夏目漱石
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夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(旧暦1月5日) - 1916年12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、金之助。『吾輩は猫である』『こころ』などの作品で広く知られ、森鴎外と並ぶ明治時代の文豪である。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。
大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。東京帝国大学英文科卒業後、松山中学などの教師を務めた後、イギリスへ留学。帰国後、東大講師の後、「吾輩は猫である」を『ホトトギス』に発表。これが評判になり「坊っちゃん」「倫敦塔」などを書く。その後朝日新聞社に入社し、「虞美人草」「三四郎」などを掲載。当初は余裕派と呼ばれた。
修善寺の大患後は、「行人」「こころ」「硝子戸の中」などを執筆。「則天去私」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 幼少期
1867年2月9日、江戸の牛込馬場下で数代前から続く町方名主、夏目小兵衛直克の末子として出生。母は子沢山の上高齢で出産した事から「面目ない」と恥じたといい、漱石は望まれない子として生まれたといえる。金之助という名前は、生まれた日が庚申の日(この日生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があった)だったので、厄除けの意味で「金」の文字が入れられた。
生家は、江戸幕府崩壊後の混乱期であり名主として没落しつつあったのか、生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されるが、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い実家へ連れ戻した。しかし、1歳の時に父親の友人である塩原昌之助の養子に出されてしまい、また、養父昌之助の女性問題が発覚するなど家庭不和になり、7歳の時、養母とともに一時生家に戻る。一時期漱石は実父母のことを祖父母と勘違いしていた。養父母の離婚により、9歳の時、生家に戻るが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れた。このように、漱石の幼少時は波乱に満ちていた。この養父昌之助には、漱石が朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続く。養父母との関係などは、後の自伝的小説『道草』の題材にもなっている。
家庭のごたごたで何度か小学校を転校していた漱石は、12歳の時、東京府立第一中学校正則科(現在の日比谷高校)に入学。しかし、漢学・文学を志すため2年で中退した。のち漢学私塾二松学舎に入学する。後の小説で見られる儒教的な倫理観、東洋的美意識や江戸的感性が磨かれていく。しかし、ここも数ヶ月で中退。兄が文学を志すことに反対したためでもある。
2年後の1883年、大学予備門(のちの一高)を受験するには英語が必須であったため神田駿河台の英学塾成立学舎(現在の成立学園とは無関係)に入学し、頭角をあらわした。翌年の1884年、無事に大学予備門予科に入学。この時の下宿仲間に後の満鉄総裁になる中村是公がいる。1886年、大学予備門は第一高等中学校に改称。その年、漱石は盲腸炎を患い、予科二級の進級試験が受けられず是公と共に落第する。その後、江東義塾などの私立学校で教師をするなどして自活。以後、学業に励み、ほとんどの教科において首席であった。特に英語がずば抜けて優れていた。
[編集] 子規との出会い
1889年、22歳のときに、同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる正岡子規と、初めて出会う。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧されたとき、漱石がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。このときに初めて漱石という号を使う。その年の9月、房州(房総半島)を旅したときの模様を漢文でしたためた紀行「木屑録」(ぼくせつろく)の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていく。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年、子規が没するまで続く。
1890年、23歳のとき、創設間もなかった帝国大学(後の東京帝国大学)の英文科に入学。この頃から厭世主義、神経衰弱に陥り始めたともいわれる。1887年の3月に兄大助、6月に兄栄之助を、1891年には兄和三郎の妻の登世を亡くしていることも影響している。漱石は兄嫁登世に恋心を抱いていたとも言われ、心に深い傷をうけ、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などする。1892年、25歳のとき兵役を逃れるために分家し、北海道に籍を移す。貸費生であったため、同年5月あたりから東京専門学校(今の早稲田大学)の講師をしてみずから学費を稼ぎはじめる。その後、子規は大学を中退するが、漱石は松山の子規の家で、後に漱石を職業作家への道を誘うことになる高浜虚子と出会うことになる。
