洞爺丸
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洞爺丸(とうやまる)は、戦災で壊滅した青函連絡船の復興のため、国鉄がGHQの許可を受けて建造した車載客船4隻のうちの1隻。
1954年、台風15号(マリー)の暴風のため転覆。死者・行方不明者あわせて1139人という悲劇の船として歴史に残ることになった。台風15号は洞爺丸台風と命名されている。
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[編集] 概要
1947年11月21日就航。新造時の要目は、総トン数3,898トン、全長118.7メートル、全幅15.85メートル、航海速力15.5ノット、乗客定員1,128人、乗組員120人、積載車両「ワム貨車」18両。同型船は羊蹄丸、摩周丸、大雪丸。
戦後の困難な状況のもとで建造されたとは思えないほどの充実した設備を誇り、1950年には僚船渡島丸と共に、日本の商船で初めてレーダーを装備し、1954年8月の昭和天皇北海道行幸の際にはお召し船となるなど、「海峡の女王」と呼ばれ、青函航路のフラッグ・シップとして親しまれていた。しかし、昭和天皇が利用してから僅か一ヵ月余り後の1954年9月26日、台風によって転覆、多くの犠牲者を出すことになる。
[編集] 洞爺丸の遭難(洞爺丸事故)
[編集] 経緯
以下では、1954年9月26日の経緯を記す。
未明に日本に上陸していた台風15号は12時現在、佐渡島付近にあって、日本海を時速100kmを越えるスピードで北上していた。台風はその後渡島半島を通過して、17時ごろ津軽海峡にもっとも接近すると予想されていた。
11時00分、午前中青森からの3便で運航を行っていた洞爺丸は函館に到着。折り返し14時40分出航4便となる予定で、船長は台風接近前に陸奥湾に入り、青森に到着する見通しを立てていた。しかし、戦時標準船で船質が著しく劣るために危険を感じて運航を中止した第十一青函丸からの乗客・車両(この中に一等寝台車マイネフ38 5があった)の移乗に時間がかかり、またこの日函館市内で断続的に発生していた停電のために船尾の可動橋(車両を載せるために船体後部にかけられる橋)が上がらず、洞爺丸も15時10分に台風接近を恐れて運航を中止した。
17時ごろ、函館では土砂降りのあとに、風が収まり晴れ間ものぞき、台風の目が通過したことを思わせた。台風の速度から見て天候の回復は早いものになるとみて、海峡の気象状況を検討した結果、洞爺丸船長は出航を決断した。
18時39分、青森に向けて遅れ4便として出航。乗員乗客は合わせて1,337人。出航してまもなく、南南西からの風が著しく強くなる。
19時01分、天候が収まるのを待つために函館港外に投錨し仮泊。しかし、平均して40メートル、瞬間的には50メートルを越える南西方向からの暴風と猛烈な波浪のために走錨(強風などにより、錨を降ろしているにもかかわらず流されてしまうこと)する。また、船尾車両搭載口より進入した海水が車両甲板に滞留し、水密が不完全な構造だった車輌甲板からボイラー室、機関室への浸水がおこり、蒸気ボイラーへの投炭が困難になるとともに両舷の推進器蒸気タービンと左舷の発電機が停止した。両舷主機の停止で操船の自由を失った洞爺丸は沈没を避けるため、遠浅の砂浜である七重浜への座礁を決意する。
22時26分、七重浜沖で(恐らくは波浪のために海底に堆積していた漂砂に)触底。船体はなおも激しい波浪を受け続けた為大きく右舷に傾斜する。
22時39分にSOSを発信。長い青函連絡船の歴史を通じて初めて発されたSOSは、1300余名の人命が危機に瀕していることを示すには十二分であり、その重大な事実が青函局を震撼させた。
22時43分ごろ、乗組員の奮闘のかいなく海岸まであと数百メートルの地点で唯一の生命線であった左舷錨鎖が切れたため横倒しとなり、満載した客貨車の倒れる轟音とともに転覆。最後には船体がほぼ裏返しの状態になったといい、乗員乗客あわせて1139人が死亡または行方不明となった。なお、激しい風雨や情報の混乱などで救助活動が遅れ、七重浜に打ち上げられた時点では生存していたものの、そこで力尽きて亡くなった者が相当数いたとの記録もある。
[編集] その他
洞爺丸の他にも、僚船第十一青函丸、北見丸、日高丸、十勝丸の4隻でも同じような状況が発生して函館港外で相次いで転覆・沈没した(第十一青函丸は転覆しないまま船体破断で沈没)。車輌甲板に海水が浸入し滞留した場合、機関室への浸水を防ぎきれないというそれまで気づかれることのなかった連絡船の構造上の問題が浮き彫りになった。 また、当時函館湾内の波は洞爺丸の全長(約118m)より僅かに短い波長であり、この場合車輌甲板へ流入する水の量が極端に増大することが後の調査で判明している。遭難した5隻は車輌を積載していて、遭難を逃れた船は空船だった。
