日本の近現代文学史
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明治を迎え日本の社会は大きく変化した。西欧の思想や文化を取り入れる文明開化が推進され、日本文学にも大きな影響を与えた。言文一致運動もその一つである。文学という語自体、翻訳語として創り出されたものであり、この頃に現在一般に使われ私たちが考える文学という概念が生まれた。
目次 |
[編集] 明治時代の文学
[編集] 過渡期の文学と『小説神髄』
明治に入ってしばらくは江戸時代と同様の文芸活動が続いていた。明治18年から19年にかけて、坪内逍遥が日本で初めての近代小説論『小説神髄』を発表するまでの時期を『過渡期の文学』と称する。この期間の文学は、戯作文学、政治小説、翻訳文学の3つに分類される。
森有礼の呼びかけで発足した明六社は、啓蒙思想をもとに、明治という新社会においての実利主義的主張をした。これは大衆に広く受け入れられ、福沢諭吉『学問のすゝめ』、中村正直訳『西国立志編』、中江兆民訳『民約訳解』がよく読まれた。
戯作文学は、江戸時代後期の戯作の流れを受け継ぎつつ、文明開化後の新風俗を取り込み、人気を博した。仮名垣魯文は、文明開化や啓蒙思想家らに対して、これらを滑稽に描いた『西洋道中膝栗毛』(明治3年)、『安愚楽鍋』(明治4年)を発表した。
国会開設や、自由党、改進党の結成など、自由民権運動の高まりとともに明治10年代から政治小説が書かれるようになる。政治的な思想の主張、扇動、宣伝することを目的としているが、矢野竜渓の『経国美談』(明治16年-17年)、東海散士の『佳人之奇遇』といったベストセラーになった作品は、壮大な展開を持った構成に、多くの読者が惹きつけられた。坪内逍遥の『小説神髄』発表後は、その主張を受けて写実主義的要素が濃くなり、末広鉄腸の『雪中梅』はその代表的な作品である。
翻訳文学は、明治10年代になってさかんに西欧小説が移入され広まった。代表作は川島忠之助が翻訳したジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』(明治11年-13年)、坪内逍遥がウィリアム・シェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』を翻訳した『自由太刀余波鋭鋒』である。
[編集] 近代文学の始まりと写実・浪漫主義
近代文学は西欧近代小説の理念の流入とともに始まり、坪内逍遥の『小説神髄』によって実質的に出発した。「小説の主脳は人情なり、世態風俗はこれに次ぐ」という主張に感銘を受け、二葉亭四迷が『小説総論』を書いた。これらの評論をもとに逍遥は『当世書生気質』(明治18年-19年)を書いたが、戯作の風情を多分に残していた。それらを克服して明治20-22年に発表された四迷の『浮雲』は、最初の近代日本文学とされる。また、四迷は『あひゞき』『めぐりあひ』といったロシア文学の翻訳をし、大きな影響を与えた。
こうした写実主義的な近代リアリズム小説が充実し始める一方、政治における国粋主義的な雰囲気の高まりにともなって、井原西鶴や近松門左衛門らの古典文学への再評価が高まった。1885年(明治18年)、尾崎紅葉、山田美妙らが硯友社をつくり、「我楽多文庫」を発刊した。擬古典主義のもと、紅葉は『二人比丘尼色懺悔』『金色夜叉』を発表した。紅葉の女性的、写実的な作風に対して、男性的、浪漫的な作風で人気を博したのが幸田露伴である。『露団々』『風流仏』『五重塔』などの小説のほか、評論や古典の解釈など幅広く活躍した。露伴と紅葉が活躍した時期は「紅露時代」と呼ばれた。
森鴎外の登場によって、叙情的で芸術的な傾向をもつ浪漫主義文学が登場する。ドイツへの留学経験の題材にした『舞姫』(明治23)などによって、近代知識人の自我の覚醒を描いた。この頃、北村透谷を中心とした雑誌「文学界」には浪漫主義的な作品が発表された。樋口一葉は、代表作『たけくらべ』『にごりえ』で注目されるが、24才の若さで結核に倒れた。『高野聖』を発表した泉鏡花は、『婦系図』『歌行燈』で幻想的な世界を描いた。
[編集] 自然主義
