アイルトン・セナ
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F1での経歴 | |
国籍 | ブラジル |
活動年数 | 1984 - 1994 |
所属チーム | トールマン, ロータス, マクラーレン, ウィリアムズ |
出走回数 | 161 |
タイトル | 3(1988,1990,1991) |
優勝回数 | 41 |
通算獲得ポイント | 614 |
表彰台(3位以内)回数 | 80 |
ポールポジション | 65 |
ファステストラップ | 19 |
F1デビュー戦 | 1984年 ブラジルGP |
初勝利 | 1985年 ポルトガルGP |
最終勝利 | 1993年 オーストラリアGP |
最終戦 | 1994年 サンマリノGP |
アイルトン・セナ・ダ・シルバ(Ayrton Senna da Silva, 1960年3月21日 - 1994年5月1日)は、ブラジル人のレーシング・ドライバーである。生涯で3度のF1ワールド・チャンピオンを獲得した。日本では、古舘伊知郎が実況時に使用した「音速の貴公子」が通称として有名。若手時代には、「ハリー」のニックネームで呼ばれていたこともある。1994年レース中に事故死した。
目次 |
[編集] プロフィール
[編集] 生い立ち
セナはブラジル、サンパウロ市の裕福な地主の長男として生まれた。4歳のとき父親・ミルトンからレーシングカートを与えられると、たちまちそれに夢中となり、その才能を磨いていった。セナの父親はブラジル国内でも有数の農場・牧場、零細商店から自動車修理工場までをも多角経営しており、その豊富な資金とインフラがドライビング技術の向上に拍車をかけた。
[編集] カートデビュー
13歳になるとレースを始め、1977年には南アメリカのカート選手権を制した。また、1978年には当時の日本国内最高峰カートレース「ジャパンカートレース(ジャパンカートグランプリ)」に参戦するために来日した(セナは4位入賞、団体戦では増田二三四・平野晴男とともに5位入賞 当時のエントリー名はA.S da Silva)。1980年のシーズンオフには幼馴染のリリアンと結婚。この頃から出版社等各メディアへのアピール活動を始め、自ら資金調達を行うようになる。
[編集] イギリス遠征
1981年、ヨーロッパに渡り、ジム・ラッセル・レーシングスクールを受講した後、イギリスのフォーミュラ・フォード1600に参戦して優勝するが、父親との約束があったことに加え活動資金が不足したため一度引退を発表しブラジルに帰国。
しかしレースへの情熱は冷めがたく、ブラジルへの帰国を強く主張した妻リリアンと離婚して1982年には再びイギリスに渡り、フォーミュラ・フォード2000に転向してチャンピオン。1983年にはイギリスF3でイギリス人のマーティン・ブランドルと激しいタイトル争いの結果チャンピオンを獲得し、マカオGPも制した。この頃から、いかにもブラジル人らしい父方の姓「ダ・シルバ」ではなく母方の姓「セナ」を表向き名乗るようになる。
[編集] F1デビュー
翌1984年、トールマンからF1に参戦し、大雨のモナコGPで2位に入賞するなど才能を発揮。しかしシーズン途中にロータス・ルノーへの移籍をチームに無断で発表した事によりチームから第14戦イタリアGPを欠場させられるペナルティを課された。
トールマンでの最後のレースとなった1984年の最終戦ポルトガルGPを3位で締めくくり、1985年には名門のロータスに移籍。第2戦ポルトガルGP予選において初のポールポジション(以下PP)を獲得、大雨となった決勝ではスタートからトップを独走し、念願のF1初優勝を果たす。この年は計7回のPPを獲得した他、同じく雨に見舞われたベルギーGPで自身2勝目をあげ、「予選」と「雨」に強さを垣間見せることとなった。翌1986年には、予選ではルノーの予選用スペシャルエンジンの性能もあってシーズン16戦中の半分に及ぶ8度のPPを獲得、決勝においては2度の優勝を飾り、自身初のチャンピオン争いを経験した。結局後半に失速したことが響き、ランキング4位に終わったが、若手の有望株として確実に名前が知られていくこととなった。
