海難事故
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海難事故(かいなんじこ)とは、船舶の運用中においておきた事故である。「海難」とあるが、河川・湖沼などにおいての事故も含まれる為、水難事故(すいなんじこ)と呼ぶことがある。一般的に、戦争に起因する被害は海難事故に含まれないことが多いが、ここでは特に社会的影響の大きかったものに限り、便宜的に記載する。
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[編集] 1900年代以前
- 1707年10月22日:英国シリー諸島沖で英国海軍艦隊4隻が座礁。2000人を超える犠牲者を出した。
- 1865年4月:アメリカ合衆国のミシシッピ川で就航していた貨客船のサルタナ号が過積載のためボイラー爆発、火災を起こし沈没。少なくとも1450人が死亡。
- 1877年11月19日北海道瀬棚海岸沖にてロシア軍艦アレウト号がおりからの暴風に煽られ座礁。乗組員60人全員が地元住民により救助されるも、翌1878年4月20日迎えに来た軍艦エルマック号へアレウト号乗組員がボートで向かう途中高波により転覆、12人が犠牲になった。
- 1886年10月24日:英国商船ノルマントン号が、紀州潮岬沖で沈没、日本人乗客25人ほか、中国人、インド人乗組員12人が死亡。イギリス人船員は全員生存し、当時の日本で社会問題になった。(ノルマントン号事件)
- 1886年12月:日本海軍の巡洋艦畝傍がフランスから日本への回航中、シンガポールを発ったのを最後に消息を絶つ。荒天により沈没と思われるが原因や状況などは現在に至るまで不明。乗組員や日本海軍の将兵など計90人が行方不明となった。
- 1890年9月16日:日本和歌山県樫野崎灯台付近で荒天下、トルコ海軍艦エルトゥールル号が座礁沈没。乗員約600人中、地元の漁民らによって69人が救出されたが、587名が死亡または行方不明となった。(エルトゥールル号遭難事件)
[編集] 1900年代
- 1904年6月15日:ニューヨークにて遊覧船「ジェネラル・スローカム」がイースト川で火災。犠牲者1031人。
- 1909年7月26日:イギリス船籍貨客船ワラタ号が南アフリカ・ダーバンから出航後、サイクロンに遭遇、転覆沈没したと推定される。乗員乗客211名全員行方不明。
[編集] 1910年代
- 1912年4月14日:イギリス船籍客船タイタニック号が処女航海中氷山に衝突し、沈没。1517人が死亡。
- 1914年5月29日:カナダ船籍客船「エンプレス・オブ・アイルランド号」(14191t)が濃霧のセントローレンス川でノルウェー船籍貨物船「ストールスタッド号」(6028t)と衝突し沈没。1024人が死亡、行方不明。
- 1915年5月7日:英国船籍客船「ルシタニア号」がUボートの雷撃で沈没。米国人を含む1198人が死亡。(ルシタニア号事件)
[編集] 1920年代
- 1926年12月:漁船「良栄丸」(19トン)が本州東方海上で荒天のため機関を破損して航行不能となり、漂流。乗組員全滅後、27年10月末に北アメリカ西岸に漂着した。
[編集] 1930年代
- 1934年3月12日:日本海軍の水雷艇「友鶴」が演習中に転覆。乗員100名が死亡。(友鶴事件)
- 1935年9月26日:日本海軍第四艦隊が演習中、台風に遭遇。54名が死亡。(第四艦隊事件)
- 1939年12月12日:オホーツク海にてソ連船「インディギルガ号」が座礁沈没、700名以上が死亡。
[編集] 1940年代
- 1945年8月22日:樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」・「第二新興丸」・「泰東丸」が終戦後にも関わらずソ連潜水艦の雷撃・砲撃を受け大破・沈没。1700名以上が死亡。犠牲者の大半は女性・子供だったという。なお、第二新興丸の必死の反撃により、ソ連潜水艦も一隻が沈没している。
- 1948年2月28日:阪神~多度津航路の女王丸が瀬戸内海牛窓沖で機雷に触れ沈没。死者行方不明183人。(女王丸事件)
[編集] 第二次世界大戦時
- 1944年8月22日:児童疎開船「対馬丸」米潜水艦の雷撃により沈没。疎開児童708名を含む1484名が死亡。
