リカルド・パトレーゼ
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F1での経歴 | |
国籍 | イタリア |
活動年数 | 1977 - 1993 |
所属チーム | シャドウ, アロウズ, ブラバム, アルファ・ロメオ, ウィリアムズ, ベネトン |
出走回数 | 256 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 6 |
通算獲得ポイント | 281 |
表彰台(3位以内)回数 | 37 |
ポールポジション | 8 |
ファステストラップ | 14 |
F1デビュー戦 | 1977年モナコGP |
初勝利 | 1982年モナコGP |
最終勝利 | 1992年日本GP |
最終戦 | 1993年オーストラリアGP |
リカルド・パトレーゼ(Riccardo Patrese, 1954年4月17日 - )は、イタリア出身の元レーシングドライバー。2005年現在、F1において最多出走記録を所持する。通称「鉄人」。別名として「史上最強のセカンド・ドライバー」「二百戦練磨の男」等(いずれも古舘伊知郎の命名)。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] F1デビュー
1977年モナコGPでシャドウからF1デビュー。当時まだ大学に籍があり大学生F1ドライバーとして話題になった。翌1978年にアロウズに移籍、第8戦スウェーデンGPで2位となり、初の表彰台を獲得する。
しかし、同年の第14戦イタリアGPスタート直後の大クラッシュに巻き込まれ、この事故により当時のスタードライバーであったロニー・ピーターソンが死亡。当時、血気盛んなパトレーゼはこの事故の原因となったとされ、次戦を欠場させられる。しかし後の調査の結果、事故は「レーシング・アクシデント」とされ、現在ではパトレーゼの名誉は回復されている。
[編集] 初優勝
この後しばらくはアロウズの信頼性不足に悩まされたが随所にその才能を見せつけ、1982年にブラバムに移籍。チャンピオンのネルソン・ピケとパートナーを組む。この年のモナコGPにおいて初優勝。このレースは史上最大のサバイバルレースといわれ、終盤にトップ走行したドライバーが相次いで脱落してトップが入れ替わり、見ている方は勿論、パトレーゼ本人も終盤にスピンしてトップを明け渡していたことから、チェッカーフラッグを受けるまで勝ったことを知らなかったという。
翌年はサンマリノGPで最終ラップまでトップを守るも、優勝直前でクラッシュ。この際、観客の大半はイタリア人のパトレーゼがストップしたことを嘆くのではなく、フランス人パトリック・タンベイがドライブするフェラーリがトップに立ったことに歓喜した。このことはパトレーゼにとっては屈辱的な記憶として刻まれ、後に「僕らイタリア人には地元なんてないよ」との発言も残している。その後、最終戦の南アフリカGPにおいて、チャンピオンが掛かり安全策を取るチームメイトのピケから、譲られる形で自身2勝目を挙げた。
しかし1984年のアルファロメオ移籍後、そして1986年のブラバム復帰時はともにチーム力低下のタイミングと重なり、翌1987年も不遇をかこつことになる。
[編集] ウィリアムズ時代
その後1987年最終戦からウィリアムズに移籍したものの、1988年は非力なジャッドエンジンに手こずり、優勝はおろか入賞するのがやっとであった。
再び表舞台に登場したのは1989年。開幕戦ブラジルGPで6年ぶりのフロントローを獲得。第10戦ハンガリーGPではポールポジション(以下PP)を獲得、復活を印象づける。この年は結局勝利を挙げることはなかったが、6回表彰台に上り、久々に存在をアピール。そして翌1990年第3戦サンマリノGPにおいて7年ぶり、99戦ぶりの優勝を飾る。優勝と優勝の間がこれ程開いた例は他にない。
[編集] 1991年
1991年はパトレーゼが最も輝いたと言われる年となった。開幕から予選ではチームメイトのナイジェル・マンセルを凌ぐ速さを見せ、第5戦カナダGPでシーズン初のPPを獲得。続くメキシコGPでも予選でPPを獲得すると、スタートこそ出遅れたものの、その後はマンセルをも抜き去る快心のレースで優勝。自身初のポール・トゥー・ウィンを達成することとなる。