[編集] ホンダとの関係
1987年、ホンダがロータスにエンジンを供給し、セナとホンダとの蜜月関係が始まる(なお、この年のチームメイトはこの年にF1デビューした中嶋悟であった)。これは1988年にセナがマクラーレンに移籍した後も続き、結局1992年まで連続してホンダエンジン搭載車をドライブし続けることになる。この時に本田宗一郎が直々に「君のために最高のエンジンを作るよ」と言ったことに感激したというエピソードがある。また1987年までホンダF1総監督だった桜井淑敏とは、桜井がホンダを退社した後もセナが何かと相談を持ちかけるほどの深い友人関係にあった。開幕戦のブラジルGPではエンジントラブルでリタイアしたが、実際にはエンジンは壊れてはいなかった。しかしホンダのエンジニアがエンジンを分解してみたらあと少しでパーツが壊れてエンジンブローする寸前だった。この一件でホンダのエンジニアのセナへの評価が一気に上がった。
1988年にはホンダエンジンを獲得したマクラーレンに移籍し、アラン・プロストとのF1史上最高といわれる最強タッグを結成。同年、初のF1ワールド・チャンピオンを獲得する。が、この頃からプロストとの確執が表面化。これは1988年ポルトガルGPでのプロストに対する幅寄せ事件に始まり、1989年サンマリノGPのセナの紳士協定違反、同年及び1990年日本GPでの両者の接触(後者は自ら故意であると発言した)に至るなど後味の悪いものとなった。その後も1990年、1991年のF1ワールド・チャンピオンを獲得し、ホンダF1黄金時代の最大の立役者となった。
1990年暮れのFIA表彰式で特別功労賞の表彰を受けた本田宗一郎に『セナ君、おめでとう。来年も、ナンバーワンのエンジン、作るよ』と言われ感極まって涙した。その前のやり取りとして本田はセナに「ナンバーワン、ナンバーワン、ナンバーワン!」と英語で声をかけ、セナは本田に「ドウモアリガトウ」と日本語で返した。その時タキシード姿で撮った写真が、両名にとって生涯最後のツーショットとなった。(フジテレビ『F1ポールポジション』より)
1992年、前年から度々マクラーレン陣営を脅かす存在と化していたウィリアムズ・ルノーが開幕から圧倒的な強さを見せ、マクラーレンは劣勢を強いられたが、モナコGPでの終盤、前人未到の開幕6連勝目前だったナイジェル・マンセルとのバトルを制して同年初勝利を飾り、ドイツGPでも終盤のリカルド・パトレーゼの猛追を振り切って2位を死守するなど、その年の王座こそマンセルに譲ったものの、不利な状況下でもしばしば劇的なレースを展開した。
レース以外でもホンダとは関係を持ち、1989年にホンダのフラグシップ・スポーツカー、NSXの開発テストに参加。これはセナが生涯の中で唯一手掛けた市販乗用車であった。また、「セナさんの休日」のキャッチコピーで、同社のVT250スパーダ(2輪)の紙面広告に出演。その後、同社のプレリュード(4代目)のCMにも出演した。
[編集] ホンダエンジン喪失後
1993年、ホンダが去った後のマクラーレンはベネトンと同じフォードV8エンジン搭載(正確にはべネトン用ワークス最新・仕様エンジンのワンランク下の型落ちカスタマー仕様エンジン)のマシンで、誰もがウィリアムズ・ルノー陣営と比べて絶対的に不利な情勢と見ていた中で、セナはしばしば予想以上の活躍を見せた。
開幕戦南アフリカGPでは予選・決勝共に2位と下馬評を覆す健闘を見せ、続くブラジルGPではレース途中の豪雨に対して完璧なまでの対応で、プロストがスピンを喫してリタイアした後トップ走行していたデイモン・ヒルを追い抜き、シーズン開幕前には予想もしなかった優勝を飾る。更に続くヨーロッパGP(ドニントンパーク)の大雨のレースでは、オープニングラップで前を行く4台(この中には、セナと同じく雨に強いミハエル・シューマッハも含まれる)を抜いてトップに立つなど、マシンの性能差を覆すほどの圧倒的かつ、完璧な走りを見せたことは、世界中の人々を驚愕させた。
