太宰治
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太宰 治(だざい おさむ、1909年6月19日 - 1948年6月13日、AB型)は、日本の小説家・作家。本名、津島 修治(つしま しゅうじ)。
学生時代から作家を希望するが、自殺未遂を繰り返す。1935年、『逆行』が第1回芥川賞候補。結婚後、『富嶽百景』『斜陽』などを書き、戦後流行作家となったが、1948年、玉川上水に入水心中。『人間失格』『グッド・バイ』などが遺された。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
1909年(明治42年)6月19日、青森県北津軽郡金木村(現在の青森県五所川原市、旧金木町)に、県下有数の大地主である津島源右衛門(1871-1923)、タ子(たね)(1873-1942)の6男として生まれた。二人の間には11人の子供がおり、10番目であった(但し、太宰が生まれた時点で既に長兄・次兄は他界)。父・源右衛門は松木家からの婿養子で県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員をつとめた地元の名士であった。
津島家の先祖について、「私の生れた家には、誇るべき系図も何も無い。どこからか流れて来て、この津軽に土着した百姓が、私たちの祖先なのに違ひない。私は、無智の食ふや食はずの貧農の子孫である。私の家が多少でも青森県下に、名を知られ始めたのは、曾祖父惣助の時代からであつた」と書いている。惣助は油売りの行商をしながら金貸しで身代を築いていったという。また、津島家は、旧対馬国から日本海を渡って津軽に定住した一族であるとする説もある。
[編集] 学生時代
1916年、金木第一尋常小学校に入学。1923年、青森県立青森中学校入学直前の3月、父が死去した。
17歳頃、習作『最後の太閤』を書き、また同人誌を発行。作家を志望するようになる。官立弘前高等学校文科甲類時代には泉鏡花や芥川龍之介の作品に傾倒すると共に、左翼運動に傾倒。
1929年、当時流行のプロレタリア文学の影響で同人誌『細胞文芸』を発行すると辻島衆二の名で作品を発表、井伏鱒二に指導を受ける。 この頃は他に小菅銀吉、または本名でも文章を書いていた。12月、みずからの階級に悩みカルモチン自殺を図る。
1930年、弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業。フランス語を知らぬままフランス文学に憧れて東京帝国大学仏文科に入学したが、高水準の講義内容が全く理解できなかった上、非合法の左翼運動にのめり込んで学業怠慢で、留年を繰り返した挙句に除籍。卒業に際して口頭試問を受けたとき、教官の一人から、教員の名前が言えたら卒業させてやる、と冗談を言われたが、講義に出なかった太宰は教員の名前を一人も言えなかったと伝えられる。在学中にも、カフェの女給で人妻である田部シメ子(1912-1930)と出会い、カルモチン自殺を図っている。だがシメ子だけ死亡した。
[編集] 小説家時代
1933年、短編『列車』を『サンデー東奥』に発表。同人誌『海豹』に参加し、『魚服記』を発表。1935年、『逆行』を『文藝』に発表。初めて同人誌以外の雑誌に発表したこの作品は、第1回芥川賞候補となった。だが、都新聞社に入社できず、またも自殺を図るも失敗。また、この年、佐藤春夫を知り師事する。1936年、前年のバビナール中毒が進行し治療に専念するも、処女作品集『晩年』を刊行。翌年小山初代(1912-1944)とカルモチン自殺未遂。一年間筆を絶ったが、『姨捨』で復活、石原美知子(1912-1997)と結婚した。
その後、精神的に安定。『富嶽百景』などを書いた。1947年、『斜陽』を刊行。
生活のために、黒木舜平という筆名で心理サスペンス小説『断崖の錯覚』を書いたこともあるが、太宰自身はこの作品を恥じていた。
