吉良氏
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家紋 | 足利二つ引 |
門地 | 清和源氏流足利氏一門 |
発祥 | 三河国吉良荘 |
吉良(きら)氏は日本における武士の名家の一つであり、代表的なものに下の三つの流れがある。
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[編集] 三河吉良氏
13世紀の頃、足利義氏の長男・長氏が三河国吉良荘(現・愛知県西尾市・幡豆郡)を本拠として名字の地とし、「吉良」を名乗りとしたことに始まる。当時の吉良荘は古矢作川によって大きく東西に分かれており、その東西をそれぞれ「東条」「西条」と呼んでいた。長氏が拠ったのはこの西条の方であり、以降しばらくこの系統は西条吉良氏と呼ばれる。なお、この三河国吉良荘の吉良の語源は、荘園内に雲母(大和言葉で「きらら」)の鉱山を古くから有したためにつけられたものと言われている。
承久の乱以降、足利氏は三河国内に多くの所領を得たが、長氏の吉良氏はその中でも総指揮・監督権を委ねられる立場にあり、足利宗家から深い信頼を受けていたことがわかる。後代、渋川氏・石橋氏の両家とともに「御一家」と称されて別格の扱いを受けたことや、「御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」という序列観が人々の間に定着したのも、こうした背景があってのことであった。
長氏の子満氏は霜月騒動で安達泰盛に与し、北条氏による討伐を受けて戦死。その子貞義は北条得宗家の被官として身を立てるが、内心では打倒北条の機会を虎視眈々とうかがっていた。やがて元弘3年(1333年)、後醍醐天皇方の勢力討滅の命を帯びて上洛途上の足利高氏が三河国に逗留した際、貞義は「天皇について鎌倉幕府打倒のために立ち上がるべきである」と強硬に進言。これが最終的な引き鉄となって高氏は六波羅探題攻撃に踏み切り、鎌倉幕府崩壊劇の嚆矢となった。
貞義の子満義は観応の擾乱で足利直義に与し、嫡男満貞とともに各地を転戦、一時的に南朝にも帰順した後、最終的に室町幕府に降る。この間、満義・満貞父子が本拠地の吉良荘を留守にしている間に、満義の四男尊義が吉良荘の東条を押領し、東条吉良氏として自立するという事件が起きる。以降尊義の東条吉良氏と、西条に勢力を限定された満貞の西条吉良氏とは、互いに正統性を主張しあって譲らず、両者の子孫が約一世紀に渡って三河一国を舞台に抗争を繰り広げた。応仁の乱においては西条家の義貞が東軍、東条家の義藤が西軍にそれぞれ属して戦っている(なお、吉良氏発祥当時においては2.の義継流吉良氏が東条吉良氏、1.の長氏流吉良氏が西条吉良氏を称しており、ここでいう東条・西条吉良氏とは区別が必要である)。
西条吉良の義尭の頃には東方の駿河からたびたび今川氏の侵攻を受けるようになり、遠江国の拠点である引間荘を奪われている。この期に及んでようやく同族抗争の愚を悟った東条・西条両家は、東条吉良の持広が西条吉良の義安を養嗣子にするという形で和議を成立させ、長年の抗争に終止符を打った。享禄・天文初年間のことである。しかし時既に遅く、天文18年(1549年)に今川義元の猛攻を受け、当主義安は捕らえられて駿河に幽閉され、吉良氏は存続の危機に立つ。義安の後を継いだ弟義昭は今川氏と結んだが、桶狭間の合戦で義元が討ち取られた後は今川氏も徐々に衰退してしまう。吉良氏は三河国の支配を目指す松平家康(徳川家康)と対立、三河一向一揆では一向一揆方に味方して家康と戦った。しかし、一揆方は家康に敗れ、吉良氏の家運衰退に拍車がかかることになった。
しかし義安の子義定が松平清康の妹を母としていた関係で徳川氏に取り立てられ、その子義弥の代に至り旧吉良荘内で三千石を領して高家の列に並んだ。これ以降の吉良氏は江戸幕府の儀典関係をとりしきる家として存続する。
義弥の孫義央が、儀典の指導に関して浅野長矩との間に確執を生じ、元禄赤穂事件に発展したことはよく知られている。同事件においては隠居していた前当主義央が殺害されたばかりか、騒動の責任を問われて嫡孫の当主義周が改易の憂き目にあった。
降って享保17年(1732年)、義央の弟の孫に当たる義孚が家名再興を許されている。
<歴代>
(西条吉良)(東条吉良)
- 吉良満貞 吉良尊義
- 吉良俊氏 吉良朝氏
- 吉良義尚 吉良持長
- 吉良義真 吉良持助
- 吉良義信 吉良義藤
- 吉良義元 吉良持清
- 吉良義尭 吉良持広
- 吉良義郷 荒川義広
- 吉良義安
- 吉良義昭
- 吉良義定
- 吉良義弥
- 吉良義冬
- 吉良義央
- 吉良義周
[編集] 奥州(武蔵)吉良氏
足利義氏の四男・義継が、兄長氏と同じく三河国吉良荘を本拠とし、「吉良」を名乗りとしたことに始まる。長氏が同荘西条に拠ったのに対して義継は東条を領し、東条吉良氏とも呼ばれた。