シーズン全体で見ればウィリアムズとのマシン性能差(一説によれば、ルノー製V10とのエンジンパワーは40~50馬力程の差があったという)は如何ともしがたく、チャンピオンの座はプロストの手中に収まったものの、その後の日本GPやセナの生涯において最後の勝利となった最終戦オーストラリアGPでは、既にその年限りの引退を表明していたプロストを圧倒する走りで連勝を飾り、そのオーストラリアGPの表彰台では、長年の確執を水に流すかのように、両者が立ち並び握手をする一幕も見られ、一つの大きな時代の終焉をファンに見せた。
ファンの中には、開幕前から苦戦必至と言われた状況で、予想以上の成績を残した事や強烈な印象を与える走りを見せた事から、 チャンピオンの座は逃しても『この年こそ彼が最も輝きを見せていた時期』と評する者達もいる。
[編集] ウィリアムズへの移籍
1994年シーズンには念願であった当時最強のウィリアムズ・ルノーへの移籍を果たしたが、シーズン第1戦ブラジルGP、第2戦パシフィックGPはともにポールポジションを獲得するも、両レースともらしからぬアクシデントによりリタイアに終わる。34歳というベテランの域に達し、ライバル達が現役を去った事によるモティベーションの低下、1994年度のレギュレーション(規則)でアクティブ・サスペンションやトラクション・コントロール・システムなどのハイテク技術(車体姿勢安定化制御技術)が禁止されたことにより、この年のウィリアムズのマシンFW16が非常に不安定な挙動(ベネトンB194は1993年12月に完成、それに対しFW16は開幕一ヶ月前に完成。十分なテストができないまま、開幕戦を迎えた)を見せていた事、それまで在籍していたマクラーレンとウィリアムズとでは車作りのやり方や、セナに対するチーム側の対応が異なり、その差にフラストレーションを抱えていた事などが指摘されている。
[編集] 突然の最期・事故死
[編集] 「タンブレロの悲劇」
1994年5月1日にイタリア・イモラ・サーキットで開催されたF1世界選手権・第3戦サンマリノGP・決勝も第1戦、第2戦同様ポールポジションからスタートしたが、開幕2連勝で波に乗るミハエル・シューマッハの猛追(後から判明したことだが、この年のベネトンB194には規則違反のトラクション・コントロール・システムが搭載されていた)を受ける中、7周目の超高速・左コーナー「タンブレロ」において、時速310kmで首位を走行中のセナのFW16が突如コントロールを失い、そのまま直進する形でコースアウトしてコースすぐ右脇のコンクリート製ウォールに激突(セナのFW16は激突寸前、時速210km~220kmまで急減速していた)、FW16は大破。セナ本人はすぐにコース・マーシャルによってFW16のコクピットから救出され(実際には事故直後の凄惨な光景にコース・マーシャル達は現場で立ち尽くしていた)、蘇生処置を施されつつヘリコプターでイタリア・ボローニャ市内のマジョーレ病院に搬送されるも、頭部を強打した結果、頭蓋骨の複雑骨折及び、脳死状態に陥り、事故発生から約4時間後に死亡した。事故後、コース脇に横たわる保温ブランケットに包まれたセナを救急チームが担架に乗せると、セナが横たわっていた跡には空撮映像からでもハッキリと確認出来るほどの大きな血だまりが残っていた(気道切開による出血が多い)ほどの惨状であった。
[編集] 事故原因
事故に至った原因は今なお確定はしていない。しかし前日の走行でセナがタンブレロ・コーナーの過酷さ(アスファルト路面の補修状態が悪く、凹凸が非常に激しかったうえに、FW16がタンブレロ・コーナー通過時に非常に神経質な挙動を見せていた)を大会関係者に問いただしていた事や事故が発生した場所もそのコーナーだったので大会関係者に対する非難も高まった。事故発生の瞬間にタンブレロ・コーナーでセナのマシンがそのまま直進するようにコンクリートウォールに激突した事から、セナのドライビングミスによる説は早くから否定され、ステアリング系統などセナの車にトラブルが発生し、コントロール不能に陥ったという説が有力視されている。その中で下記の3つが推測されている。