- 第十一青函丸(2,851トン) 19時57分を最後に通信途絶。後に波浪による船体破断のため沈没(全員が死亡したため正確な時刻は不明)。
- 北見丸(2,928トン) 22時35分葛登支灯台沖にて転覆沈没。
- 洞爺丸(3,898トン) 22時43分七重浜沖600mにて座礁。後に転覆。
- 日高丸(2,932トン) 23時32分SOSを発信し、23時40分防波堤灯台西方1.5kmにて転覆沈没。
- 十勝丸(2,912トン) 23時43分葛登支灯台沖8kmにて転覆沈没。
一夜にして遭難した5隻をあわせた犠牲者は最終的に1,430人にも上り、戦争による沈没を除けば1912年のタイタニック号沈没、1865年のサルタナ号火災に次ぐ世界第3の規模の海難事故である。他にも大雪丸のように沈没こそしなかったものの航行不能となった船もあり、青函連絡船は終戦前後の時期に近い壊滅的打撃を受けた。まさに航路開設以来、未曾有の大惨事であった。
台風は、予想と異なり、日本海側を進んで北海道に接近、しかも速度を大きく落としさらに発達、南西に開口した函館湾には台風の危険半円内にあったこともあって暴風と巨大な波が長時間にわたって来襲することになった。また、台風の目と思われた晴れ間は台風の前にあった閉塞前線の通過によるものであった。当時、このような複雑な気象現象を正しく観測し、予想することは非常に困難なことであった(最終的な気象状況の解析に2ヶ月かかったとの記録がある)。この特異な台風は、後に「洞爺丸台風」と命名された(同台風はその他にも各地に甚大な被害を残している)。なお、近年の研究によると、洞爺丸台風が函館付近に達していたときには既に温帯低気圧になっていたと推定されている。
[編集] 事故後の流れ
この事故をきっかけに、蒸気機関への自動給炭機設置やディーゼル機関船への転換が行われ、青函連絡船の運航も今までは船長の独断に任されていたものが船長と青函局指令との合議制になり、船体構造についても車両積載口への水密扉の設置、復元性の向上、車両甲板下の旅客区画の廃止等大きく変更され、それまでにも増して安全性に力が入れられた。事実、その後1988年3月13日の終航まで、青函連絡船で2度とこのような大きな事故がおきることはなかった。
また、本州と北海道を地続きにする青函トンネル構想が急速に具体化されることになったのである。
七重浜には、事故の翌年に犠牲者を悼む慰霊碑が建てられ、現在も海峡を行く船を静かに見守っている。
洞爺丸の船体は後日引き揚げられたが、引き揚げの遅延も災いして上部構造の損傷が著しく、現場検証後に解体された。また、第十一青函丸、北見丸も引き揚げ後解体された。一方、十勝丸と日高丸は、引き揚げ後車両甲板より上部の船体を新製(引き揚げ時、車両甲板より上は全て失われていた)して1956年に航路に復帰。日高丸は1969年、十勝丸は最後の蒸気タービン船として1970年まで使用された。余談ではあるが、マイネフ38は翌1955年7月の等級制変更によりマロネフ49となったものの、マロネフ49 5は現車が存在しない幻の(書類上だけの)車号となった。本船の保全命令が解かれた同年10月に正式に廃車手続きが取られた。
なお、後年本事故をモチーフとした水上勉の小説「飢餓海峡」(「層雲丸」として登場)が発表された。作品中では乗船名簿にない2名の遺体が確認されたことになっているが、実際の事故では乗船名簿の整備が不十分であったことや、函館港停泊中に船員の制止を振り切って下船した者などがおり、正確な犠牲者数を確定できなかった(殉職した国鉄職員については確定している)。本文中に記された1,430名という犠牲者数も数ある報告値の一つである。
同様の海難事故であるタイタニック号の遭難がこの事故の報道の際に取り上げられ、タイタニック号で日本人の唯一の生存者であった細野正文が、再び誤報をもとにして中傷される事件が起こった。いまでもタイタニック号の誤報を持ち出して日本人男性を非紳士的と主張する日本人女性の中には、このときの報道から彼の存在を知った者が多いとの指摘もある。
[編集] 関連項目
- 日本国有鉄道
- 国鉄戦後五大事故
- 紫雲丸事故(宇高連絡船紫雲丸の事故)
- 飢餓海峡(本事故をモチーフとした作品)
- 虚無への供物(本事故をモチーフとした作品)
- 洞爺丸は何故沈んだか(本事故のドキュメンタリー)