39年の生涯で5回の自殺未遂を繰り返し、1948年(昭和23年)に玉川上水における愛人・山崎富栄(1917-1948)との入水心中により生命を絶つ。この事件は当時からさまざまな憶測を生み、愛人による無理心中説、狂言心中失敗説等が唱えられている。2人の遺体が発見されたのは、奇しくも太宰の誕生日である6月19日の事であった。 この日は桜桃忌(おうとうき)として知られ、三鷹の禅林寺を多くの愛好家が訪れる。
太宰治の出身地・青森県金木町でも桜桃忌の行事をおこなっていたが、生地金木には生誕を祝う祭りの方が相応しいとして、遺族の要望もあり、生誕90周年となる1999年(平成11年)から「太宰治生誕祭」に名称を改めた。
金木の生家は、太宰治記念館 「斜陽館」として公開され、国の重要文化財に指定されている。
[編集] 作家研究
5回の自殺未遂や小説のデカダン的とも言える作風のためか、真に迫った作風を好む作家としてのみ捉える向きもあるが、戦時中は『畜犬談』『お伽草紙』『新釈諸国噺』などユーモアの溢れる作品も残している。深刻な作品のみを挙げて太宰文学を否定した三島由紀夫は、ある作家から「それなら君は『お伽草紙』を否定できるか!」と詰め寄られて、一言も言い返せなかった。個人的に太宰と交際があった杉森久英も、永らく太宰文学を好きになれなかったが、戦後だいぶ経ってから『お伽草紙』や『新釈諸国噺』を読んで感嘆し、それまで太宰を一面的にしか捉えていなかった自分の不明を深く恥じたという。
また坂口安吾、織田作之助、石川淳と共に「無頼派」または「新戯作派」の一人に数えられる太宰は、退廃的な作風を好んだ、と一般に言われている。 しかしながら、太宰自身は退廃的な作品を書きながらも同世代の作家の中で最も「神を求めた人」であった、とする研究・評論も多くある。
小説の持つ退廃的な印象とは逆に、太宰は聖書やキリスト教にも強い関心を抱き続けた。そして聖書に関する作品を幾つか残している。その一つが『駈込み訴へ』である。『駈込み訴へ』では一般的に裏切り者、背反者として認知されるイスカリオテのユダの心の葛藤が描かれている。太宰はこの作品を、口述筆記で一気に仕上げた。
[編集] 略年譜
- 1909年(明治42年) 青森県北津軽郡金木町(現・五所川原市)に生まれる。
- 1916年(大正5年) 町立金木尋常小学校に入学。
- 1923年(大正12年) 県立青森中学校(1950年以降は県立青森高校)入学。英語作文の成績に優れていた。
- 1925年(大正14年) 中学の校友会誌に習作『最後の太閤』掲載。友人と同人誌『星座』発行。
- 1927年(昭和2年) 第一高等学校(現在東京大学教養学部)受験に失敗し、弘前高等学校(現在弘前大学)の文科甲類(文系の英語クラス)に入学。
- 1928年(昭和3年) 同人誌『細胞文芸』を創刊。潤沢な資金を背景に、舟橋聖一や吉屋信子など多数の有名作家から原稿を貰った。このころ井伏鱒二の作品を知り、『細胞文芸』への執筆を依頼。井伏の『薬局室挿話』はこの時の作品である。
- 1930年(昭和5年) 東京帝国大学仏文科入学。門人として井伏鱒二のもとに出入りするようになる。同年カフェの女給田部シメ子と鎌倉の小動岬で心中未遂を起こす。相手のシメ子のみ死亡したため、自殺幇助の容疑で検事から取調べを受けたが、長兄文治たちの奔走が実って起訴猶予となった。なお、この処分については、担当の宇野検事がたまたま太宰の父の実家である松木家の親類だったことや、担当の刑事がたまたま金木出身だったことが太宰にとって有利に作用したという説もある(中畑慶吉の談話)。
- 1931年(昭和6年) 津島家から除籍され、小山初代と結婚。
- 1933年(昭和8年) 『東奥日報』紙に短編『列車』を太宰治の筆名で発表。
- 1934年(昭和9年)檀一雄、木山捷平、中原中也、津村信夫等と文芸誌『青い花』を創刊するも、創刊号のみで廃刊。
- 1935年(昭和10年)『逆行』が芥川賞候補となり次席。佐藤春夫に師事する。
- 1937年(昭和12年) 小山初代が津島家の親類の画学生小舘善四郎と密通していたことを知り、初代と心中未遂、離別。