- パワーアシスト装置故障説
- ステアリングコラム・シャフト破損説
- タイヤ・バースト(スローパンクチャー)説
- サンマリノGPのスタート時にホーム・ストレート上のベネトンのJJ・レートとロータスのペドロ・ラミーが絡む追突事故が発生しており、ホーム・ストレートからタンブレロ・コーナーに至るコース上には追突事故の際に生じた事故車2台分の部品の破片が散乱していた。コース・マーシャル達によって、急いでコース上の破片の回収が行なわれていたが、その時に破片を踏んだセナのFW16のタイヤは何らかのダメージを負い、タンブレロ・コーナーに全速力で進入したが為にタイヤがバーストして、セナがFW16のコントロールを失ったことが原因とされている。
事故時にセナが搭乗していたFW16はイタリア検察庁に事故原因究明の証拠品として押収され、司法の手により当時のウィリアムズの関係者(フランク・ウィリアムズ、パトリック・ヘッド、エイドリアン・ニューウェイ)ら数名が事故についての過失責任を問われることとなる。しかし、これはレース中の事故に法的責任を問えるのか、といった論点も絡めて、責任の所在を求めることは混迷を極めた。事故から10年以上を経た2005年5月30日、イタリアの裁判所は過失を問われていた当時の関係者全員について、ようやく過失責任なしという判断を下し、無罪を確定させた。これにより、セナの事故原因は不明のまま幕を閉じた。
[編集] 死因
彼の死因に対しては、事故発生後からしばらくしてマスコミなどに公開された事故当時にセナが着用していたヘルメットの状態などから、激突して大破したFW16の破片(サスペンションアーム)が、セナのヘルメットのバイザーを貫通してセナの頭部を弾丸のように直撃したことが致命傷(前頭部及び側頭部・頭蓋骨を複雑骨折しており、脳器官に深刻なダメージを受けていた)となったという見方が有力視されている。実際、1994年当時のマックス・モズレーFIA会長も『(もし、ほんのわずかの差で破片の直撃を免れたとして)彼の体が無事ならば、茫然自失の状態で自力でマシンから降りていただろう』と言った発言を後にしている。
[編集] 死後
セナの亡骸がイタリアから母国ブラジルに搬送されるに際しては、ヴァリグ・ブラジル航空の定期便のファーストクラスの客席が用いられ、空からはブラジル空軍機が出迎えた。地上では100万人以上のブラジル国民が沿道に会して、その亡骸を迎えたといわれる。
ブラジル政府は彼の死に対して国葬の礼をもってあたり、アラン・プロスト、ゲルハルト・ベルガー、ミケーレ・アルボレート、ティエリー・ブーツェン、エマーソン・フィッティパルディ、ジャッキー・スチュワート、デイモン・ヒル、ロン・デニス、フランク・ウィリアムズらが式に参列して、サンパウロ市にあるモルンビー墓地に葬られた。また、Deutsche Presse-Agenturによると、ミハエル・シューマッハは、セナの葬儀には参列しなかったが、ほぼ毎年セナの眠るモルンビー墓地を訪れているという。 墓碑銘は「NADA PODE ME SEPARAR DO AMOR DE DEUS(神の愛より我を分かつものなし)」。
ブラジル政府は、セナの命日に当たる5月1日を交通安全の日と制定した。サンパウロ州政府は、サンパウロ市内からグアルーリョス国際空港を経てリオデジャネイロ方面へ伸びる道路のひとつで、かつて「トラバリャドーレス」と呼ばれた州道70号線を、「アイルトン・セナ高速道路」(Rodovia Ayrton Senna)に名称変更し、故人を記念した。その他、ネルソン・ピケ・サーキットにアクセスする道路のひとつをセナの名に改称したリオデジャネイロ市など、ブラジル国内の偉人に並んで、セナの名を冠した道路やサーキットなどが各地で生まれ偲ばれている。
