みずほフィナンシャルグループ
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種類 | 株式会社(持株会社) |
市場情報 | |
略称 | みずほFG、MHFG |
本社所在地 | 東京都千代田区大手町一丁目5番5号 |
設立 | 2003年1月8日 |
業種 | 銀行業 |
事業内容 | 子会社の経営管理・戦略統括 広報 採用 |
代表者 | 前田晃伸 (取締役社長) |
資本金 | 1兆5,409億円 |
売上高 | 3兆5,575億円 |
総資産 | 149兆6,127億円 |
従業員数 | 45,758人 |
主要子会社 | みずほ銀行 みずほコーポレート銀行 みずほ信託銀行 |
関係する人物 | 西村正雄 (みずほHD初代会長) 杉田力之 (みずほHD初代社長) 山本惠朗 (みずほHD初代会長) |
外部リンク | www.mizuho-fg.co.jp |
特記事項: 経営指標はいずれも2006年3月期決算・連結 |
株式会社みずほフィナンシャルグループ(英文名称: Mizuho Financial Group, Inc.)は、東京都千代田区に本社を置く日本の銀行持株会社。かつての第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行およびその関連企業を合併・再編したことによって誕生した。
また、同社を親会社とした金融関係の企業からなる企業グループのことも指す。グループ全体によるブランドスローガン並びに中期事業戦略名は「Channel to Discovery」。三菱UFJフィナンシャル・グループ、三井住友フィナンシャルグループと共に、三大メガバンクの一角を占める。
目次 |
[編集] 沿革
- 1999年8月20日 - 第一勧銀・富士銀・興銀の頭取らが記者会見、経営統合を発表。
- 2000年9月29日 - 第一勧銀・富士銀・興銀が株式移転により株式会社みずほホールディングス(HD)を設立。
- 2000年10月1日 - 傘下の信託・証券子会社が合併。みずほ信託銀行・みずほ証券・みずほインベスターズ証券が発足。
- 2002年4月1日 - 傘下の銀行が合併。みずほ銀行・みずほコーポレート銀行が発足。
- 2003年1月8日 - みずほHDが全額出資により株式会社みずほフィナンシャルグループを設立。
- 2003年3月12日 - みずほHDとの株式交換により同社の完全親会社となる。
- 2005年10月1日 - みずほHDからみずほ銀行とみずほコーポレート銀行の株式を取得して、直接の完全子会社化。中間持株会社ではなくなったみずほHDはみずほフィナンシャルストラテジーに商号変更。みずほフィナンシャルストラテジーと共同で会社分割(FGは分社型分割、HDは分割型分割)を行う。
[編集] 歴史
1999年8月20日、前身3行の頭取らが帝国ホテルで共同記者会見を開催し、経営統合の合意を発表。翌2000年、総資産140兆円を超える世界最大の金融グループ「みずほホールディングス」として発足した。当時一般にはあまり馴染みの無かった持株会社による統合、合併分割による2行体制への再編、圧倒的な規模から数多くの話題を呼び、金融ビッグバンへ先鞭を付けた。その後これを上回る三菱UFJが発足したり、いくつかの欧米金融機関に抜かれたりしたものの、現在でも世界有数の規模を誇る。
その規模ゆえ発足当時は「時価総額でグローバルトップ5を目指す」とするなど調子が良かったが、2002年、みずほ銀行での営業初日からのATM障害発生により社会的イメージは急激に悪化。合わせて不良債権問題が進むにつれて、実体的にも経営状態は深刻化していった。
竹中平蔵金融担当大臣が策定した金融再生プログラム、通称「竹中プラン」の方針に従って不良債権処理を進めたが、処理損失が大幅に拡大。2003年3月期には2兆3700億円の赤字決算となる。これを受け、取引先企業を引受先とする1兆2,000億円もの大規模な増資を実施した。銀行が取引先に助けを乞う格好は「奉加帳増資」「優良企業の足を引っ張る」とも言われ[1]、その規模や性格から多くの批判を集めた[2]。
みなし5万円額面のみずほ株も連日安値を更新し、一時5万8300円を付け、破綻や公的資金による国有化も噂された。週刊新潮には「竹中(平蔵)失言 “みずほはシティバンクに売却”」と書き立てられたり、一般各紙でもみずほ叩きの嵐だった。
しかし、結果的に1兆円増資が緩衝剤となって、経営不振の取引先への再生支援などが進展。2003年から2004年を谷として、これ以後は業績回復が続く。資産の売却や劣後債なども進めて資本を積みますと同時に、不良債権比率は劇的に縮小。繰延税金資産の対Tier1比率は三菱UFJ・三井住友FGを下回り、メガバンク首位の優良な財務体質に転換した[3]。2006年7月4日には傘下行に注入された公的資金(総額2兆9,490億円)を完済[4]。この時期にみずほ株は100万円前後の値を付け、底値から18倍近い上昇を遂げた。
