第一勧業銀行
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第一勧業銀行(だいいちかんぎょうぎんこう The Dai-Ichi Kangyo Bank,Ltd. 英字略称:DKB)は、かつて存在した都市銀行。現在のみずほ銀行の直接の前身である。通称は「第一勧銀」「一勧」「勧銀」あるいは英字略称の「DKB」。
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[編集] 概要
1971年、第一銀行とかつての特殊銀行だった日本勧業銀行が合併し、預金量では富士銀行を抜いて国内第一位の都市銀行として誕生した。存続会社は日本勧業銀行だが、統一金融機関コードは第一銀行の0001を使用、看板には赤地に白のハートのマークを使い「ハートの銀行」と称していた。日本勧業銀行の流れを受けて宝くじを取り扱い、その関係から全都道府県に支店を有していた。当初の本店は旧第一銀行の本店(現在のみずほ銀行丸之内支店)に置かれたが、1981年に千代田区内幸町の旧日本勧業銀行本店跡に本店ビルを新築し、移転した(現在のみずほ銀行本店)。
旧第一銀行は第二次世界大戦中に三井銀行と合併して帝国銀行となったものの両行の業務・企業文化の違いから再分裂したという苦い経験を持っていた。このため、勧銀との合併後はいわゆる「たすきがけ人事」や頭取の「順送り(第一・勧銀交互に選出)」が行われ、人事部も旧第一・旧勧銀で別々に置かれた。しかし、こういった人事は旧第一(D)・旧勧銀出身者(K)の対立を生んでしまって両者の融合が進まず、太陽神戸三井銀行(後のさくら銀行。現在の三井住友銀行)誕生まで規模こそ最大ではあったものの、その実力は富士・住友・三和・三菱などの他の上位都銀に比べると低いものであったと言われている。
1997年には、総会屋への利益供与事件で本店を家宅捜索され、頭取経験者の多数逮捕や元会長の自殺という事態を引き起こし、社会的に非難された。この時も、逮捕された元頭取の中には「あれは旧第一銀行の案件で、自分は旧日本勧業銀行出身だから関係ない」などと公判で無責任な証言をした者がおり、いかに旧第一・勧業の関係が悪いものであったかを露呈してしまう結果になった。この不祥事以降、宝くじの広告から「受託 第一勧業銀行」の文字が消え、みずほ銀行となった現在も広告には表示されていない(なお、宝くじ券面には受託銀行の表示がなされているが、これは宝くじの根拠法令である「当せん金付証票法」第9条第3号によって義務付けられているからである)。
[編集] 沿革
第一銀行も参照のこと。
- 1897年(明治30)7月 - 株式会社日本勧業銀行設立。日本勧業銀行法(勧銀法)による特殊銀行として開業。
- 1921年(大正10)9月 - 日本勧業銀行、山梨・佐賀県両農工銀行を合併。以降全国各地の農工銀行を統合(1944年(昭和19)完了)。
- 1950年(昭和25)5月 - 日本勧業銀行、勧銀法廃止に伴い、民間の普通銀行に転換。
- 1952年(昭和27年)11月 - 日本勧業銀行、金融債の発行を停止し預金主体の都市銀行に転換。
- 1971年(昭和46)10月 - 株式会社第一銀行(1873年創業)と日本勧業銀行が合併し、株式会社第一勧業銀行となる。
- 2000年(平成12)9月29日 - 第一勧業銀行、株式会社富士銀行及び株式会社日本興業銀行が株式移転により株式会社みずほホールディングスを設立し、3行はその完全子会社となる。
- 2002年(平成14)4月1日 - 第一勧業銀行を存続銀行として株式会社みずほ統合準備銀行(株式会社日本興業銀行のコンシューマーバンキング業務を2002年(平成14)4月1日分割)と合併し、併せて富士銀行よりコンシューマーバンキング業務を承継して、株式会社みずほ銀行と商号変更。同時にコーポレートバンキング業務を、株式会社みずほコーポレート銀行へ譲渡する。
[編集] 備考
- 第一勧銀グループ 1980年発足。最大の規模を誇った企業グループであるが、その実態は旧行それぞれの企業グループを同行と伊藤忠商事が中心となって統合した物で、同一業種の企業が複数所属していることなどから結束力が他の企業グループよりも弱いと言われた。
- シンガーソングライターの小椋佳が同行浜松支店長を務めていた。これは小椋が芸能活動の傍ら同行に勤務し続けていたため。
- 1971年の合併成立時より、同行独自のキャラクターを設定し広告媒体などに使用していたが、1998年サンリオのハローキティを新たに起用し、みずほ銀行成立時まで広告媒体や販促品、通帳デザインなどに使用していた。なお、アートデザイン通帳として1990年代後半、タレントのジミー大西デザインの通帳を発行していた時期がある。