[編集] ホンダの対応
死亡当時、初めてのF1ワールド・チャンピオンを獲得した当時にセナのマシンにエンジンを供給していたホンダ(本田技研工業株式会社)は、既にF1から一時撤退しており、セナとは何の正式な契約・関係はなかったものの、セナとの「お別れ」をする日本のセナファンのために、セナが初めてF1ワールド・チャンピオンを獲得(1988年)した際にドライブしていたマクラーレンMP4/4・ホンダを青山の本社1階に展示した。
その上、その3年前に死去していた創業者の本田宗一郎の「自動車メーカーの経営者が車の渋滞を起こすような社葬などしてはいけない」との生前からの言葉に合わすように、通常は一般に開放していない本社地下の駐車場を、車で訪れたファンに対して無料で開放するなど、最大限の配慮を持ってセナの死を悼んだ。
[編集] ラッツェンバーガーへの弔意
後に明らかになったことだが、セナは前日に事故死したローランド・ラッツェンバーガーにレース後に哀悼の意を表する心づもりだったらしく、大破したセナのFW16のコクピットからラッツェンバーガーの母国オーストリアの国旗が発見されている。
なおこのサンマリノGPでは、前述のラッツェンバーガーに加え、ルーベンス・バリチェロもクラッシュ、入院を余儀なくされているほど予選から危険なクラッシュが相次いでいた。
[編集] セナ財団
セナ亡き後、彼の遺志・遺産を親族が引き継ぎ、ブラジルの劣悪な教育環境に投資することを目的として「セナ財団」(代表→セナの実姉・ビビアーニ・セナ)が設立された。事故当時セナが所属していたウィリアムズF1チームのマシンには、フロントウイングつり下げ部分の裏側にセナ財団のシンボルマークが描かれている。
[編集] ドライビングスタイル
1986年以前のセナは、予選では決勝レースに備えたセッティングには目もくれず予選向きのセッティングを作り上げ、全精力を予選最後の1周に注ぎ、非力なマシンでは考えられないタイムを出すことで注目を集めていた。事実、トールマンからロータス・ルノーで出場した1986年まではエンジンの信頼性が著しく悪く、強豪チームにアピールするため、また上位が崩れたときに確実に入賞するためこのような予選スタイルとなった。しかし1987年にロータスチームにホンダエンジンが供給されることになり、エンジンの信頼性が充分なものとなったため前年までの決勝レースを無視するほどの予選タイムアタックは影をひそめた。事実、優勝を獲得した1987年モナコGP予選では、残り時間があるにもかかわらず「ここは2位でいい」と言いタイムアタックを中止。予選中から決勝レース用セッティングを始めるようになり、その変貌ぶりが窺える。もっとも、1987年以降も予選では群を抜いた強さを見せており、1988年第14戦スペインGPから1989年第5戦アメリカGPにかけて8戦連続でポールポジションを獲得しており、これを破ったドライバーはまだいない。
決勝レースでは、ポールポジションからいち早く飛び出し、最初の数週で2位に圧倒的な差をつけ、あとはその差を維持するスタイルで勝利をつかむことが多かった。そのため、ファステストラップ(決勝レース中の最速ラップタイム)獲得数は19回と、勝利数(41)、PP数(65)と比べても思いのほか少ない(セナの現役時代はレース中の燃料補給が禁止されていた時代と重なり、ファステストラップはレースの終盤に記録されることが多かった)。