これは、竹中プランを主軸とした金融庁に抵抗し不良債権処理を遅らせ、機動的な資本政策が取れず、ついには三菱東京フィナンシャル・グループに救済される形となったUFJとは対照的である。また後述の通り、みずほには広い法人顧客基盤があったことが、景気後退局面での弱みであり回復局面での強みになったと言える。
[編集] 概要
前身行はそれぞれ第一勧銀グループ、芙蓉グループ、興銀グループなどの企業系列を形成しており、その中核にあった。そのため特にコーポレートバンキングに強みを持ち、傘下のみずほコーポレート銀行がグループ全体の営業利益の9割を稼ぐ。協調融資やプロジェクトファイナンス、エクイティ等の実績においては他のメガバンクを抑えている[3]。
東証1部上場企業の4割のメインバンクを務め、7割と取引を持っている。経営危機の際、増資引受を幅広く依頼できたことも、こうした法人部門の力が背景にあった。みずほコーポレート銀行は、子会社のみずほ証券とともに、投資銀行タイプの事業モデルを指向している。
その反面、物件費・人件費などの経費が依然として高く、リテール面での収益性が低いことが課題となっている。この原因には、みずほ銀行のシステム統合障害の結果、その後の統合作業が遅らされたり、店舗の廃止が進まなかったことがある[5]。ただし、みずほ銀行は全都道府県・政令指定都市に必ず1つ以上の店舗があり、全国的なリテール基盤の点では一定の規模を有している。これは都市銀行の中ではみずほ銀行のみ。
一時は「貸し剥がし」と非難された貸出金縮小も、2004年には反転、大手法人・中小企業・個人・海外の全部門で増加となった。国内外への非カバー地域への出店も計画している[3]。
またメガバンクで唯一、消費者金融との提携を行っていない。社長の前田晃伸がかねてから否定的な見解を示しており、消費者金融のテレビCMや広告について「個人的には、ちょっと目に付く」と批判。グレーゾーン金利は「明らかに正常ではない」とし、「(みずほに開設された)2,600万口座の既存顧客へのより良いサービス提供が最優先」とコメントしている[6]。2005年度会社説明会でも「シナジー効果の期待できない消費者金融業界との提携は今後も検討するつもりはない」と断言した[7]。
2006年11月8日をもって、ニューヨーク証券取引所へ上場した。1989年の三菱銀行に続くものであり、バブル崩壊後初の邦銀進出である。同年12月18日には米国銀行持株会社法に基づく「金融持株会社」(Financial Holding Company)認可をFRBより、農林中央金庫とともに本邦金融機関で初取得した。銀行業務と証券業務の兼営を緩和するこの資格により、投資銀行ビジネスの包括的展開が可能となる。
[編集] グループ企業
現在、みずほフィナンシャルグループは「“Channel to Discovery” プラン」に基づき、グループ企業の再編を進めている。2005年10月1日を以って商号や親子関係などに変更が生じた。同プランでは傘下企業を顧客ニーズに基づき分類、グローバル水準のサービスを提供するとし、大きく4つのグローバルグループで事業ポートフォリオを構築している。
こうした横割りでの傘下企業分類は、メガバンクの中でも独自の試みである。当初は前身銀行間でのセクショナリズムの表れとの批判もあったが、シティグループやHSBCなどの海外大手金融機関では一般的に取られている手法である。
[編集] コーポレート
グローバルコーポレートグループ(GCG)は、大企業、多国籍企業や金融機関を顧客とする。みずほコーポレート銀行は第一勧銀、芙蓉、興銀各グループほか東証1部上場企業の4割を大口取引先にもつ。みずほ証券は銀行系証券の雄であった興銀証券を前身とし、社債市場では高いシェアをもつ[8]。その後農中証券の事業譲渡を受けた関係から、農林中央金庫が第2位の株主となり、100%みずほグループの資本ではなくなった。
[編集] リテール
グローバルリテールグループ(GRG)は、個人、中小企業や地方公共団体を顧客とする。みずほ銀行は個人2,600万口座、取引中小企業90,000社を擁する。宝くじの受託販売でもおなじみ。みずほインベスターズ証券との共同店舗「プラネットブース」を設置し、ワンストップ金融を進めている。UCカードは2005年10月1日付で会社分割により新設されたもので、与信等管理業務に特化している。従来のユーシーカード株式会社は2006年クレディセゾンに吸収合併された。
[編集] アセット&ウェルスマネジメント
