小林多喜二
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小林 多喜二(こばやし たきじ、1903年10月13日 - 1933年2月20日)は、日本のプロレタリア文学の代表的な作家・小説家。秋田県北秋田郡下川沿村(現大館市)生まれ。
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[編集] 人物
4歳の時に小樽に移住。生活は豊かではなかったが、伯父からの学資を受け小樽商業学校から小樽高等商業学校へ進学。在学中から創作に親しみ、文芸誌への投稿や、校友会誌の編集委員となってみずからも作品を発表するなど、文学活動に積極的にとりくんだ。小樽高商の下級生に伊藤整がおり、また同校教授であった大熊信行の教えを受ける。この前後から、自家の窮迫した境遇や、当時の深刻な不況から来る社会不安などの影響で労働運動への参加を始めている。
卒業後、北海道拓殖銀行小樽支店に勤務(この頃、悲惨な境遇にあった恋人田口タキを救う)。1928年の総選挙のときに、北海道1区から立候補した山本懸蔵の選挙運動を手伝い、羊蹄山のふもとの村に応援演説に行く。この経験がのちの作品「東倶知安行」に生かされている。同年に起きた三・一五事件を題材に「一九二八年三月十五日」を『戦旗』に発表。作品中の特別高等警察による拷問の描写が特高の憤激を買う(後年の拷問へとつながる)。
翌1929年に「蟹工船」を『戦旗』に発表し、一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集めたが、同時に警察からも要注意人物としてマークされ始める。同年、『中央公論』に発表した「不在地主」が原因で銀行を解職され、翌年春に上京。日本プロレタリア作家同盟書記長となる。1930年5月中旬、『戦旗』誌を発売禁止から防衛するため江口渙、貴司山治、片岡鉄兵らと京都、大阪、山田、松阪を巡回講演。23日、大阪で日本共産党へ財政援助の嫌疑で逮捕され、額に傷が残るほどの激しい拷問を受けたが、 6月7日、いったん釈放された。しかし、24日に帰京後、作家の立野信之方でふたたび逮捕され、7月、「蟹工船」の件で不敬罪の追起訴をうける。8月 、治安維持法で起訴、豊多摩刑務所に収容された。1931年1月22日、保釈出獄。そのあと神奈川県七沢温泉にこもり、英気を養う。1931年10月、非合法の日本共産党に入党し、11月上旬、奈良の志賀直哉邸を訪ねる。1932年春の文化分野への大弾圧を機会に、地下活動に追いやられる。8月下旬、みずからの地下生活の体験を元に「党生活者」を執筆。
1933年2月20日、内通者により赤坂の連絡場所で特高に逮捕される。同日築地署内において凄惨な拷問を受け皮膚呼吸が不可能となるまでに全身が殴打されて腫れ上がり、獄中死した。この拷問では縄で縛り上げて宙にぶら下げる「飛行機モノ」もされている。中央公論編集部は、多喜二から預かったまま掲載をためらっていた「党生活者」の原稿を「転換時代」という仮題で『中央公論』(1933年4-5月号)に、遺作として発表した。
[編集] 小林多喜二シンポジウム
生誕100年を迎えた2003年以来、白樺文学館多喜二ライブラリー主催「小林多喜二国際シンポジウム」が2年連続で開催され、2005年秋には、中国・河北省の河北大学で「第1回多喜二国際シンポジウム」が、中国各地および日本をはじめ中国国外から研究者約200名を集め開催された。その記録は、白樺文学館多喜二ライブラリー編 / 張如意監修『いま中国によみがえる小林多喜二の文学-中国小林多喜二国際シンポジウム論文集』(東銀座出版社、2006年2月。ISBN 4-89469-095-0)に収められている。
[編集] 多喜二のドキュメンタリー映画
生誕100年・没後70年を記念して、記録映画「時代(とき)を撃て・多喜二」が同製作委員会によって製作され、全国で巡回上映がおこなわれた。