[編集] イギリス留学
1893年、東京帝国大学を卒業し、東京高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。前述の2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱、強迫観念にかられるようになる。その後、鎌倉の圓覚寺で参禅をするなどして治療をはかるも効果は得られなかった。1895年、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(現在の松山東高等学校)に赴任する。ちなみに、松山は子規の故郷であり、2ヶ月あまり静養していた。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々のよい作品を残している。翌1896年、熊本県第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任後、親族の勧めもあり貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と結婚をするが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。家庭面以外では、この頃漱石は俳壇でも活躍し、名声を確保していく。
1900年5月、文部省より英文学研究のため英国留学を命ぜられる。メレディスやディケンズをよく読みあさった。「永日小品」にも出てくるシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグの個人教授を受けたり、『文学論』の研究にいそしんだりするが、英文学研究への違和感がぶりかえし神経衰弱に陥り始める。また東洋人であることでいわれなき人種差別を受け傷心し、また研究が進まない苛立ちも重なったのか、何度も下宿を転々とする。しかし、1901年、化学者の池田菊苗と2ヶ月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人こもり研究に没頭しはじめる。結果、今まで付き合いのあった留学生の交流も疎遠になったため、漱石が発狂したという噂が流れる。これを文部省が耳にし、急遽帰国が命じられ、1903年に日本に帰国。
漱石最後の下宿の反対側 (80 The Chase SW4 0NG) には、ロンドン漱石記念館が恒松郁生氏によって1984年に設立された。漱石の下宿、出会った人びと、読んだ書籍などを展示し一般公開されている。
[編集] 朝日新聞社入社と文豪への道
帰国後、漱石は第一高等学校(一高)と小泉八雲の後任として東京帝国大学から講師として招かれる。しかし、東京帝国大学での漱石の分析的な硬い講義は不評であった。学生の八雲留任運動も起こり、その後の『文学論』の講義も不評であったため、漱石は神経衰弱になる(当時の一高での受け持ちの生徒に華厳の滝に入水自殺した藤村操がおり、藤村が自殺する直前に漱石はそのやる気のなさを叱責し、その直後に藤村が自殺したため、漱石はこれを気に病み、神経衰弱の一因になったともいわれる)。その結果、妻とも約2ヶ月別居する。1904年には、明治大学の講師も務める。
その年の暮れ、虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる「吾輩は猫である」を執筆。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。翌年、1905年、『ホトトギス』でも発表され好評を博すが、1回の読み切りと漱石は考えていたため、あわてて続編を執筆する。文語体で書かれた小説が多かった中、今日の近現代的な小説の多くの口語体で書かれた小説を、また西洋のような長編小説の文化を日本に定着させたことは評価されている。しかし、一方で世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流自然主義とは対立する余裕派と漱石は呼ばれ始める。この時から、作家として生きていくことを熱望し始め、その後「倫敦塔」「坊っちゃん」と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。
1906年、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木三重吉が毎週の面会日を木曜日と定めた。これが後の「木曜会」の起こりである。その門下からは内田百間、野上弥生子、さらに後の新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などの学者がいる。
1907年2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社。本格的に職業作家としての道を歩み始める。6月、職業作家としての初めての作品「虞美人草」が発表される。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。
[編集] 修善寺の大患