明治の終わりになると、ゾラやモーパッサンといった作家の影響を受け、自然主義が起こった。ヨーロッパの自然主義は遺伝学などを取り入れ客観的な描写を行うものであったが、日本では現実を赤裸々に暴露するものと受け止められた。島崎藤村の『破戒』(明治39)に始まり、後に田山花袋の『蒲団』によって方向性が決定づけられた。花袋の小説は私小説の出発点ともされ、以後日本の小説の主流となった。自然主義作家としては、国木田独歩、徳田秋声、正宗白鳥らがおり、後に藤村も『新生』、花袋も『田舎教師』を発表した。
この自然主義に対抗したのが夏目漱石である。当初漢詩や俳句を著していた漱石は、『吾輩は猫である』を発表し社会を批判。ユーモアと諷刺とが織り交ざった作品を発表していたが、修善寺の大患後に『こころ』『明暗』といった作品で、人間の利己を追い求めた。また、鴎外も創作活動を再開、『青年』『雁』などを書いた後、歴史小説に転じた。
一方で村上浪六、塚原渋柿園の髷物(撥鬢物)、押川春浪の冒険小説など通俗的な小説が書かれ、大衆小説の先駆となった。
[編集] 明治の詩歌、演劇
詩では、外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎によって『新体詩抄』が刊行され、新体詩が盛んになる。
ドイツから帰国した森鴎外は翻訳詩集『於母影』を、北村透谷は『楚囚之詩』『蓬莱集』を出版した。透谷の「文学界」に参加していた藤村は『若菜集』を、藤村と並称された土井晩翠は、『天地有情』を刊行。これらは浪漫詩と呼ばれる。
象徴詩では薄田泣菫、蒲原有明が活躍し、その後を受けて北原白秋、三木露風らが台頭。「白露の時代」と呼称された。「文庫」では河井醉茗、横瀬夜雨、伊良子清白が活動する。また、上田敏は、訳詩集『海潮音』を発表し、影響を与えた。
浪漫主義のうち、短歌では与謝野鉄幹が「明星」を創刊、与謝野晶子は『みだれ髪』を発表した。この一派であった石川啄木、窪田空穂も活躍を見せたが、特に啄木は『一握の砂』『悲しき玩具』を刊行した。
竹柏会を主催した佐佐木信綱は、「心の花」を創刊。正岡子規は『歌よみに与ふる書』を発表し根岸短歌会を開き、伊藤左千夫、長塚節らが参加した。北原白秋、吉井勇らはパンの会を起こし、耽美派に繋がる歌を読んだ。
俳句では、子規や「ホトトギス」を中心に、高浜虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪らが輩出された。
また、演劇界にも自然主義の影響があり、逍遥、島村抱月らが文芸協会を立て、イプセンの『人形の家』の上演などを行った。文芸協会の解散後、抱月は松井須磨子らとともに芸術座を設置しトルストイの作品などを上演、『復活』が評判となった。このほか、小山内薫、二代目市川左團次により、自由劇場の活動が見られた。
[編集] 大正時代の文学
自然主義にわずかに遅れ、後期浪漫主義とも呼ばれる耽美派が生まれた。永井荷風や谷崎潤一郎らの活動に代表される。
又、自由・民主主義の空気を背景に武者小路実篤や志賀直哉、有島武郎らの白樺派が活躍した。
大正中期からは東京帝大系統の新思潮派が漱石や鴎外の影響の下にあらわれ、芥川龍之介や菊池寛らの活動があった。
新早稲田派とも呼ばれる宇野浩二や広津和郎、葛西善蔵らによって心境小説、私小説が書かれた。
[編集] 昭和の文学
[編集] 大正末期~昭和20年
大正末期から、既成の文壇や個人主義リアリズムを批判して横光利一や川端康成らによる新感覚派が興った。
又、政治状況を背景に大正10年(1921)に小牧近江らによって雑誌『種蒔く人』が創刊され、次いでプロレタリア文学の潮流が生まれた。
大正期以来の大家達の活動と平行して新興芸術派倶楽部と呼ばれる人々のモダニズム文学が始められ、梶井基次郎、井伏鱒二らの作品が書かれた。
満州事変以降の軍国主義的な空気の中でプロレタリア文学運動が発展し、小林多喜二の『蟹工船』、徳永直(すなお)の『太陽のない街』、宮本百合子や葉山嘉樹、中野重治、佐多稲子、壺井栄の諸作品が生まれた。又、プロレタリア文学評論も活発となり、蔵原惟人、宮本顕治らの文芸評論が知識層に影響を与えたが、戦時体制の強化により、弾圧を受け、逼塞を余儀なくされた。それに対して危機的な時局を背景に国粋的動向とともに保田與重郎ら日本浪曼派や蓮田善明らの文学活動が見られた。
