加藤英司
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加藤 英司(かとう ひでじ、1948年5月24日 - )は、静岡県榛原郡川崎町(現・牧之原市)生まれ。昭和後期から平成期(1970年代-2000年代前半)のプロ野球選手、野球解説者。左投左打。旧名「秀司(ひでじ)」。
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[編集] 来歴・人物
PL学園高等学校に進学、その後松下電器を経て、1969年ドラフト2位で阪急ブレーブスに入団(背番号10)。3年目の1971年、一塁手のレギュラー定着。ヒザを深く曲げ、折りたたむように構える独特の打法で勝負強い打撃を買われ、1973年、打率.337で首位打者。1975年は32本塁打、97打点で打点王を獲得。パ・リーグMVPを獲得。1979年には打率.364で2度目の首位打者を獲得、35本塁打、104打点と自己最高の成績を残す。
永く阪急の三番打者として活躍するも、1982年.236の成績に終わると、上田利治監督の若手切り替え方針にのっとり島谷金二らV4戦士の引退勧告とともに、水谷実雄との大型トレードにより広島東洋カープに移籍(背番号6)するが、肝炎のため成績を残すことが出来ず。1年限りで近鉄バファローズへ移籍(背番号5)。1986年読売ジャイアンツに移籍(背番号10)するも代打での出場が目立ち、2000本安打まで残り13安打にこぎ着けたものの、同年オフ解雇される。
1987年、阪急時代の恩師西本幸雄氏の誘いで南海ホークスに移籍(背番号7)。西暦と同数の1987安打でスタートという点も注目されつつ、同年念願の2000本安打を達成し引退。
1971年のオールスターゲームで、江夏豊が9連続奪三振記録を作ったときの9人目の打者(代打)。愛称はコメディアン・加藤茶にちなんで「チャ」。
1988年~1994年関西テレビの解説者を経て、1995年~1997年日本ハムファイターズ打撃コーチを務める(この時に当時教え子だった小笠原道大と二人三脚で練習を行い、小笠原の才能を開花させた)。1998年から2003年途中までKBS京都の解説者。2003年オリックスの春季キャンプ臨時打撃コーチを務めたが、石毛宏典監督シーズン途中解任に伴い、急遽シーズン途中からサーパス神戸監督に就任(古巣復帰は1982年以来21年ぶり)。2005年まで務めた。セ・リーグに移籍するとほとんど活躍できなかったことから、元日本ハム・西武の高橋直樹や元オリックス・ダイエーの松永浩美同様に「パ・リーグ男」と呼ばれる。
[編集] タイトル・表彰
- 首位打者 2回(1973年、1979年)
- 最多安打 1回(1979年)
- 打点王 3回(1975年~1976年、1979年)
- 最高出塁率 3回(1976年~1977年、1979年)
- MVP(1975)
- ベストナイン 5回(1973年、1975年~1977年、1979年)
- ゴールデングラブ賞 3回(1975年~1977年)
- オールスター出場 11回(1971年、1973年~1982年)
- オールスター最優秀選手 (1971年第3戦)
[編集] 通算成績
- 出場試合 2028
- 通算打数 6914
- 通算得点 1031
- 通算安打 2055
- 通算二塁打 367
- 通算三塁打 37
- 通算本塁打 347
- 通算打点 1268
- 通算盗塁 136
- 通算犠打 62
- 通算犠飛 105
- 通算四死球 882
- 通算三振 1067
- 通算打率 .297