山田美妙
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山田 美妙(やまだ びみょう、明治元年7月8日(1868年8月25日) - 明治43年(1910年)10月24日)は、日本の小説家・詩人・評論家。本名は、山田武太郎。「美妙斎」「美妙子」「飛影」などの号も用いた。言文一致体および新体詩運動の先駆者として知られる。
神田柳町に旧南部藩士山田吉雄の長男として生まれる。
大学予備門に在学中、1885年に友人の石橋思案、尾崎紅葉、丸岡九華らと文学結社である硯友社を結成し、雑誌『我楽多文庫』を編集・刊行した。同誌に発表した「嘲戒小説天狗」は、言文一致体で書かれた小説として先駆的なものであった。しかし、紅葉とはその後疎遠となり、美妙が金港堂が刊行した雑誌『都の花』の主筆に迎えられてからは、硯友社と関係を絶つようになってしまった。
美妙の言文一致の作品は、『武蔵野』『胡蝶』のような時代小説が多かったので、地の文が「です・ます」調であるのに、会話は時代を反映させたかのように古めかしい言葉遣いであった。その意味では、いささか奇をてらったようにも見え、さらに『胡蝶』が掲載されたときの挿絵に、主人公胡蝶の裸体が描かれたので、その意味での注目をあつめてしまったことも、彼の作品を文学としてきちんと評価させなかったような趣があった。それが、美妙を文学の第一線からしりぞかせ、辞書の編纂をして糊口をしのぐような生活に追いこんだ一因でもある。晩年には、フィリピン独立の志士アギナルドの伝記も著した。