昭和10年代の戦争を予感させた重苦しい時代には太宰治、織田作之助らの無頼派や日本や中国の古典に造詣の深い堀辰雄や中島敦らが作品を残した。
芥川賞や直木賞が制定され、文学がジャーナリズムの注目を浴びるようにもなった。
[編集] 戦後の文学(主に昭和20年~40年)
プロレタリア文学の流れをくんだ中野重治や宮本百合子は、新日本文学会を創立して、民主主義文学運動をおこし、労働者の文学の力を発掘した。
雑誌『近代文学』の周辺から埴谷雄高、安部公房、三島由紀夫らが現れたほか、大岡昇平、井上靖、幸田文、円地文子らが旺盛な活動を見せた。
又、戦後派のうち島尾敏雄や梅崎春生の傾向は、「第三の新人」と呼ばれる小島信夫、安岡章太郎、庄野潤三、遠藤周作、吉行淳之介、阿川弘之らに受け継がれた。第一次戦後派作家,第二次戦後派作家の次に現れた為「第三次戦後派作家」という意味の「第三の新人」と呼ばれる。
第三の新人以降、1956年(昭和31年)に石原慎太郎が『太陽の季節』で「戦後の最初の宣言」として文壇に華々しく登場し、芥川賞の存在が一躍有名になった。他に大江健三郎、北杜夫などの有力、多彩な新人が登場する。
[編集] 昭和40年周辺
昭和43年、川端康成がノーベル文学賞を受賞した。昭和45年には三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地において割腹自殺した。四部作『豊穣の海』最終部を脱稿した日の自決であった。
〈内向の世代〉と呼ばれる、心理描写の深さを追求する作家たちが現れたのもこの時期である。古井由吉・後藤明生・黒井千次らが有名になった。
戦後登場した作家たちが、長編に本領を発揮した。武田泰淳『富士』、大岡昇平『レイテ戦記』、福永武彦『死の島』、中村真一郎『頼山陽とその時代』、野間宏『青年の環』などである。
新日本文学会から離脱した者を中心に日本民主主義文学同盟が結成され、民主主義文学の伝統を引き継いだ。
[編集] 昭和50年周辺
中上健次が戦後世代として、初めて芥川賞を受賞した。彼は、出身地である紀州にこだわった紀州三部作『岬』(芥川賞受賞・昭和50)、『枯木灘』(昭和51年-52年)、『鳳仙花』(昭和54年)で土着的文学世界を築いた。続いて『限りなく透明に近いブルー』(昭和51年)で覚せい剤と乱交にあけくれる若者を描き、村上龍が芥川賞受賞。『コインロッカー・ベイビーズ』(昭和55年)、『愛と幻想のファシズム』(昭和59年-61年)など多くの小説を発表した。村上龍とともに語られるのが、昭和54年に『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞してデビューした村上春樹である。『羊をめぐる冒険』(昭和57年)などの英米文学の影響を受けた作風が支持された。『泥の河』(昭和52年)で宮本輝が登場し、『蛍川』(昭和52年)『道頓堀川』(昭和53年)を合わせた川三部作により戦後大阪の庶民の姿を描いた。昭和58年には『優しいサヨクのための嬉遊曲』で島田雅彦がデビューした。
その間にも檀一雄が『火宅の人』(昭和50年)、安岡章太郎が『流離譚』(昭和51年)、吉行淳之介『夕暮まで』(昭和53年)、黒井千次が『群棲』(昭和56年-59年)を、井上ひさしは『吉里吉里人』(昭和48年-55年)を発表した。また、大江健三郎は『ピンチランナー調書』(昭和52年)、『同時代ゲーム』(昭和54年)の後、代表作の一つ『新しい人よ眼ざめよ』(昭和58年)を著した。
演劇の世界で活躍していたつかこうへいが『蒲田行進曲』(昭和56年)で直木賞を、同じく演劇人の唐十郎が『佐川君からの手紙』(昭和58年)で芥川賞を受賞し注目をあつめた。
[編集] 昭和60年周辺
『光り抱くともよ』(昭和59年)で高樹のぶ子が登場。『鍋の中』(昭和62年)の村田喜代子、『由熙』(昭和63年)の李良枝らの芥川賞受賞の女性作家の活躍が見られた。芥川賞に何度もノミネートされた山田詠美は、『ソウルミュージックラバーズ・オンリー』(昭和62年)で直木賞。デビュー作『ベッドタイムアイズ』(昭和60年)など話題作を発表した。昭和62年、『キッチン』で評論家吉本隆明の次女、吉本ばなながデビューして“ばなな現象”を起こした。『うたかた/サンクチュアリ』(昭和62年)、『TUGUMI』(昭和63年-平成元年)等により孤独で現代的な登場人物をみずみずしい感性で描いた。
