吉良長氏
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吉良 長氏(きら おさうじ、建暦元年〔1211年〕 - 正応3年6月18日〔1290年7月25日〕)は、鎌倉時代の武将で、足利氏の有力一門・三河吉良氏の祖。足利義氏の庶長子で、弟に足利泰氏、吉良義継等がいる。母は家女房。通称は足利五郎、または吉良太郎。官途は従五位下上総介、のちに従三位下左衛門尉となる。名前の読みは「ながうじ」とする書物が多いが、子の吉良満氏が創建した実相寺(西尾市)代々の住職の言い伝えでは「おさうじ」と読むのが正しいとされる。子は嫡子満氏の他、今川国氏、土御門顕方室、上野義有室がいる。
母が正室ではなかったため、長男でありながら足利家の家督を継ぐことができなかったという。この経緯が元となって、後に足利一門の中で吉良家とその支流の今川家のみが足利宗家継承権を持つことになる。
「吾妻鏡」には安貞2年(1228年)7月23日に将軍藤原頼経の随兵として登場するのが最初で、以後、寛喜元年(1229年)の流鏑馬の射手、相模国近国一宮への祈祷の使い、嘉禎2年(1236年)の将軍の随兵、嘉禎3年(1237年)の足利邸への将軍御成りの際の献上品引渡し役等を務めている。そして、仁治2年(1241年)1月2日の椀飯の記事を最後に「吾妻鏡」から長氏の名前は見えなくなる。鎌倉を離れ、地頭職を務める三河国吉良荘へ向かったと考えられる。
建長3年(1251年)に鶴ヶ崎天満宮(西尾市)を造営。弘安8年(1285年)、霜月騒動で息子満氏を失ったため、嫡孫吉良貞義を養子とする。晩年は吉良荘内の今川(西尾市今川町)または竹崎(西尾市上町)の地に隠居したと言われる。
正応3年(1290年)6月18日没。享年80。法名は新御堂殿長氏公大禅定門。