荒川定安
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
荒川定安(あらかわ さだやす、慶長4年(1599年) - 明暦2年5月26日(1656年7月18日))は、江戸時代初期の幕府旗本。徳川家家臣吉良義定の次男。母は今川氏真の娘。高家の吉良義弥(忠臣蔵の吉良義央の祖父)は兄にあたる。子に荒川丹波守定昭。
元和5年(1619年)2月にはじめて将軍徳川秀忠に拝謁。元和9年(1623年)1月に書院番士となり、12月に三河において500石を賜った。寛永3年(1626年)に秀忠が上洛した際にはその行列に従軍した。寛永10年(1633年)2月7日に武蔵において200石加増。寛永13年(1636年)9月27日には書院番組頭となり、12月29日には布衣の着用が許された(六位相当になった事を意味する)。慶安3年(1650年)11月19日に書院番頭に就任し、慶安4年(1651年)8月16日には従五位下山城守に叙任した。11月21日には1,000石を加増されて都合1700石を知行した。明暦2年(1656年)5月26日に死去。享年58。吉良家菩提寺の万昌院に葬られた。