吉良貞義
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吉良 貞義(きら さだよし、? - 康永2年(1343年))は鎌倉時代末期の武将。父は吉良満氏。弥太郎と称す。官途は従五位下上総介、式部丞。のち左京亮となる。西条城主。子は吉良満義、吉良助時。
鎌倉幕府執権北条貞時から一字をもらい貞義と名乗ったようである。弘安4年(1281年)の弘安の役の際、大将として石見国に下向したと伝わる。その頃の石見地頭は「三河吉良右衛門」で、その裔が羽隅氏を名乗り石見国に土着したという。
弘安8年(1285年)の霜月騒動で父満氏を亡くし、吉良荘の領地が祖父長氏に一旦返還されたため、長氏の養子となり領地を相続した。
元亨3年(1323年)12月、北条高時が父貞時の十三回忌供養を行い、円覚寺法堂以下を造営したが、貞義は足利貞氏、斯波高経らとともに参加、砂金100両、太刀一腰を進上した。吉良氏が史料に表れるのは、霜月騒動以来この時が初めてであり、鎌倉幕府への再出仕がようやく許されたと思われる。
元弘3年/正慶2年(1333年)3月、足利高氏は幕府の命により楠正成らの討伐軍大将として鎌倉を出立、三河国八橋(知立市)で軍議を開くが、既に幕府離反を決意していた高氏は、上杉憲房を貞義(既に入道し上総禅門と称す)の許へ使いに出し、決意を述べ貞義の意見を求めたが、貞義は「決意は誠に目出度い、むしろ決断が遅過ぎると思ったほど」と答え、高氏の考えを支持、これに自信を得た高氏は倒幕行動を開始する(「難太平記」による)。
続く南北朝の動乱期、老齢の貞義は吉良荘の留守を守り、康永2年/興国4年(1343年)に没する。享年は不明。法名は実相寺殿敏蒙観省大禅定門。
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