新感覚派
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新感覚派(しんかんかくは)は、大正末期から昭和初期の文学の一流派。1924年(大正13)年に創刊された同人誌『文芸時代』を母胎として登場した新進作家のグループ、文学思潮、文学形式をさす。大正・昭和期の評論家、ジャーナリストの千葉亀雄が同人の言語感覚の新しさにいち早く注目し、『文芸時代』創刊号の印象を『世紀』に発表。「新感覚派の誕生」と命名して以来、文学史用語として広く定着した。『文芸戦線』のプロレタリア文学派とともに、モダニズム文学として、大正後期から昭和初期にかけての大きな文学潮流となった。
[編集] 作家
横光利一、川端康成、中河与一、片岡鉄兵、今東光、佐々木茂索、十一谷義三郎、池谷信三郎、稲垣足穂らを指すことが多い。
[編集] 特徴と概略
「伝統的な私小説リアリズムの否定」「言語表現の独立性を強調」「近代という状況・感覚・意識を基調として主観的に把握」「知的に再構成した新現実を感覚的に置換・創造する作風」などを特徴とする。同創刊号に掲載された横光利一の『頭ならびに腹』の「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。」の描写に見られるように、ポール・モーランの『夜ひらく』(堀口大学訳)など、20世紀西欧文学の影響による擬人法手法を導入し、従来の日本語の文体に大きな影響を与えた。
1926年(大正15)には、企画に横光利一が参加し、川端康成がシナリオを担当することで、映画監督衣笠貞之助に協力し、日本で最初の実験映画『狂った一頁』を制作。説明的映像におもねらない純粋映画を狙った画期的な無字幕の無声映画として話題を集めた。
また、1927年(昭和3)~1929年(昭和4)初期にかけて、プロレタリア文学派と新感覚派との間に「形式主義論争」が生じるなど、活発な思潮の舞台ともなった。
1927年(昭和2)年には前衛芸術家同盟に参加するなど、左傾化した片岡鉄平、今東光らの離脱、そして同人たちが時代の寵児となり『文芸時代』が終刊。1929年(昭和4)に中村武羅夫、川端康成らで結成した「十三人倶楽部」が母体となって、翌1930年(昭和5)には井伏鱒二や吉行エイスケらも所属した「新興芸術派倶楽部」が設立され、「新感覚派」の黄金時代は終焉を迎える。
1930年(昭和5)、「新感覚派の天才」と呼ばれた横光利一は『機械』を発表。文学史的に「新心理主義」に移行するが、1932年(昭和7)、新感覚派の集大成というべき『上海』『寝園』を、1934年(昭和9)には『紋章』を発表する。一方、1931年(昭和6)には満州事変が起き、文学の流れも国策の時代へ転換。のちに横光も文芸銃後運動に加わり、時代思潮としての新感覚派も完全に終焉した。