勢いを表すかのように次戦フランスGPでも3戦連続のPPを獲得するが、決勝ではスタート時にセミオートマのトラブルが発生。1周目の1コーナーでトップ集団から脱落し、その後もタイヤ交換でもたつくなど散々なレースとなってしまう。これで勢いが止まってしまったのか、このレースで優勝したマンセルの調子が上がってきたこともあり、以後は予選・決勝ともにあまり目立ったレースは出来なかった。しかしマンセルが失格となった第13戦ポルトガルGPでは、しっかりポール・トゥー・ウィンを達成。この年のPP4回、2勝はいずれも自身のシーズンベスト記録である。
[編集] 1992年
1992年は、チームが前年の改良型として投入していたFW14Bが予想以上の強さを見せ、完全にウィリアムズの年となったが、パトレーゼ自身はマンセルに水を空けられる形となる。ウィリアムズは開幕からの5連勝をはじめ、年間で10勝を挙げたが、パトレーゼが挙げたのは第15戦日本GPでの1勝のみ。またチームは6回の1-2フィニッシュを記録したが、すべてのケースにおいてパトレーゼは2位であった。
このうちの1度であるフランスGPでは、トップを走行していた際に、チームの指示によってマンセルを先行させるシーンが登場。この他イギリスGPでは、ピットインのタイミングでもマンセルが優先されるなど、前年には無かったチームオーダーによって、パトレーゼの微妙な立場が垣間見えるシーンが多く見られた。
マンセルのチャンプ決定が掛かっていた第11戦ハンガリーGPでは、この年唯一にして現役最後となったポールポジションを獲得。意地を見せたものの、決勝ではトップ独走中に単独スピンを喫し、その後エンジントラブルによりリタイヤ。マンセルのチャンプ獲得を許す結果となった。最終的に、パトレーゼ自身はランキングで自身最高の2位となったが、マンセルにかなわないケースが多かったこと、チームオーダー等から、やや不本意なシーズンと言える年となった。
この年の2人に圧倒的な差がついた理由に対し、パトレーゼは「アクティブサスは限界点を見極めるのが難しい。ナイジェルが僕より速いのは、僕がアクセルを踏めない領域でも踏めているんだろう」と答えている。この当時にウィリアムズが最強マシンへと変貌していった理由として、アクティブサスペンションの導入をはじめとしたマシンのハイテク化に成功したことが挙げられるが、これには開発能力に長けるパトレーゼの活躍があったと言われている。しかし「使いこなす」という点ではマンセルに及ばなかったのは皮肉とも言われる。
[編集] ベネトン時代
1993年には年俸の高騰、チームのやり方への不満などを理由にベネトンに移籍。しかし、チームがミハエル・シューマッハ中心主義であったこともあり精彩を欠き、翌年のシートを喪失。1994年はF1浪人という形となった。
[編集] 引退決意
しかしその年の第3戦サンマリノGPにて、アイルトン・セナが事故死。代役の候補として名前が挙げられたが、その事故を見た恐怖感と、これ以上のリスクを冒す価値はないとの判断からオファーを断り、同時にドライバーとしての現役引退を表明している。
[編集] 記録
足かけ17年、通算256戦の最多出走記録は未だ破られていない。(さらに予選落ちは0)ミハエル・シューマッハがその記録を破るかと思われていたが、2006年シーズン限りでの引退を発表したために、シューマッハによる記録更新はなくなった。現在最も記録更新に近いのはルーベンス・バリチェロである。また最多記録のほか、長年187戦の連続出走記録を保持していたが、2006年の第2戦にてデビッド・クルサードに更新されている。
2006年時点で唯一、富士スピードウェイで開催されたF1日本グランプリと鈴鹿サーキットで開催されたF1日本グランプリの両方で入賞経験のあるドライバーである。
[編集] 趣味
スキーの腕前はプロ級で、イタリアナショナルチームの強化選手に名前が挙がったほどである。また鉄道マニアでもあり、自宅には数多くの鉄道模型コレクションが飾られている。