1910年6月、俗に前期三部作と呼ばれる作品で「三四郎」「それから」に続く三作目にあたる「門」を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院に入院。同年8月、療養のため伊豆の修善寺に出かけ転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血をおこし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。多くの仲間や弟子が漱石の元へ集まった。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院。
その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。1911年8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の湯川胃腸病院(のちに湯川秀樹が婿養子となる)に入院。東京に戻った後は、痔にかかり通院。1912年9月、痔の再手術。同年12月には、「行人」も病気のため初めて執筆を中絶する。1913年は、神経衰弱、胃潰瘍で6月ごろまで悩まされる。1914年9月、4度目の胃潰瘍で病臥。こうした「死」を経験していくうちに、作品は人間の利己を追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こころ』へと繋がっていく。1915年3月、京都へ遊び、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、「道草」の連載を開始。1916年には糖尿病にも悩まされる。その年の12月9日、大内出血を起こし「明暗」執筆途中に死去。最期の言葉は「死ぬと困るから」であったという。
漱石の死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において主治医であった長與又郎によって解剖される。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もアルコールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。
[編集] 年譜
- 1867年2月9日(0歳) - 江戸牛込馬場下横町(現・東京都新宿区喜久井町)で、夏目小兵衛直克、千枝の五男として生まれる。生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されるが、すぐに連れ戻される。
- 1868年(1歳) - 塩原昌之助の養子になる。
- 1874年(7歳) - 公立戸田学校下等小学第八級に入学。
- 1876年(9歳) - 公立市谷学校下等小学第四級に転校。
- 1878年(11歳) - 4月、市谷学校上等小学第八級を卒業。10月、錦華小学校・小学尋常科二級後期卒業。
- 1879年(12歳) - 東京府立第一中学校正則科(日比谷高校の前身)に入学。
- 1881年(14歳) - 実母死去。第一中学退学。私立二松学舎に入学。
- 1883年(16歳) - 神田駿河台の成立学舎に入学。
- 1884年(17歳) - 大学予備門予科入学。
- 1886年(19歳) - 大学予備門から第一高等中学校(後の第一高等学校)に名称変更。
- 1888年(21歳) - 夏目家に復籍。第一高等中学校英文科入学。
- 1889年(22歳) - 正岡子規を知る。
- 1890年(23歳) - 帝国大学(後の東京帝国大学)文科大学英文科入学。『方丈記』を英訳する。
- 1892年(25歳) - 4月、北海道後志国岩内郡吹上町に転籍し北海道平民になる。5月、東京専門学校講師に就任。
- 1893年(26歳) - 高等師範学校(後の東京高等師範学校)に勤める。神経衰弱に。
- 1894年(27歳) - 初期の肺結核と診断される。
- 1895年(28歳) - 4月、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常松山中学に赴任。12月、貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と結婚。
- 1896年(29歳) - 熊本県第五高等学校講師に就任。
- 1897年(30歳) - 6月、実父直克死去。7月、妻鏡子流産。
- 1900年(33歳) - イギリスに留学(途上でパリ万国博覧会を訪問)。
- 1903年(36歳) - 帰国後は一高、東京帝国大学講師に。
- 1905年(38歳) - 『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を発表、連載を始める。
- 1907年(40歳) - 朝日新聞社入社。職業作家としての道を歩みはじめる。
- 1910年(43歳) - 胃潰瘍のため大吐血、一時危篤(修善寺の大患)。
- 1911年(44歳) - 2月、文学博士号辞退。8月、関西での講演後、胃潰瘍が再発し、大阪で入院。
- 1913年(46歳) - 強度の神経衰弱に悩まされる。北海道から転籍し東京府平民に戻る
- 1915年(48歳) - 12月頃から、芥川龍之介などが木曜会に参加する。
- 1916年(49歳) - 12月9日、胃潰瘍の悪化により、「明暗」執筆途中に死去。
- 1984年 - 2004年 - 千円札に肖像が採用される。
[編集] 作品一覧
[編集] 小説
- 吾輩は猫である(1905 - 07年、大倉書店)
