下関市の一部)出身の乃木希典もこの地で生れている。1952年にはニッカウヰスキー東京工場が建てられ、ニッカウヰスキーの後に1977年にはテレビ朝日本社が建てられた。1980年代から再開発(通称:六六再開発)が行われ、2003年にようやく六本木ヒルズがオープンした。
[編集] 東京ミッドタウン
現在、旧防衛庁本庁舎跡(住居表示では赤坂九丁目だが、六本木交差点にも近く隣接している)に新たな複合施設東京ミッドタウンが、2007年のオープンを目指して建設中である。これが完成すると六本木ヒルズと並ぶ名所スポットになると言われている。
[編集] 交通
- 鉄道
- 道路
[編集] 施設
- アマンド
- 泉ガーデンタワー
- 六本木ヒルズ
- テレビ朝日
- グランドハイアット
- 六本木プリンスホテル
- テイクシステムズ
- ホテルアイビス
- マハラジャ(現在はレストラン)
- スペイン大使館
- サウジアラビア大使館
- ヴェルファーレ
- ドン・キホーテ六本木店
- アトリエフォンティーヌ
- 俳優座劇場
- 自由劇場(廃館)
- 国際文化会館
- TSK CCC