デビュー後、着実に独自の世界観を作り上げてきた村上春樹は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(昭和60年)、『ダンス・ダンス・ダンス』(昭和63年)を発表。『ノルウェイの森』(昭和62年)は大ベストセラーになり、上下巻で460万部以上を売った。又、宮本輝は『優駿』(昭和61年)で幅広い読者を得た。
[編集] 平成の文学
[編集] 平成初期の文学
小川洋子の『妊娠カレンダー』(平成2年)、荻野アンナの『背負い水』(平成3年)、多和田葉子の『犬婿入り』(平成4年)と女性作家の時代を印象付けた。多和田はドイツ語でも作品を発表し、日本語との間に新たな関係性を見出しつつ作品を発表し続ける。昭和56年に『極楽』で群像新人文学賞を受賞しデビューした笙野頼子が『タイムスリップ・コンビナート』(平成6年)で芥川賞を受賞するなど、フェミニズムと文学の問題を考える作家が多様に現れた。後に『『我輩は猫である』殺人事件』などで、純文学ミステリー作家と呼ばれるようになった奥泉光が『石の来歴』(平成5年)で芥川賞を受賞した。
ベテラン勢では筒井康隆『文学部唯野教授』(平成2年)、河野多恵子『みいら採り猟奇譚』(平成2年)、開高健『珠玉』(平成2年)、丸谷才一『女ざかり』(平成4年)、遠藤周作『深い河』(平成5年)などが健筆ぶりを見せた。中上健次が『軽蔑』(平成4年)を発表、彼の文学の系譜がいよいよ鮮やかになったが、同年死去。平成7年、大江健三郎がノーベル文学賞を受賞した。同じ年に、村上春樹は三部からなる大作『ねじまき鳥クロニクル』を発表した。
[編集] J文学というジャンル
J-POPという音楽に応じて雑誌『文藝』が名づけたJ文学が現れ、渋谷系、新宿系など、街の個性を代表する小説が誕生した。町田康、赤坂真理、星野智幸、吉田修一、阿部和重、黒田晶、藤沢周ら90年代に登場した作家が、広くJ文学にカテゴライズされた。
『日蝕』で芥川賞を受賞した平野啓一郎は、現代ではあまり使われない漢語を多用した擬古文体で登場。京都大学の現役学生であった事からマスコミに多く登場した。『家族シネマ』の柳美里、『海峡の光』の辻仁成らは、アダルトチルドレンやトラウマといった、心理学の流行語で読み解かれた。『蛇を踏む』で芥川賞を受賞した川上弘美は、平成13年『センセイの鞄』を発表し、広く受け入れられた。
[編集] ライトノベル、メディアミックス、ハイパーテクスト
1980年代から90年代後半に、ライトノベルと呼ばれる、ヤングアダルトに購買層を絞ったジャンルが登場した。俗に言う漫画小説である。「ジュブナイル」「ヤングアダルト」「ジュニアノベル」とも。
80年代、夢枕獏、菊地秀行、田中芳樹、栗本薫、高千穂遙などの作家が、作風を中高生対象に絞って娯楽性の強い作品を発表した。
水野良、神坂一、上遠野浩平などが、SFやファンタジー系統の作品を次々と発表した。また、これらの作品群はアニメ化を意識して、漫画家・イラストレータにアニメ表現をした絵表紙を使用して注目させ、次に、アニメ化やゲーム化など他メディア展開して、爆発的な人気作とする手法で販路を拡大していった。これらの手法は「メディアミックス」と呼ばれ、他の媒体にも応用されている。
2000年代前後の時点では、本を発売するたびに、これを何年後にアニメ化するのなら、ここでCDドラマをしかけるといったように、前提になっている。ただし、文体やストーリーの構築が巧くないと、ほとんどが一発屋となって消えていく傾向にある。このため、作家の力量や持続力の維持について不安を述べる意見もある。
インターネットや携帯電話の普及によりテクストの形態が変化し、ハイパーテキストを多くの人々が享受する様になり、文学は新しい展開を見せ始めた。同時に、従来の本を巡る市場は縮小し、文学のありかたに変化の兆しが見られる。