セナはコーナリング中においても他のドライバーに比べてアクセルを閉じず、常に回転数を調節しながら運転している。これは進入時の安定性を向上させるとともにコーナー脱出時の早いエンジンの吹け上がりをもたらし、その小刻みで独特な回転数コントロールは一部のF1マニアから「セナ足」と呼ばれ賞賛されている。このテクニックにより、多少燃費は悪くなるものの、その後のストレートのスピードで大きく差がつく。1988年に同僚のアラン・プロストが同じエンジンを使っていながら(全く同じエンジンかどうかの真偽は不明)テレメトリーのデータでは常に100 - 300回転ほどの差になっており、プロストが「ホンダはセナに良いエンジンを与えている」と疑うまでになったのは、これが原因かも知れない。また、1989年第12戦イタリアGPでは予選時に高速レズモ・コーナーにおいて、プロストより1000回転も高くホンダV10エンジンを高回転域で使用していたという。セナが感覚派でプロストが理論派と思われがちだが、その実はセナも理論的なセッティングを行うドライバーであり、1987年にロータスが使用したアクティブ・サスペンションの開発に大きく貢献している。
雨が得意なドライバーに対して言われる「レインマイスター」と呼ばれるなど、雨のレースは非常に得意としていたが、実のところ本人はあまり雨のレースが好きでなかったことをのちに告白している。もっとも、これはレーシングドライバーとしては普通の反応であり、雨が得意なことで「雨のナカジマ」と呼ばれた中嶋悟も同様である。彼のウェットコンディションでの他者を圧倒するその卓越したコントロール能力は、ひとえに鍛錬の賜物であるらしい。本人の話によると、カートを始めたばかりの頃、ウェットレースではインサイドからもアウトサイドからも、コーナーの入り口でも出口でも、あらゆるところから他のドライバーたちにいとも簡単に抜かれていたという。あまりの悔しさに、それからというものサーキットに練習に行ってはコース上に水をまいて水浸しにし、どうすればウェットでも早く走れるようになるのかを徹底的に研究したという。
[編集] 性格・人物像
[編集] 他ドライバーとの関係
3度のF1ワールド・チャンピオンに輝いた同郷のネルソン・ピケとの犬猿の仲は有名な話である。
2度の選手権王者となった1990年頃には人格的にも成熟しており、若手ドライバーへのアドバイスをしたり、1993年オーストラリアGPでは長年ことあるごとに反発しあってきたアラン・プロストと和解。「ハンドルを握ると鬼にも修羅にでもなる」と言われた若手時代とは打って変わり、レース中に無線で冗談まで言うなど、王者の風格を見せるようになる。
一方で1992年フランスGPでは、スタート直後に追突されたミハエル・シューマッハを厳しく諭す一幕や、その後のドイツ・ホッケンハイム・サーキットにおいてのテスト走行中でのトラブルで両者乱闘寸前になった事もあった。また1993年日本GPではセナが周回遅れにしようとしていたエディ・アーバインがセナに進路を譲らなかった一件で、レース後にアーバインに殴りかかる事件も起こった。アーバインは殴られたと公言しているが、これは1987年のベルギーGPでマンセルと殴りあったのとは違い、周囲の制止で思いとどまっている。→詳細はエディ・アーバインを参照。
[編集] 危険な走行
F1ブームの中で、特に日本では「純な好青年」という像がナイーブなファンを中心に作り上げられていったが、1990年の日本GPでスタート直後にライバルのプロストと接触し両者リタイヤした事件(セナは後に故意だったと告白)に象徴されるように、故意に危険な走行をする場合がある点も広く知られており、FIAから重いペナルティを課せられたこともあった。
3度の世界チャンピオンで自他共に認める良識派だったジャッキー・スチュワートはその点を憂慮し、セナへのインタビューで「過去のチャンピオンに比べ君(セナ)は他のドライバーとの接触が非常に多い」と苦言を呈したことさえある(セナは「ドライバーは勝つために走っている。僕は僕のやり方を通すだけだ」と反論した)。非常に速いドライバーであったことを認める人物は多いが、人格者であったかのような紹介には否定的な意見もある。
[編集] 人気