グローバルアセット&ウェルスマネジメントグループ(GAWG)は、信託業務を中心として個人・法人の資産管理、運用を行う。みずほ信託銀行は不動産分野に強みを持ち、証券化業務を拡大。資産管理サービス信託銀行は預り資産残高が189兆円に達し、マスタートラスト市場では最大規模となった。
- みずほ信託銀行
- 資産管理サービス信託銀行
- みずほプライベートウェルスマネジメント
- 第一勧業アセットマネジメント
- 富士投信投資顧問
- 興銀第一ライフ・アセットマネジメント
[編集] グループ戦略子会社
グループ戦略子会社は、シンクタンク事業やシステムインテグレーションなど、金融業務に付随する調査・開発を受け持つ。
- みずほ総合研究所
- みずほ情報総研
- みずほフィナンシャルストラテジー(旧みずほホールディングス)
この他、持分法適用会社で新光証券があり、GCGとGRGの中間に位置づけられている。また海外現地法人や各社の子会社(孫会社)を含めると、その傘下企業総数は149社となる。
[編集] 経営
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2000年のみずほホールディングス発足時には、第一勧銀頭取の杉田力之が社長に、富士銀頭取の山本惠朗と興銀頭取の西村正雄が会長に就任し、対外的には3人揃って共同CEO(Co-CEO)という肩書きを名乗っていた。
杉田社長は2002年以降も留任する意向だったが、その在職期間中に業績が急激に悪化、株価も大幅に下落したため、退任を余儀なくされた。当初は3人を「特別顧問」の地位で残す方針もあったが、これも撤回されたのに加え、退職金も支払われなかった。経営責任の明確化、順送り人事の廃止によるコーポレートガバナンス向上を求める市場からの圧力の結果、最終的には9人の役員全員が退任した[9]。
こうした経緯により、3大メガバンクで唯一、みずほには会長職が存在しない。
[編集] ブランディング
「みずほ・みづほ(瑞穂)」は、みずみずしい稲の穂を意味する。この言葉は「葦原千五百秋瑞穂国」として日本書紀にも登場し、実り豊かな日本を形容した。「日本を代表する金融グループを目指す」との願いを込めて、社員からの公募により策定。ブランドカラーは<みずほコズミックブルー>と<みずほホライズンレッド>。ロゴマークの赤い円弧は太陽出づる地平線を表す。
発足から間もない頃は、Mizuhoの頭文字「M」と、地球をモチーフとした円弧から成るロゴ[2]を使用していた。早い段階で統合を済ませたみずほインベスターズ証券などの店舗看板に見られた時期があったが、2002年のみずほ銀行発足時には現行のものになっており、今では全く使用されていない。
旧財閥系の名前を残した三菱東京UFJ銀行や三井住友銀行と比べてブランド力や知名度に劣るとされていたが[10]、イギリスの金融専門誌「The Banker」2006年11月号による格付ではブランド価値60億9,000万ドルで、邦銀首位の第22位にランクインした[11]。なお、三菱UFJは第34位、三井住友は第35位となっている。
[編集] ブランドステートメント
- Value Communication
- お客さまの夢や歓びを、お客さまとわかちあうこと。2002年 - 2005年
- Channel to Discovery
- より良い未来をつくる金融であるために。2005年 - 現在
[編集] 社会事業
近年の金融教育の高まりに合わせて、各大学への支援・協賛活動に力を入れている。
2006年3月24日の早稲田大学政治経済学部を皮切りに、一橋大学商学部、慶應義塾大学商学部、東京大学経済学部、京都大学経済学部に寄付講座を開設した。特に東京大学の場合は、合わせて2007年に新設される金融学科にも資金拠出を行い、東大経済学部に88年ぶりに新学科が設置される運びとなった。なお、みずほグループは東大生の最多就職先でもある[12]。
また、教員養成系の東京学芸大学とは、より低年齢の小中学生を対象とした金融教育で共同研究を行っている。こちらは投資手法を教えるのではなく、クレサラ問題や金融犯罪などの学習を中心としている。
このほか、旧富士銀行時代の1968年から、損害保険ジャパン(当時は安田火災)・明治安田生命保険、第一生命保険と共同で、全国の小学校に入学する新1年生を対象に交通安全のための「黄色いワッペン」を配布している。ただのワッペンではなく、交通事故を対象とした有効期間1年の傷害保険付きのもの。これまでに手にした児童は累計5,000万人を数える。
東京国際マラソンのスポンサーを2000年・2001年に務めた。
[編集] 親密・提携関係の金融機関
[編集] 生命保険・損害保険
