中野重治
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中野重治(なかの しげはる、1902年1月25日 - 1979年8月24日)は、日本の小説家、評論家、詩人。福井県出身。東京帝国大学文学部独文科卒。
四高時代に窪川鶴次郎らを知り、短歌や詩や小説を発表するようになる。東大入学後、窪川、堀辰雄らと『驢馬』を創刊、一方でマルクス主義やプロレタリア文学運動に参加し、「ナップ」や「コップ」を結成。この間に多くの作品を発表した。1931年に日本共産党に入ったが、検挙される。
戦後、再び日本共産党に入り、また、『新日本文学』の創刊に加わる。平野謙、荒正人らと「政治と文学論争」を引き起こし、戦後文学を確立させた。1947年から50年まで参議院議員。
代表作に、小説『むらぎも』『梨の花』『歌のわかれ』、評論『斎藤茂吉ノオト』『甲乙丙丁』、詩集『中野重治詩集』など。
[編集] 経歴
1902年1月25日、福井県坂井郡高椋村(現在の丸岡町)一本田に生れた。父は藤作、母はとら。兄が一人、妹が三人いた。父は大蔵省煙草専売局に勤務していたので、神奈川県平塚町、秦野町に住んでいたときもあった。父の鹿児島転勤の際に、一本田に戻り、祖父母に育てられる。
1908年に第三高椋小学校に入学(卒業時には高椋西小学校に改称されている)。1914年、福井県立福井中学校に入学。同年に祖母のみわが没した。1919年に卒業し、金沢市の旧制第四高等学校文科乙類に入学。なお、8月に兄の耕一が勤務先の朝鮮銀行で客死している。在学中に窪川鶴次郎らを知り、短歌などを発表。1923年、関東大震災に被災し金沢で避難生活を送っていた室生犀星を初めて訪ね、以後師事する。
1924年、東京帝国大学独逸文学科に入学。5月に祖父の治兵衛が死去。1925年、同人雑誌『裸像』を大間知篤三、深田久弥、舟木重彦らとともに創刊し、詩「しらなみ」「浪」などを発表し、大間知や林房雄の紹介で新人会に入った。また、林、久板栄二郎、鹿地亘らとともに社会文芸研究会を、1926年、鹿地らとともにマルクス主義芸術研究会(マル芸)を設置。さらに室生の元で知り合った大学の一年後輩である堀辰雄らや窪川と共に、同人雑誌『驢馬』を創刊、芥川龍之介にも評価をされた。
同年にマル芸会員とともに日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)へ入り、中央委員となる。プロレタリア文学運動に参加し、抒情性と戦闘性をあわせもった作品で有名になった。全日本無産者芸術連盟(ナップ)や、日本プロレタリア文化連盟(コップ)の結成にも協力している。この間の作品に『芸術に関する走り書き的覚え書』(評論)『鉄の話』(小説)など。1932年にコップの弾圧が強くなり検挙されたが、転向の意思を示して出獄した。出獄後も良心を保持した『論争と小品』『小説の書けぬ小説家』などの作品や雑文によって時流批判を続けたため、1937年には、宮本百合子や戸坂潤、岡邦雄らとともに執筆禁止の弾圧を受けている。アジア太平洋戦争の開始のときに、父親の死去による帰省中だったために検挙をまぬがれ、戦時下には『斎藤茂吉ノオト』などの作品で、戦争に便乗はしなかった。ただし、文芸家協会の日本文学報国会への改組にあたって、自分の過去の経歴のために入会を拒まれるのではないかという根拠のない懸念におそわれて、菊池寛に入会懇請の手紙を送っていたことが、のちにその手紙を保管していた平野謙によって暴露された。
戦争が終わると、新しい文学の出発を願い、宮本や蔵原惟人たちとともに新日本文学会を創立し(1945年)、民主主義文学の発展のために精力的に活動。『近代文学』の平野、荒正人を、「新日本文学」を中心として『批評の人間性』を書いて批判し、「政治と文学論争」を引き起こした。その批判は、政治主義的であったとの評価が後に中野自身によってなされている。その間、日本共産党に再入党し1947年から3年間参議院議員(全国区選出)を務め、1958年には日本共産党の中央委員に選出された。しかし、そのころの新日本文学会内でアヴァンギャルド的な方法を探究しようとする花田清輝や武井昭夫たちが、日本共産党と政治理論で対立していくなかで、武井たちの方向を支持するようになり、1964年の部分核停条約の批准をめぐる意見の相違のなかで、党の決定にそむいて、志賀義雄・神山茂夫・鈴木市蔵らとともに「日本のこえ」派を旗揚げした。この〈日本のこえ〉の命名をしたと伝えられており、その結果、1964年、日本共産党を除名された。また、新日本文学会の内部でも、部分核停条約の評価をめぐって異論をもち、新日本文学会の大会に意見の相違を保留する対案を提出しようとした、江口渙や霜多正次たちの除籍に賛成し、かれらは日本民主主義文学同盟を結成するにいたった。
その後は、志賀とはたもとを分かつことになったが、神山とともに『日本共産党批判』を出版したように、最期まで日本の左翼運動・文学運動で活動。1978年に、「小説、詩、評論など多年にわたる文学上の業績」により、朝日賞を受賞した。
1979年6月、白内障の手術のため都立駒込病院に入院。術後退院したが、7月に東京女子医科大学病院に再入院。8月24日17時21分に、胆のう癌のために死去した。
[編集] 主な作品
- 春さきの風
- 芸術に関する走り書的覚え書(評論)
- 中野重治詩集(詩)
- 鉄の話
- 村の家
- 空想家とシナリオ
- 歌のわかれ
- 楽しき雑談(雑文)
- 五勺の酒
- むらぎも
- 鴎外 その側面(研究)
- 忘れぬうちに(雑文)
- 梨の花
- 甲乙丙丁
- 室生犀星(研究)
- 沓掛雑記(雑文)
- わが生涯と文学(回想)