前田晃伸
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前田 晃伸(まえだ てるのぶ、1945年1月2日 - )は、大分県中津市出身の実業家。みずほフィナンシャルグループ社長。2005年度の全国銀行協会会長。
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[編集] 略歴
- 1957年 - 中津市立南部小学校卒業
- 1960年 - 中津市立城南中学校卒業
- 1963年 - 大分県立中津南高等学校卒業
- 1968年 - 東京大学法学部卒業、富士銀行入行
- 1999年 - 富士銀行 常務取締役就任
- 2000年 - 9月29日、みずほホールディングス設立
- 2001年 - 6月、富士銀行副頭取就任
- 2002年 - 4月1日、第一勧業銀行出身の杉田力之社長の後任として、みずほホールディングス代表取締役社長に就任
- 2003年 - 1月、みずほフィナンシャルグループ設立にともない、社長就任
- 2005年 - 4月、全国銀行協会会長就任
[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
5人兄弟の長男。出生自体は熊本県であるが、1歳のときに両親の故郷である大分県中津市へ移り住み、以来この地をふるさととして育った。父・慶一は弁護士で、母・シモとともに放任主義の人であった。
小学生、中学校と音楽系の部活動に所属し、それぞれハーモニカ、トロンボーンを演奏していた。中学時代には西日本大会出場の成績も残している。
高校まで中津で過ごし、1浪の末、東大法学部に合格し上京。大学3年生の夏休みには、ガラス店を営む祖母の家から運送用のバイクを借りて乗り回す。ついには大分から東京までバイクで走破してしまった。
[編集] 富士銀行入行
就職活動では、富士銀行とともに住友銀行を受けていた。住友銀行には面接の段階で落とされたが、本人はその理由について「あなたは夜中、大手町の交差点で横断歩道を渡ろうしている。信号は赤だが、車は全く通っていない。どうしますか。」との問いに、「もちろん渡る」と答えたことが原因ではないかと語っている。集団面接で、前田は最後に答えていたが、それ以前の受験者は全員「止まる」と答えていたと言う[1]。
須田慎一郎は著作『巨大銀行沈没―みずほ失敗の真相』で、入行当初から行員のなかでもっとも朝早く勤務し、社長になってもかわらない精勤ぶりと、富士銀行内でのエリートとしての前田の姿を描いている。ただ本人は、先の日経のインタビューで「新入行員の中でも、私の成績は恐らくビリだったようだ」としており、真偽は定かではない。
入行後、最初に配属されたのは金融街東京・日本橋の馬喰町支店。その後は本店に移り、大手法人融資や広報などの本部勤務を長く務める。このため支店長になるのが遅れ、大型の川崎支店長就任が初の経験となった。1992年には再び本部に戻り資本市場部長に就任。1995年に取締役となり融資企画部長に、その後は総合企画部長、公共金融グループ長、財務統轄役員などを務め、みずほホールディングス設立後には社長に就任した。
[編集] 社長就任とシステム障害
2002年、みずほホールディングス社長に就任するも、その直後、傘下行の合併に伴うシステム統合に当たって、連結の不具合から決済に二重引き落としなどの混乱に見舞われる。入社式で「上の言うことは聞くな、上司に責任は取らせろ」と挨拶した矢先であった。
この問題で国会に招致された際、「直接に御利用者の方に実害が出たというようなことではございませんが、クレームが大量に来たということで、そういう意味で大変申しわけないと思っております。」と発言。その後すぐに「不適切な説明だった」と釈明したものの、マスコミに取り上げられ大いに物議を醸した[2]。
当時の金融担当大臣だった柳澤伯夫はみずほのシステム障害について、「事実と異なる報告を受けていた」と発言、内部管理の不徹底を露呈したため、さらにみずほは非難されることになった[3]。
みずほホールディングスはこの問題の責任として、前田をはじめとする経営陣給与を半年間50%カットする形で対応した。
[編集] 財務再建
2002年には竹中平蔵金融担当大臣が策定した金融再生プログラム、通称「竹中プラン」の方針に従って(当初は難色を示したが)不良債権の処理を行った。しかしメインバンクを務めている企業に多くの倒産(2002年~2003年の間に佐藤工業、壽屋、ハウステンボスなど)が出たため、貸しはがしの代表格的に扱われ世間の批判を浴びることも多かった。
2003年は前年に引き続き株安で始まり、日経平均株価は4月28日にはバブル後最安値の7603円をつける。これに伴い、みなし5万円額面のみずほ株も、一時5万8300円の安値を付け、倒産や公的資金の注入が噂されることも多かった。ただし、みずほグループは2003年3月期の決算こそ2兆3700億円の赤字であったが、1兆円規模の大規模な増資を行い財務的には資金繰りができる状態だった。しかし、この増資は同時に潜在的な株式希薄の要因でもあった。また、2003年6月の株主総会でもいわゆる「シャンシャン総会」を行ったため、これもまたみずほの既存の株主の批判の対象となった。