- 虞美人草(1908年、春陽堂)
- 三四郎(1909年、春陽堂)
- それから(1910年、春陽堂)
- 門(1911年、春陽堂)
- 彼岸過迄(1912年、春陽堂)
- 行人(1914年、大倉書店)
- こころ(1914年、岩波書店)
- 道草(1915年、岩波書店)
- 明暗(1917年、岩波書店)
- 作品集
- 漾虚集(1906年、大倉書店)
- 「倫敦塔」「カーライル博物館」(紀行文)「幻影の盾」「琴のそら音」「一夜」「薤露行」「趣味の遺伝」
- 鶉籠(1907年、春陽堂)
- 「坊っちゃん」「二百十日」「草枕」
- 草合(1908年、春陽堂)
- 「坑夫」「野分」
- 四篇(1910年、春陽堂)
- 「文鳥」「夢十夜」「永日小品」(エッセー)「満韓ところどころ」(紀行文)
[編集] 評論・エッセー・講演
- 評論
- 文学論(1907年、大倉書店)
- 文学評論(1909年、春陽堂)
- エッセー
- 切抜帖より(1911年、春陽堂)
- 硝子戸の中(1915年、岩波書店)
- 金剛草(1915年、至誠堂)
- 社会と自分(1913年、実業之日本社)
- 談話筆記
- 「英国現今の劇況」(1904年、「歌舞伎」)
- 「博士問題」(「東京朝日新聞」)
- 講演
- 朝日講演集(1911年、「朝日新聞社」)
- 社会と自分(1913年)
[編集] 家族 親族
- 妻・夏目鏡子
- 息子 - 夏目純一(バイオリニスト)、夏目伸六(随筆家、文芸春秋社の創設者の一人)
- 孫 - 夏目房之介(漫画家、漫画批評家、漫画学研究者)、半藤末利子(エッセイスト)、松岡陽子マックレイン(オレゴン大学名誉教授)
- 曾孫 - 夏目一人(随筆家、夏目伸六の孫)、夏目倫之介(イラストレーター、夏目房之介の子)
※松岡陽子マックレインの息子(米国籍)は、息子(つまり漱石の玄孫)のミドルネームに Soseki と命名した。
[編集] 門下生
[編集] その他
[編集] 「漱石」の名前の由来
漱石の名は、『世説新語』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いことの例えである。尚、「漱石」は当初、親友の正岡子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、夏目は正岡からこれを譲り受けている。
[編集] 漱石と病気
漱石は、歳を重ねるごとに病気がちとなり、肺結核、トラホーム、神経衰弱、痔、糖尿病、命取りとなった胃潰瘍まで、多数の病気を抱えていた。『硝子戸の中』のように直接自身の病気に言及した作品以外にも、『我輩は猫である』の苦沙弥先生が胃弱だったり、『明暗』が痔の診察の場面で始まっていたりするなど、小説にも自身の病気を下敷きにした描写がみられる。「秋風やひびの入りたる胃の袋」など、病気を題材にした句も多数ある。
[編集] 精神医学上の研究対象
漱石は、生前に神経衰弱やうつ病を患っているが、このことが当時のエリート層の一員であり、最上級のインテリでもあった漱石の生涯及び作品に対して如何に影響を及ぼしているのかが、精神医学者の格好の研究対象となっており、実際にこれをテーマにした幾つかの学術論文が上梓されている。
[編集] 神格化
「晩年の漱石は修善寺の大患を経て心境的な変化に至った」とは、後の多くの批評家、研究家によって語られた論評である。また、この心境を表す漱石自身の言葉として「則天去私」という語句が広く知られ、広辞苑にも紹介されている。 しかしながら、この「則天去私」という語は漱石自身が文章に残した訳ではなく、漱石の発言を弟子達が書き残したものであり、その意味は必ずしも明確ではない(人が生きるうえでの指針のように捉える説と、創作上の態度と捉える説などがある)。故人を神格化し、権威を与えるように使われてきた語だとする説もある。
[編集] 言葉遊び
漱石の作品には、順序の入れ替え、当て字など言葉遊びの多用がみられる。例「単簡」(簡単)、「笑談」(冗談)、「八釜しい」(やかましい)など。
[編集] 関連事項
- 文献
夏目漱石に関する文献は膨大であるため、ここでは手頃なもののみを挙げる。
- 1970年 - 1999年『漱石とその時代』 江藤淳著 新潮選書
- 1部 ISBN 4106001268、2部2 ISBN 4106001276、3部 ISBN 410600447X、4部 ISBN 4106005050、5部 ISBN 4106005751
- 1995年『夏目漱石を江戸から読む』新しい女と古い男 小谷野敦著 中公新書 ISBN 412101233X
- 1997年『漱石ゴシップ』長尾剛 文春文庫(単行本1993年)ISBN 4167336065
- 2001年『漱石論集成(増補版)』柄谷行人 平凡社ライブラリー ISBN 4582764029
- 2006年『漱石という生き方』秋山豊 トランスビュー ISBN 4901510398
- 映画化作品
- 1953年 『坊っちゃん』(東宝、監督:丸山誠治)
- 1955年 『こころ』(監督:市川崑)
- 1955年 『三四郎』(監督:中川信夫)
- 1958年 『坊っちゃん』(監督:番匠義彰)
- 1966年 『坊っちゃん』(監督:市村泰一)
- 1973年 『心』(原作「こころ」監督:新藤兼人)
- 1975年 『吾輩は猫である』(監督:市川崑)
- 1977年 『坊っちゃん』(監督:前田陽一)
- 1985年 『それから』(監督:森田芳光)
- 2006年 『ユメ十夜』(監督:山口雄大)