東条義孝
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東条 義孝(とうじょう よしたか、生年不詳 - 貞享5年5月20日(1688年6月17日))は江戸時代前期の旗本。忠臣蔵の敵役で有名な吉良上野介義央の弟の1人。通称は長十郎(ちょうじゅうろう)、織部(おりべ)。
高家旗本の吉良若狭守義冬(4200石)の三男として誕生。母は旗本酒井忠吉(酒井忠勝の実弟・7000石)の娘。生年は不詳だが、兄吉良義央が寛永18年(1641年)の生まれなので、義孝が生まれたのはそれ以降。吉良家の家督は長兄義央が継ぎ、次兄義叔は分家旗本として東条家を興した。これとは別に義孝も分家旗本の東条家を興した。
寛文4年(1664年)4月28日、はじめて将軍徳川家綱に拝謁。延宝6年(1678年)3月29日から書院番士となる。延宝8年(1680年)3月26日から切米300俵を賜った。その後、駿府城勤務となったが、貞享2年(1685年)2月15日にこの任にあった際に報告すべき事を隠したとされて閉門を命じられた。9月8日に赦免される。貞享5年(1688年)5月20日に死去した。子がなかったが、末弟の冬重が養子に入っており、義孝流東条家の家督を継いだ。