特に、ネット上の株式関連の掲示板では前田の悪評、酷評、罵詈雑言が絶えず、株価が安値を更新していたころには1日に10回以上も槍玉にあがることも多かった。
同時期、みずほグループ社員バッジを考案し連帯感を高める策を打ったが、これは同郷大分出身の財界人であるキヤノンの御手洗冨士夫のアドバイスによるもの。
[編集] 現在
財務危機の後も資産の売却と劣後債などの増資をすすめて資本を積みまし、2004年3月期には黒字に転換、株式の配当も復配。続く2005年3月期、2006年3月期も、特殊要因があったものの黒字決算を実現。多くの批判を集めた1兆円増資の決断も、結果としては成功に終わった。株価も上昇を続けたため、最近は就任当初のイメージは遠のき、経営手腕が優秀であるという評価に転換されていくことになった。堅実でぶれず隙のない経営者としてのイメージを確立しつつある。株価も100万円を超えた値がつき、底値から17~18倍の大幅上昇を記録した。
また、メガバンクと消費者金融との提携については、かねてから否定的な見解を示している。全銀協会見では、消費者金融のテレビCMや広告について「個人的には、ちょっと目に付く」と他のメガバンクを暗に批判。グレーゾーン金利は「明らかに正常ではない」とし、「(みずほに開設された)2,600万口座の既存顧客へのより良いサービス提供が最優先」とコメントしている[4]。
その一方、銀行ATMなどの手数料が依然として高額であることについては、「何でもタダが良いというのはやりすぎ」と値下げ慎重の方針を持っており、こうした態度へは反発もある。本人曰く、無差別にいい格好をするのは顧客全体への負担となるのだから、対価に納得して選ばれる銀行を目指すべき、という独自の考え方があるようだ[5]。
2006年11月8日、みずほフィナンシャルグループがニューヨーク証券取引所に上場し、現地時間9時30分に取引開始の鐘(オープニングベル)を鳴らした[6]。
[編集] 人物
身長166cm、体重61kgで、30年間変わっていない。血液型はB型。
馬喰町支店勤務だった1970年、同支店に勤務の女性と職場結婚、新婚旅行は故郷の九州地方。2人の息子はそれぞれ三菱東京UFJ銀行、三井住友銀行に勤務しており、家族内で3大メガバンク社員が揃う銀行一家である。
妹の名前は「みずほ」らしい。
2006年2月5日放送のテレビ朝日番組「サンデープロジェクト」[7]では、千葉県船橋市の自宅に取材カメラを招き入れている。築30年程、ごく普通のサラリーマン風のマイホームを公開。クーラーの無い居間や、夫人の頼みで買い物に行き、安い食料品を買い求める話など、質素な生活ぶりをアピールした。
科学雑誌『ニュートン』の創刊以来の愛読者。趣味は休日の庭いじりで、ウコンやサボテンの栽培に凝っている。小学校時代のハーモニカも続けており、休日は 「仕事を遮断して、宇宙や植物のスケールに没頭するとストレスが溜まらない」と語っている[8]。
「ゴルフをやると金・ボール・名誉が一度に無くなる」と日経のインタビューに答えたこともあり、ゴルフはやらないとのこと。タコ刺しを摘みに日本酒を呑むが、タバコは吸わず。読売ジャイアンツと三橋美智也、そして息子の影響で長渕剛のファンである。
[編集] 参考文献
- 高杉良『銀行大統合~小説みずほFG』(講談社、2001年)ISBN 4062748797
- 須田慎一郎『巨大銀行沈没―みずほ失敗の真相』(新潮社、2003年)ISBN 4104597015
- 日本経済新聞 2006年4月24日 - 5月2日(人間発見: 銀行冬の時代を超えて)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 脚註
- ↑ 日本経済新聞 2006年4月25日 夕刊
- ↑ 2002年4月9日 衆議院財務金融委員会10号
- ↑ 2002年6月21日 閣議後記者会見
- ↑ 2006年3月22日 全銀協会長 記者会見
- ↑ NTTデータ経営研究所『情報未来』2006年6月号
- ↑ 11/08/2006 - Mizuho Financial Group, Inc. celebrates listing on the NYSE. In honor of the occasion, CEO Terunobu Maeda rings The Opening Bell.
- ↑ サンデープロジェクト 過去のラインアップ 2006年2月5日放送
- ↑ 【社長の私生活】みずほフィナンシャルグループ社長 前田晃伸 2004年1月22日
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