南北朝期に、貞家が成良親王の廂番から奥州管領(奥州探題の前身)にまで出世し、陸奥多賀城に拠って足利政権の奥州経営の要となる。観応の擾乱が勃発すると直義方に属し、同じく奥州管領で尊氏方に与した畠山国氏を攻め滅ぼすが、その隙に勢力を伸張してきた南朝の北畠顕信に多賀城を攻め落とされる。その後再び勢力を回復して顕信に挑むが死去し、子の満家が奥州管領となり、畠山国氏の子国詮や奥州総大将石塔義房の子義憲と争う。その間に中央で直義の殺害に成功した尊氏は新しい奥州管領として斯波家兼を派遣し、徐々に斯波家兼が有力となる。満家の死後、子の持家が跡を継ぐが、幼少のため、貞家の弟貞経と貞家の子で満家の弟治家が争った。貞治6年(1367年)、足利義詮は斯波直持と吉良貞経を奥州管領として治家を追討するように命じ、さらに石橋棟義を派遣してきた。治家は破れ没落する。その後奥州吉良氏は振るわず、衰亡する。
滅亡の危機に瀕した奥州吉良氏であるが、治家は足利基氏に招かれ、上野国飽間郷に移住することで勢力を回復する。以降鎌倉公方家に仕え、公方と同じ足利氏の流れを汲む家として別格の扱いを受けて、「無御盃衆」と称される。成高の代に武蔵国荏原郡世田谷(東京都世田谷区)に移り、同地に土着。その子頼康は北条氏綱の娘と結婚し、武蔵国久良岐郡蒔田(神奈川県横浜市南区)をも領して「蒔田殿」と呼ばれ、後北条氏分国にありながら独自の印判状を用いることを許された。
頼康は堀越氏(今川氏の一族)から氏朝を迎えて養子とし家督を譲るが、この氏朝の代に豊臣秀吉の小田原攻めによる後北条氏の滅亡にあい、庇護者を失って旧領世田谷に篭居する。しかし、降って江戸時代においては家格の高さを認められ、高家として取り立てられた。この際蒔田氏を正式な名乗りとしたが、江戸中期に元禄赤穂事件によって三河吉良氏が断絶したことを契機に、「吉良」に復姓している。
<歴代>
- 吉良義継
- 吉良貞家
- 吉良治家
- 吉良成高
- 吉良頼康
- 吉良氏朝
[編集] 土佐吉良氏
源頼朝の弟希義の次男希望が、頼朝より土佐国吉良荘(高知県吾川郡春野町)を賜り、「吉良八郎」を称したことに始まる(一説には希義の長男隆盛の系統ともいう)。鎌倉時代は北条氏の被官的存在だったが、希望より六代後の希世・希秀兄弟が後醍醐天皇に仕え、元弘の乱における六波羅探題攻略に功があった。以降しばらく、四国における南朝方の雄として、伊予の河野氏らと行動をともにする。
しかし希秀の子希雄が土佐守護細川氏の傘下に走って以降は北朝方となり、南朝方の篭る大高坂城(現在の高知城)の攻撃に参加するなどしている。応仁・文明期には、宣通が細川勝元の将として上洛、応仁の乱においてそれなりの軍功を立てたという。
宣忠の時、本山、大平、山田などの諸族とともに長宗我部兼序を攻め滅ぼし、勢力を拡大する。細川氏が力を失った後の土佐においては土佐一条氏を奉じ、宣経の時に一条氏から伊予守に任ぜられ最盛期を迎えた。宣経は天文年間に周防から宋学の第一人者・南村梅軒を招きいれ、土佐南学の基礎を築いた。
しかし宣経の次の宣直が、学問を偏重して武道を疎かにしたため、隙をうかがっていた本山茂辰が永禄五年(1562年)にこれを急襲する。宣直は自害して果て、ここに源姓土佐吉良氏は滅亡した。
その翌年、本山氏を討った長宗我部元親は、名族の絶えるのを惜しんで、自らの実弟にして宣直の女婿である親貞をして吉良氏の名跡を継がせた。親貞は一門の実力者としてよく元親を補佐したが、その子親実が謀叛の嫌疑を受けて殺され、長宗我部支族としての土佐吉良氏も二代で滅亡した。
<歴代>
[編集] 系譜(三河吉良氏・奥州(武蔵)吉良氏)
凡例 太線は実子、細線・二重線は養子 足利義氏 ┣━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 吉良長氏 足利泰氏 吉良義継 ┣━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓ ┃ 満氏 今川国氏 土御門顕方室 上野義有室 経氏 ┣━━━━┳━━━━┓ ┃ 貞義 荒川貞弘 畠山時国室 経家 ┣━━━━┓ ┣━━━━━┳━━━┓ 満義 助時 貞家 貞経 氏家 ┣━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┓ ┣━━┓ ┃ 満貞 一色有義 尊義 岡山満康 橋田満長 満家 治家 豊宗 ┣━━━━┓ ┃ ┃ ┃ 俊氏 斯波義将室 朝氏 持家 頼治 ┣━━┳━━┓ ┃ │ 義尚 頼氏 義真 持長 頼氏 ┃ ┃ ┣━━━━┓ │ 斯波義健室 義信 持助 頼高 頼高 ┃ ┣━━┳━━┓ ┃ 義元 義藤 等康 端東 政忠 ┏━━━━━┫ ┃ ┃ 義堯 一色氏明 持清 成高 ┣━━┳━━┓ ┣━━━┓ ┃ 義郷 義安 義昭 持広 荒川義広 頼康 ┏━━┻┓ │ │ 義定 今川範以室 義安 氏朝 ┣━━━┳━━━┓ ┃ 義弥 荒川定安 定堅 蒔田頼久 ┣━━━┓ 義冬 岡山弥清 ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━┳━━━┳━━┳━━┓ 義央 東条義叔 東条義孝 冬貞 冬重 孝証 ┣━━━━┯━━━┳━━━━━┓ ├──┐ │ 上杉綱憲 義周 島津綱貴室 津軽政兕室 冬貞 義武 冬重 ┃ │ 義周 吉良義孚