- 1944年9月18日:捕虜交換船「順洋丸」英潜水艦の雷撃により沈没。連合国軍の捕虜など約5620名が死亡。
- 1944年12月:アメリカ第三艦隊がフィリピン沖で台風の暴風に遭い、駆逐艦数隻が沈没、多数の艦載機が失われ、800人以上が死亡する大惨事となった。当時行われていた日本軍の神風特攻攻撃よりも遥かに甚大の損害を受けた本当の「カミカゼ」であった。
- 1945年1月30日:バルト海にてソ連潜水艦の雷撃によりドイツ客船「ヴィルヘルム・グストロフ号」沈没。乗船していた難民など9331名が死亡。史上最悪の海難事故。
- 1945年2月10日:ドイツ客船「シュトイベン号」、ソ連潜水艦の雷撃により沈没。難民など4500名が死亡。
- 1945年4月1日:阿波丸事件。安全航行を保障されていた緑十字船阿波丸が台湾海峡にて米潜水艦により撃沈される。乗客2000名以上が死亡。
- 1945年4月16日:ドイツ客船「ゴヤ号」、ソ連潜水艦の雷撃により沈没。難民など6666名が死亡。
- 1945年5月3日:ドイツ客船「カップ・アルコナ号」、英空軍の空襲により沈没。5594名が死亡。強制収容所の収容者が多く犠牲となった。
- 1945年7月29日:米重巡洋艦「インディアナポリス」、日本潜水艦伊58の雷撃により沈没。米海軍は同艦沈没の事実を人為的ミスによって丸四日間気付かず、乗員1196人中、880名が死亡した。同艦は広島へ投下された原子爆弾の輸送任務を終えた直後だった。生き残ったマクヴェイ艦長は軍法会議にかけられ有罪となり、1968年に自殺している。この事件は海軍の真相隠蔽疑惑と、マクヴェイ艦長の名誉回復を巡って今も論争が続いている。
[編集] 1950年代
- 1952年9月24日:当時活発な活動を繰り返していた海底火山・明神礁の調査に向かった海上保安庁の測量船「第五海洋丸」が、明神礁付近で調査を行っている際に突如発生した海底火山噴火に巻き込まれ、沈没。船長以下乗組員22人と学術調査員9名の31人全員が死亡した。
- 1954年9月26日:青函連絡船洞爺丸、台風15号(洞爺丸台風)による暴風より転覆・沈没。乗員乗客1155名が死亡、これは1912年のタイタニック号、1865年のサルタナ号火災に次ぐ世界第三の海難事故となった。またこの他に第十一青函丸・北見丸・日高丸・十勝丸も沈没。278名が死亡している。これは国鉄戦後五大事故の一つになっている。
- 1955年5月11日:いずれも宇高連絡船である紫雲丸(貨客船)と第3宇高丸(貨物船)が濃霧の中で衝突し、紫雲丸が沈没、死者166人、負傷者122人。これも国鉄戦後五大事故の一つに数えられる。(紫雲丸事故)
- 1956年7月25日:イタリア客船「アンドレア・ドリア号」(29083t)と、スウェーデン客船「ストックホルム号」(25000t)が濃霧の中で双方ともレーダーを過信し、20ノットの高速で航行中に北大西洋・ナンタケット島沖で衝突。アンドレア・ドリア号は沈没し、双方で55人死亡。
- 1957年4月12日:瀬戸内海の定期客船であった第5北川丸が、定員の3倍超の乗客を乗せ生口島瀬戸田港から尾道港に向け出航したところ、途中の暗礁に座礁・転覆し死者・行方不明113名を出す惨事になった。海難審判では船長の職務上の過失に加え、運航会社による管理が不適当であったとされた。(第5北川丸沈没事故)
- 1958年1月26日:紀阿連絡航路の旅客船「南海丸」が和歌山市に向け徳島県小松島市から出航したところ、悪天候に遭遇したため紀伊水道沼島沖で沈没。乗員乗客167名全員が死亡・行方不明になった。沈没までの詳細な過程は生存者がいないため不明である。(南海丸遭難事故)
[編集] 1960年代
- 1965年10月7日:マリアナ諸島アグリガン島の島陰で台風を避けていた日本のかつお・まぐろ漁船群が、台風の予想外の針路変更と急発達のため暴風圏内に巻き込まれ、6隻沈没、1隻が陸に打ち上げられて大破沈没し、死亡及び行方不明者209人の大量遭難となった。(マリアナ海難)