- 1938年(昭和13年) 石原美知子と婚約。山梨県に転居。
- 1941年(昭和16年) 長女・園子誕生。
- 1944年(昭和19年) 長男・正樹誕生。
- 1945年(昭和20年) 青森県に疎開。
- 1947年(昭和22年) 次女・里子(津島佑子)誕生。太田静子(1913-1982)との間に女児(太田治子)誕生。
- 1948年(昭和23年) 『人間失格』を発表。山崎富栄と玉川上水で入水心中。ふたりの遺体は紐で固く結ばれていたが、太宰が激しく抵抗した形跡が歴然と残っていた。このため一部では「太宰は決行直前になって気が変わったが、山崎が強引に水の中へ引きずり込んだのだ」との説もささやかれた。『朝日新聞』に連載中だったユーモア小説『グッド・バイ』が遺作となった。奇しくもこの作品の13話が絶筆になったのは、キリスト教のジンクスを暗示した、太宰の最後の洒落だったとする説(檀一雄)もある。遺書には「小説が書けなくなった」旨が記されていたが、一人息子がダウン症で知能に障害があったことを苦にしていたのが自殺の原因のひとつだったとする説もある。既成文壇に対する宣戦布告とも言うべき連載評論『如是我聞』の最終回は、死後に掲載された。
[編集] 作品一覧
- 晩年(1936年、砂子屋書房)
- 虚構の彷徨、ダス・ゲマイネ(1937年、新潮社)
- 二十世紀旗手(1937年、版画荘)
- 愛と美について(1939年、竹村書房)
- 女生徒(1939年、砂子屋書房)
- 皮膚と心(1940年、竹村書房)
- 思ひ出(1940年、人文書院)
- 走れメロス(1940年)
- 女の決闘(河出書房)
- 東京八景(1941年、実業之日本社)
- 新ハムレット(1941年、文藝春秋新社)
- 千代女(1941年、筑摩書房)
- 駆込み訴へ(1941年、月曜荘)
- 風の便り(1942年、利根書房)
- 老ハイデルベルヒ(1942年、竹村書房)
- 正義と微笑(1942年、錦城出版社)
- 女性(1942年、博文館)
- 富嶽百景(1943年、新潮社)
- 右大臣実朝(1943年、錦城出版社)
- 佳日(1944年、肇書房)
- 津軽(1944年、小山書房)
- 新釈諸国噺(1945年、生活社)
- 惜別(1945年、朝日新聞社)
- お伽草子(1945年、筑摩書房)
- パンドラの匣(1946年、河北新報社)
- 薄明(1946年、新紀元社)
- 冬の花火(1947年、中央公論社)
- ヴィヨンの妻(1947年、筑摩書房)
- 斜陽(1947年、新潮社)
- 人間失格(1948年、筑摩書房)
- 桜桃(1948年、実業之日本社)
[編集] 作品に登場する「津軽」
『津軽』『思ひ出』『おしやれ童子』『チャンス』等に登場。
2005年2月及び3月に、幾つかの町村が市町村合併し、名称を変更した。現市町村名では作品中に登場する地名との乖離が起こるので、基本的に作品に登場する町村名で記す事にする。括弧内は変更後の現市町名。
- 金木町(現五所川原市)
- 斜陽館
- 雲祥寺
- 芦野公園
- 青森市
- 弘前市
- 高校時代を過ごす。旧制弘前高等学校は、現在の弘前大学に相当し、跡地は同大学文京町キャンパス敷地内にある。かつては付近に陸軍第八師団司令部もあり、これも現在では弘前大学の敷地内である。
- この他太宰が弘前に住んでいた頃の建物が幾つか残っている。
- 蟹田町(外ヶ浜町)
- 三厩村(同上)
- 竜飛
- 太宰が宿泊した旅館は建物は残っているが、宿泊は出来ない。
- 五所川原市
- 映画館の旭座-現在五所川原市内に映画館は無い。当時どこに旭座があったかは不明。
- 乾橋
- 小泊村(中泊町)
- タケと再会した場所。小泊小学校にタケと太宰の像がある。
- 木造町(つがる市)
- 『津軽』に登場する「こもひ」が一部残っている。
- 太宰の父親の生家として登場する薬局が今でもある。
- 車力村(同上)
- 高山稲荷神社
- 深浦町
- 太宰が宿泊した旅館が「太宰の宿 ふかうら文学館」となっている。宿泊は出来ない。
