吉良義昭
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吉良 義昭(きら よしあき、生没年不詳)は、戦国時代の武将。三河西条吉良氏の当主。三河一向一揆の指導者として知られる。
西条城主吉良氏の吉良義堯の三男として生まれる。西条吉良氏ははじめ長兄義郷が継いでいたが、やがて義郷は死去し、次兄の義安が継ぐこととなった。しかし東条吉良氏の吉良持広も死去したため、兄義安はこちらの家督を継ぎ、西条吉良氏の家督はこの義昭が相続することになった。
天文18年(1549年)駿河の戦国大名今川義元が尾張の戦国大名織田信広を攻めた際、兄義安は織田家に協力したため、今川軍に捕らえられて駿府へ送られたが、義昭は逆に今川軍に協力したため、今川義元より東条吉良氏も一緒に受け継ぐよう命じられて東西吉良氏を統一させて今川家に臣従することとなった。
しかし永禄3年(1560年)6月の桶狭間の戦いで今川義元が死去したため、三河における今川の力が減退し、義昭も後援を失った形となった。しかも徳川家康もこれに乗じて今川家から独立し、吉良家をしばしば攻めるようになり、ついに永禄4年(1561年)に徳川家への降伏を余儀なくされた。その後、岡崎へ移住させられていたが、反転攻勢を狙って三河一向宗と同盟を結び、再び徳川家康との決戦に臨んだ(三河一向一揆)。しかし力及ばず、東条城は落城させられ、義昭も三河からの撤退を余儀なくされた。その後、近江国に逃れ、最後には摂津国芥川で死去したといわれる。なお兄の吉良義安に吉良氏の継承が認められ、三河吉良氏そのものは元禄赤穂事件(忠臣蔵事件)の吉良義央の代に改易されるまで存続した。