- 1969年1月5日:野島崎南東沖合を航行中のばら積貨物船「ぼりばあ丸」(総トン数33,768t)の船首部分が突然折損脱落して航行不能となり、約1時間後に沈没。船長ほか乗組員30人が行方不明となった。翌1970年2月9日にも野島崎東方沖合で鉱石船「かりふおるにあ丸(総トン数34,001t)」遭難事件(船体破損により浸水沈没。船長ほか4名死亡)が発生し、どちらも就役して5年も経たない(ぼりばあ丸:3年3ヶ月、かりふおるにあ丸:4年4ヶ月)新鋭大型貨物船が相次いで船体破損で沈没したことは、当時大型船建造を推し進めていた日本の造船業界に大きな衝撃を与えた。
- このころから世界中で大型タンカーが建造され始めたが、当初知りえなかった現象(静電気の発生、それが残油に引火)により、多くの船が爆発炎上している。
[編集] 1970年代
- 1974年11月9日:LPG・石油タンカー「第十雄洋丸」とリベリア船籍の貨物船「パシフィック・アレス号」が東京湾木更津沖で衝突し、炎上した。双方合わせて33名死亡。「第十雄洋丸」は当時日本最大のLPG・石油混載タンカーで、プロパン、ブタン、ナフサを合計57,000トン積んでいた。「第十雄洋丸」は消火が困難であるため、曳航され東京湾外の野島崎沖40キロの海上で海上自衛隊により、護衛艦による艦砲射撃、航空機による爆撃、潜水艦による魚雷攻撃によって海没処分されたが、「第十雄洋丸」は自衛隊の攻撃に約29時間耐え、衝突から20日目の11月28日18時47分に沈没した。
[編集] 1980年代
- 1987年12月20日:フィリピン客船「ドニャ・パス号」(2640t)とガソリンを積載した小型タンカー「ヴェクター号」(640t)が、フィリピン・タブラス海峡で衝突し炎上、双方が沈没。正確な乗船数は不明だが、少なくとも1576人以上死亡、行方不明。平時における最大の海難事故といわれている。
- 1988年7月23日:海上自衛隊の潜水艦「なだしお」と遊漁船「第一富士丸」が横須賀港北防波堤灯台東約3キロ沖で衝突。「第一富士丸」は衝突から2分後に沈没し、乗客39、乗員9のうち30名が死亡、17名が重軽傷を負った。(なだしお事件)
[編集] 1990年代
- 1994年9月28日:スウェーデン船籍フェリー「エストニア号」(21794t)がバルト海で荒天下に転覆、沈没。852人死亡。
- 1999年5月21日:クルーズ客船「サン・ビスタ」がマラッカ海峡で機関室からの失火が原因で沈没。速やかな避難誘導が行われたため犠牲者は無し。このことでが原因で運航していたクルーズ会社は倒産した。
[編集] 2000年代
- 2000年8月12日:ロシア海軍の原子力潜水艦「クルスク」がバレンツ海において演習中原因不明の爆発事故で沈没。乗員118名が死亡。
- 2001年2月10日:えひめ丸事件。オアフ島沖で宇和島水産高校の練習船「えひめ丸」がアメリカ海軍の原子力潜水艦に衝突され沈没。えひめ丸の乗員35名中9名が死亡。
- 2002年9月26日:セネガル政府所有のフェリージョラ号が、ガンビア沖で沈没。この惨事で少なくとも1,863人が死亡し、アフリカ史上最悪の海難事故となった。
- 2002年11月26日:ノルウェーの海運会社HUAL社所有のバハマ船籍自動車専用船「HUAL・ヨーロッパ」、日本の伊豆大島沿岸で座礁。大量の重油が流出し、火災が発生。乗組員24名は無事。
- 2003年7月2日:玄界灘海難事故。福岡県沖の玄界灘にて日本船と韓国船が衝突。日本側の1名が死亡、6名が行方不明。
- 2006年2月3日:サウジアラビアからエジプトに向かって紅海を航行していた1400人乗りのフェリーのアル・サラム・ボッカチオ98がフェリーデッキに載せていた車両からの火災が原因で沈没。1000名以上の死者・行方不明者を出した。悪天候の他に船が老朽船である上に改造で重心が極めて高くなっていたので、消火活動を続けているうちにバランスを崩して転覆したのが原因とされる。なお、生存者の証言によれば船長が真っ先に逃亡したらしい。
- 2006年9月2日未明:『海上レストランスカンジナビア』として2005年3月まで静岡県沼津市西浦木負で使用されていた現存する豪華客船では最古の『ステラ・ポラリス号』が、伊豆箱根鉄道より故郷のスウェーデンの企業に買収された後、8月31日に出航し、中国上海での改修工事の為、航行中、和歌山県潮岬沖3㎞(水深72m)の海上で沈没。乗船者はおらず、死亡者・けが人は0人。