- 円覚寺
- その他
[編集] 家庭・親族
作家の津島佑子は次女。衆議院議員津島雄二(旧姓上野)は、太宰の長女津島園子の夫で、自民党の最大派閥津島派(旧橋本派、旧竹下派)の会長。作家の太田治子は愛人太田静子との間にできた子である。三兄の津島文治は金木町長、青森県知事を歴任。文治の長男津島康一は俳優。四兄の津島英治もまた金木町長。英治の孫の津島恭一は元衆議院議員。
[編集] 関連人物
- 浅見淵(あさみ・ふかし) - 太宰の先輩作家。砂子屋書房より処女創作集『晩年』を刊行するにあたっては、浅見と檀一雄の尽力が大きかった。
- 阿部合成(あべ・ごうせい) - 太宰の中学の同級生で親友。画家。
- 池田正憲 - 太宰の弟子。作家。
- 石沢深美 - 太宰の弟子。NHK勤務。兄嫁の弟は堤重久。
- 石上玄一郎(いそのかみ・げんいちろう) - 本名上田重彦。旧制弘前高校時代の太宰の友人で、左翼運動の同志。石上は運動にのめりこんで放校になり、塗炭の苦しみを嘗めたが、太宰は実家の威勢などを背景に放校を免れた。のち東京に出て貧乏に苦しんでいたとき太宰に借金を踏み倒され、そのことを自伝の中で怨念をこめて語っている。
- 出英利(いで・ひでとし) - 太宰の年少の友人。哲学者出隆の息子。人柄を太宰に愛されていた。のち自殺。
- 井伏鱒二 - 太宰の師で、太宰が石原美知子と結婚した際の仲人。薬物中毒時代の太宰の狂態を面白おかしく題材にして、短篇『薬屋の雛女房』を書いた。これに対して、太宰は井伏選集の解説を依頼された折に、井伏の失敗作『青ヶ島大概記』(かつて太宰が学生時代に清書を手伝った)を意図的に取り上げ、よりによって史料の丸写しに終始している箇所をクローズアップして「天才を実感した」と井伏にしか通じぬ辛辣な皮肉を書いて反撃した。太宰は井伏を尊敬すると同時に恨んでおり、遺書の中で「井伏さんは悪人です」と指弾した。『人間失格』の堀木のモデルとも目されている。
- 伊馬春部 - 別名伊馬鵜平。太宰の親友で、ユーモア作家として『畜犬談』を捧げられた。折口信夫に太宰作品を勧めたのも伊馬である。太宰嫌いで有名な三島由紀夫は目黒時代伊馬家の隣家に住んでおり、強盗に押し入られて逃げ出したとき伊馬家に保護を求めたことがある。
- 大高正博 - 太宰の弟子。
- 小野才八郎 - 太宰の弟子。
- 桂英澄 - 太宰の弟子。
- 亀井勝一郎 - 太宰の友人。
- 川端康成 - 太宰が芥川賞候補になって落選したときの選考委員の一人。川端が「作者(太宰)目下の生活に厭(いや)な雲ありて、才能の素直に発せざる憾(うら)みあった」と批評したため、太宰は『川端康成へ』と題する短文を書いて抗議。川端は『太宰治氏へ芥川賞について』という釈明の短文を発表し、己の不遜を詫びた。
- 菊田義孝 - 太宰の弟子。
- 小館善四郎 - 太宰の親類。画学生時代に小山初代と過ちを犯す。のち洋画家となる。
- 小山清 - 太宰の弟子。
- 小山祐士
- 今官一 - 太宰の同郷の友人。津軽出身の文士の中では唯一の理解者として、太宰から信頼されていた。短篇『善蔵を思う』には「甲野嘉一君」として登場する。
- 坂口安吾 - 太宰の友人。太宰の死をめぐって『不良少年とキリスト』を書く。
- 佐藤春夫 - 太宰の師。太宰作品が芥川賞候補になったとき、薬物中毒時代の太宰から、賞を「何卒私に与えて下さい」と懇願する手紙を何通も送られた。けっきょく太宰が落選すると、太宰は短篇『創世記』を書いて佐藤を批判。これに対して佐藤は小説『芥川賞』を書き、太宰の非常識な行動を暴露し報復した。これ以降、太宰は佐藤と疎遠になったが、太宰の才能を認めていた佐藤はそのことを多少遺憾に思っていたという。