旧興銀は第一生命保険と1998年から全面提携を締結し、現在も継続されている。第一生命は損害保険ジャパンとも提携しているが、こちらも前身の旧安田火災が富士銀系、旧日産火災が第一勧銀系であり、丁度みずほFGに対応している。みずほグループの銀行・生保・損保というと、この3社が代表である。
根津財閥・古河財閥の流れから第一勧銀グループに属した富国生命保険・朝日生命保険とも親密である。
明治安田生命保険は旧安田生命が富士銀系であったが、旧明治生命は三菱グループであり、みずほグループには他にも上のような親密生保があることから三菱グループ色が強い。同じく東京海上日動火災保険も、旧日動火災が富士銀系ながら、旧東京海上の属した三菱色が強い。
[編集] 地方銀行
富士銀の前身である安田銀行は、昭和恐慌の際に全国各地の中小銀行を積極的に救済したことから、この流れを汲んで現在も親密な地方銀行がある。戦後関係を持った地銀も含むが、ほくほくフィナンシャルグループ傘下の北海道銀行・北陸銀行、みちのく銀行、荘内銀行、千葉興業銀行、四国銀行、大垣共立銀行などが富士銀系である。
特にみちのく銀は会長が富士銀出身であり、部長級の役員を富士銀が送り込んだこともある。特徴だったロシア業務をみずほコーポレート銀行に売却予定である。荘銀の頭取も富士銀出身。荘銀は富士銀の米沢支店、前身安田銀行の鶴岡・酒田支店を継承しているなど戦前から関係が深い。千葉興銀は安田系で、芙蓉グループのメンバーでもある。経営危機の際にみずほFGから支援を受け、現在もみずほ銀・みずほコーポ銀が9.44%ずつ出資する他優先株なども保有している。
第一勧銀も、第一銀行の設立者である渋沢栄一が関わった七十七銀行、頭取が第一銀行出身の東邦銀行、みずほコーポレート銀行が筆頭株主の北都銀行などを親密先にもつ。
戦後地銀の東京都民銀行は興銀の協力のもと設立されたもので、興銀グループに属した。
[編集] 第二地方銀行
きらやかホールディングス傘下の山形しあわせ銀行が第一勧銀系、殖産銀行が富士銀系である。かつては両行とも荘内銀行との関連が強く、山形しあわせとはシステム共同化、殖産とはミライオン銀行構想が出るなどがあったが、町田頭取就任後に荘銀が内陸・仙台圏へ攻勢をかけるなど、荘銀側の大きな状況変化でいずれも解消となっている。
大光銀行は旧長銀や旧日債銀とともに第一勧銀と親密。愛媛銀行は第一勧銀・三和銀の両者と親密だったが、経営環境悪化等の理由から三和銀との株式持ち合い解消している。
[編集] 証券会社
系列の証券会社は概ねみずほ証券・みずほインベスターズ証券に統合されたため、特に親密な証券会社というものはない。興銀の債券部門を源流にもつ日興コーディアルグループがあり、2004年末にはみずほ証券とエクイティ分野等で協働提携、みずほFGが資本参加した。大和証券SMBCのような銀証連携関係に発展するかと見られたが、両者の経営安定により進展はない。
[編集] 外国銀行
2005年4月、みずほ信託銀行はバンク・オブ・ニューヨークと投信販売、有価証券管理分野に関する業務提携契約を締結。同じくみずほ銀行が米国東部地盤のワコビア、米国西部地盤のウェルズ・ファーゴと富裕層向け資産管理で提携した。
フランスのソシエテ・ジェネラルとは原油デリバティブで業務提携している。
[編集] ノンバンク
信販分野で、旧第一勧銀・富士銀時代から親密であったクレディセゾン・オリコと業務提携している。こちらは保証業務などが中心であり、他のメガバンクと消費者金融の間に見られる関係(資本参加、「銀行系ローン」の設立等)とは一線を画す。前述の通り、そもそもみずほ側は「消費者金融との提携効果は期待できない」としており、このため「みずほ銀行系キャッシング」のようなサービスは存在しない。
[編集] 参考文献
- 須田慎一郎『巨大銀行沈没―みずほ失敗の真相』(新潮社 2003年)ISBN 4104597015
- 高杉良『銀行大統合~小説みずほFG』(講談社、2001年)ISBN 4062748797
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 脚註
代表取締役社長: 前田晃伸 | 2005年度決算 - 売上高: 3.5兆円 | 純利益: 6,499億円 | 総資産: 149.6兆円 | 従業員数: 45,758人 | 上場: 東証1部: 8411 | リンク: mizuho-fg.co.jp
コーポレート: | みずほコーポレート銀行 | みずほ証券 | 新光証券 |
リテール: | みずほ銀行 | みずほインベスターズ証券 | ユーシーカード | みずほキャピタル |
アセット&ウェルス: | みずほ信託銀行 | みずほプライベートウェルスマネジメント | 資産管理サービス信託銀行 | 第一勧業AM | 富士投信投資顧問 | 興銀第一ライフAM |
戦略子会社: | みずほ総合研究所 | みずほ情報総研 | みずほフィナンシャルストラテジー |