セナが事故死した1994年5月1日にはサンパウロにてサッカー・サンパウロFC対パルメイラスの試合が開催されていたが、開催者はこの試合開始直後に試合を止め、セナの死去をアナウンス、黙祷を行った。試合を中断してまで黙祷がささげられるセナの人気が印象的であり、当日のレースのテレビ中継を担当していたブラジルのテレビ局は事故後、一日以上セナ一本に番組を絞り放送を続け、事故を掲載した新聞、雑誌は即日完売、葬儀を放送したテレビ番組の視聴率は60%を超えるなど、ブラジル国民がいかに関心を持ち、母国ブラジルが生んだ偉大な天才レーサー・大英雄の死を嘆き悲しんだか伺われる。
[編集] 戦歴
年 | カテゴリー | 所属チーム | シャシー | エンジン | 優勝数 / 参戦数 |
PP | FL | ランキング |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1981年 | フォーミュラ・フォード1600 | - | バン・ディーメンRF80 バン・ディーメンRF81 |
フォード | 12勝 / 20戦 | 6 PP | 9 FL | チャンピオン |
1982年 | ヨーロッパ・フォーミュラ・フォード2000 | RushenGreen Racing | バン・ディーメンRF82 | フォード | 6勝 | 8 PP | 5 FL | チャンピオン |
- | イギリス・フォーミュラ・フォード2000 | RushenGreen Racing | バン・ディーメンRF82 | フォード | 16勝 | 7 PP | 15 FL | チャンピオン |
- | イギリスF3 | - | ラルトRT3 | トヨタ | 1勝 | 0 PP | 0 FL | (スポット参戦) |
1983年 | イギリスF3 | ウェスト サリー レーシング | ラルトRT3 | トヨタ | 12勝 | 15 PP | 12 FL | チャンピオン |
- | F3 マカオグランプリ | ウェスト サリー レーシング | ラルトRT3 | トヨタ | - | PP | FL | 総合優勝 |
1984年 | F1 | トールマン | トールマンTG183B トールマンTG184 |
ハート | 0勝 / 16戦 (最高位2位) |
0 PP | 1 FL | 9位 |
1985年 | F1 | ロータス | ロータス97T | ルノー | 2勝 / 16戦 | 7 PP | 3 FL | 4位 |
1986年 | F1 | ロータス | ロータス98T | ルノー | 2勝 / 17戦 | 8 PP | 3 FL | 4位 |
1987年 | F1 | ロータス | ロータス99T | ホンダ | 2勝 / 16戦 | 1 PP | 3 FL | 3位 |
1988年 | F1 | マクラーレン | マクラーレンMP4/4 | ホンダ | 8勝 / 16戦 | 13 PP | 3 FL | チャンピオン |
1989年 | F1 | マクラーレン | マクラーレンMP4/5 | ホンダ | 6勝 / 16戦 | 13 PP | 3 FL | 2位 |
1990年 | F1 | マクラーレン | マクラーレンMP4/5B | ホンダ | 6勝 / 16戦 | 10 PP | 2 FL | チャンピオン |
1991年 | F1 | マクラーレン | マクラーレンMP4/6 | ホンダ | 7勝 / 16戦 | 8 PP | 2 FL | チャンピオン |
1992年 | F1 | マクラーレン | マクラーレンMP4/6B マクラーレンMP4/7 |
ホンダ | 3勝 / 16戦 | 1 PP | 1 FL | 4位 |
1993年 | F1 | マクラーレン | マクラーレンMP4/8 | フォード | 5勝 / 16戦 | 1 PP | 1 FL | 2位 |
1994年 | F1 | ウィリアムズ | ウィリアムズFW16 | ルノー | 0勝 / 3戦 | 3 PP | 0 FL | (第3戦で事故死) |
[編集] 関連項目
[編集] 関連人物
[編集] 外部リンク
[編集] 公式サイト
[編集] 非公式サイト
カテゴリ: ブラジルのF1ドライバー | 1960年生 | 1994年没