- 志賀直哉 - 長篇小説『津軽』で太宰から批判(名指しではないが)を受けたのを根に持ち、雑誌の座談会で中村眞一郎や佐々木基一を相手にして太宰を酷評。旧制学習院出身で貴族社会をよく知る志賀から、『斜陽』に登場する貴族の娘の言葉遣いが山出しの女中のようで閉口した、もう少し真面目にやったらよかろう云々とこき下ろされたことに逆上した太宰は、最晩年の連載評論『如是我聞』で志賀に反撃した。当時、文士が志賀直哉に逆らうということは事実上の文壇追放を意味していたと言われる。太宰の死後、1948年8月15日、志賀は「太宰治の死」と題する一文を草し、「私は太宰君が私に反感を持つてゐる事を知つてゐたから、自然、多少は悪意を持つた言葉になつた」と『津軽』の件で太宰に腹を立てていたことを認め、「太宰君が心身共に、それ程衰へてゐる人だといふ事を知つてゐれば、もう少し云ひようがあつたと、今は残念に思つてゐる」と、自分の対応が大人げなかったことを詫びている。
- 杉森久英 - 編集者時代に太宰と交際。杉森は太宰の3歳下だったが、遥か年下と勘違いした太宰が画集を出してミケランジェロの偉大さを教えようとしたため、太宰に教えられなくても知っているよと反感を持ったという。戦後には、たまたま『如是我聞』事件の発端となった座談会をセッティングしたため、太宰と志賀の反目をハラハラしながら見守っていた。
- 田中英光 - 太宰の弟子。元オリンピック選手。薬物中毒の果てに傷害事件を起こし、太宰の死の翌年、太宰の墓前で自殺。
- 檀一雄 - 太宰の親友。
- 堤重久 - 太宰が最も信頼していた弟子。のち京都産業大学名誉教授。『太宰治との七年間』の著書あり。
- 堤康久 - 堤重久の弟で、少年時代の日記から『正義と微笑』の題材を提供した。のち俳優となり、『ウルトラQ』『ウルトラマン』などに出演した。
- 津村信夫 - 太宰の友人。同時代の詩人の中では、津村の詩を太宰は誰よりも高く評価していた。
- 戸石泰一 - 太宰の弟子。
- 豊島与志雄 - 太宰の先輩作家。太宰の死後、葬儀委員長を務めた。
- 中井英夫 - 東大在学中、第14次『新思潮』の編集に関連して太宰と交際。あるとき、訪問先の太宰を「先生はよくもうすぐ死ぬ、と仰いますが、いつ本当に死ぬんですか」と問い詰めたことがある。太宰は「人間、そう簡単に死ねるもんじゃない」と答えたが、その一ヵ月後に自殺した。
- 中野嘉一 - 太宰の主治医。太宰をサイコパスと診断した。
- 中谷孝雄 - 太宰の友人で日本浪曼派の中心人物。
- 中野好夫 - 東大英文科教授。短篇「父」を「まことに面白く読めたが、翌る朝になったら何も残らぬ」と酷評し、太宰から連載評論『如是我聞』の中で「貪婪、淫乱、剛の者、これもまた大馬鹿先生の一人」と反撃された。太宰の死後、『文藝』1948年8月号の文芸時評「志賀直哉と太宰治」の中で「場所もあろうに、夫人の家の鼻の先から他の女と抱き合って浮び上るなどもはや醜態の極である」「太宰の生き方の如きはおよそよき社会を自から破壊する底の反社会エゴイズムにほかならない」と太宰の人生を指弾した。
- 中原中也 - 『青い花』の同人仲間。太宰に「お前は何の花が好きなんだい」と訊いたとき、太宰が泣き出しそうな顔で「モ、モ、ノ、ハ、ナ」と答えると、「だからお前は駄目なんだ」とこき下ろした。太宰の側でも中也の人間性を嫌っており、親友山岸外史に対して「ナメクジみたいにてらてらした奴で、とてもつきあえた代物じゃない」とこき下ろした。
- 中村地平 - 井伏門下で、太宰の兄弟弟子。
- 中村貞次郎
- 野原一夫 - 新潮社の担当編集者。『回想太宰治』を書く。
- 野平健一 - 新潮社の担当編集者。
- 平岡敏男 - 弘前高校時代の友人。のち毎日新聞社社長となる。
- 深田久弥 - 太宰の先輩作家。妻の北畠八穂が太宰と同郷だった縁がある。太宰は都新聞の入社試験に落ちて鎌倉で縊死を企てた時、深田の作風を慕って深田家を訪ねている。ただし当時の深田の代表作はほとんどが北畠の作品の焼き直しだったことが戦後に露見した。
- 鰭崎潤 - 太宰の友人で画家。太宰は鰭崎のアトリエを訪れて、自画像や静物画を描いたことがある。
- 別所直樹 - 太宰の弟子。
- 三島由紀夫 - 大学時代、周囲の太宰熱に誘われて『斜陽』を読んだが、この作品に登場する架空の貴族の言動があまりに現実の日本の貴族とかけ離れていることに旧制学習院出身者として大きな違和感を持った。『虚構の彷徨』『ダス・ゲマイネ』なども読んだが、やはり悪印象を持った。その後、矢代静一に連れられて太宰を囲む会に出席したとき「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」と放言した。三島によると、これに対して太宰は虚をつかれたような表情をして誰へ言うともなく「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と答えたというが、その場に居合わせた野原一夫によると「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と吐き捨てるように言って顔をそむけたという。三島はその後も約20年間にわたって繰り返し太宰に生理的嫌悪を表明し続けた。「太宰のもつてゐた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だつた。第一私はこの人の顔がきらひだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらひだ。第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらひだ」。田中英光の死についても「弱者(太宰)が強者(田中)をいじめ殺した」と揶揄的に述べていた。
- 棟方志功 - 太宰の同郷人。美術に対して鋭い感覚を持っていた太宰は、早くも旧制中学のころ、無名時代の棟方の作品を高く評価してこれを購入し、下宿先の主人に寄贈したことがある(『青森』)。太宰が作家になってからは、同郷人の寄り合いで同席した太宰の挨拶が小さいので「もう、いっぺん!」と要求し、太宰から怒鳴られたことがある(『善蔵を思う』)。
- 森鴎外 - 太宰は、「たち依(よ)らば大樹の陰、たとえば鴎外、森林太郎」という文を書いた。また本人の墓石は、希望したとおり、三鷹市禅林寺にある森鴎外の墓石と向き合う所(正確には斜め向かい)に立てられている。ちなみに、刻まれた「太宰治」の文字は、井伏鱒二の筆による。
- 保田與重郎 - 太宰の友人。
- 山岸外史 - 太宰の親友。
[編集] 参考文献
[編集] 太宰の伝記
- 猪瀬直樹著 『ピカレスク ~太宰治伝』 小学館 2000年 ISBN 4-09-394166-1 (監督:伊藤秀裕 太宰:河村隆一で映画化)
- 杉森久英著 『苦悩の旗手 太宰治』 文芸春秋 1967年
- 杉森久英著 『苦悩の旗手 太宰治』(角川文庫) 角川書店 1972年
- 杉森久英著 『苦悩の旗手 太宰治』(河出文庫) 河出書房新社 1983年 ISBN 4-309-40053-1
- 檀一雄著 『小説太宰治』 審美社 1992年 ISBN 4-7883-3065-2
- 檀一雄著 『小説太宰治』(岩波現代文庫 文芸 12) 岩波書店 2000年 ISBN 4-00-602012-0
- 野原一夫著 『回想太宰治』 新潮社 1980年 ISBN 4-10-335301-5
- 野原一夫著 『回想太宰治』(新潮文庫 草 303-1A) 新潮社 1983年 ISBN 4-10-130301-0
- 野原一夫著 『回想太宰治 新装版』 新潮社 1998年 ISBN 4-10-335308-2
- 山岸外史著 『人間太宰治』 (ちくま文庫) 筑摩書房 1989年 ISBN 4-480-02337-2
[編集] その他
- 吉田和明著 『太宰治』(フォー・ビギナーズ・シリーズ 45) 現代書館 1987年 ISBN 4-7684-0045-0
- 鎌田慧著 『津軽・斜陽の家 ~太宰治を生んだ「地主貴族」の光芒』 祥伝社 2000年 ISBN 4-396-63172-3
- 鎌田慧著 『津軽・斜陽の家 ~太宰治を生んだ「地主貴族」の光芒』(講談社文庫) 講談社 2003年 ISBN 4-06-273767-1