泉鏡花
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泉 鏡花(いずみ きょうか、1873年11月4日 - 1939年9月7日)は明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家である。本名、鏡太郎。金沢市下新町生れ。
尾崎紅葉に師事し、『夜行巡査』『外科室』で評価を得、『高野聖』で人気作家になる。江戸文芸の影響を深くうけた怪奇趣味と特有のロマンチズムで知られる。作『婦系図』『歌行燈』『夜叉ヶ池』など。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 上京まで
1873年(明治6年)11月4日、石川県金沢市下新町に生れる。本名:鏡太郎。父・清次(一名政光)は錺職の職人、母・鈴は葛野流大鼓方中田家の人で江戸の生れであった。幼少期における故郷金沢や母親の思い出は後年に至るまで鏡花の愛惜措くあたわざるものであり、折にふれて作品のなかに登場する。
1880年4月、市内養成小学校に入学。1883年12月に母が逝去し(享年29)、幼心につよい衝撃を受ける。翌年9月、金沢高等小学校に進学、翌年にはミッション・スクール北陸英和学校に転じ英語を学ぶが、1887年にはここも退学し、市内の私塾で英語などを講じた。専門学校(後の第四高等学校)進学をめざしての退学であったようだが、はやくに志を改めたらしい。
1889年4月、友人の下宿において尾崎紅葉の『色懺悔』を読んで大いに衝撃を受け、文学に志すようになる。また6月に富山旅行。この時期叔母などに小遣いをせびって貸本を濫読するとともに、あいかわらず私塾の講師のようなことをつとめていたが、雄心もだしがたく、11月に上京。紅葉の門下に入らんことを思う。
1891年10月19日、ついに牛込の紅葉宅を訪ね、快く入門を許されて、その日から尾崎家での書生生活をはじめる。翌年12月、金沢市の大火の際に一時帰郷した以外、鏡花は尾崎家にあって、原稿の整理や雑用にあたり、紅葉の信頼をかち得る。鏡花にとっての紅葉はもっとも敬愛する小説家、文学上の師であると同時に、無名時代の自分を書生として養ってくれた恩人であり、鏡花は終生このことを徳として旧師を慕いつづけた。ほとんど崇拝といってもいいその態度は文壇でも有名なものであった。
[編集] 『高野聖』まで
1893年5月、『京都日出新聞』に第一作『冠弥左衛門』を連載。紅葉の斡旋によるもので、紅葉は新聞社の不評を理由にした打切り要請を説得し、慣れない鏡花にアドバイスを与えながら、ついにこれを完結させた。さらに翌年に『加賀北陸新報』に同作が転売、再連載され(おそらく紅葉の口利きによるものと思われる)、ここで鏡花の作はやや好評を得た。同年さらに『活人形』(『探偵文庫』)、『金時計』(『少年文学』)を発表。8月には脚気療養のため一時帰郷し、その序に京都、北陸に遊んで後に帰京。このときの紀行をもとに『他人の妻』を執筆する。
1894年1月、父が逝去し、再び金沢に帰る。生活の術を失い、文筆をもって米塩の途とせんことを切に願う。『予備兵』『義血侠血』などを執筆し、紅葉の添削を経て『読売新聞』掲載。実用書の編纂などで家計を支えながら、翌年には初期の傑作『夜行巡査』(『文芸倶楽部』)と『外科室』(同前)を発表。『夜行巡査』は『青年文学』において田岡嶺雲の賛辞を得、このおかげで『外科室』は『文芸倶楽部』の巻頭に掲載されることになった。ここに鏡花の文壇における地歩は定まった。
この年6月、金沢に帰り、祖母を見舞う。脚気が完治せず体調は悪かったが、翌1896年にはさらに『海城発電』(『太陽』)、『琵琶伝』(『国民の友』)、『化銀杏』(『青年小説』)を発表し、賛否両論を受けた。5月には金沢の祖母を引きとって一家を構え、旺盛に執筆をつづけ、ついに10月には『読売新聞』に『照葉狂言』の連載をはじめる。1897年に『化鳥』『笈ずる草紙』、1898年に『辰巳巷談』など。このころ酒の味を覚え、盛んに遊び歩く。1899年には『湯島詣』を春陽堂から書きおろし刊行。1900年『高野聖』(『新小説』)、1901年『袖屏風』(同前)、1902年『起誓文』(同前)などの代表作を世に問う。
[編集] 『歌行燈』前後
1902年、胃腸病のため逗子に静養。吉田賢龍の紹介によって知った伊藤すずが台所を手伝いにくる。翌1903年5月、二人は牛込神楽坂に同棲をはじめる。この年10月30日、尾崎紅葉が急逝し、強い衝撃を受ける。病床にあってなお紅葉は愛弟子鏡花の行末を案じ、原稿を求めてはこれに添削を加えつづけたという。鏡花は硯友社同人とともに葬儀を取りしきった。
11月、『国民新聞』に『風流線』を連載しはじめる。1904年、『紅雪録』正続。1905年、『銀短冊』(『文芸倶楽部』)、『瓔珞品』(『新小説』)。1906年、『春昼』(同前)。同年には祖母を喪い、胃腸病はますます悪化してほとんど病床にあった。翌1907年1月、『やまと新聞』において『婦系図』の連載開始。1908年、『草迷宮』を春陽堂より刊行。1909年、『白鷺』(『東京朝日新聞』)。1910年、『歌行燈』、『三味線堀』(『三田文学』)。『三味線堀』掲載にあたっては鏡花を評価していた永井荷風の好意を受ける。この年から『袖珍本鏡花集』(五巻)の発行がはじまり、すでにその文名は確立。人気作家の一人となっていた。
1911年、『銀鈴集』を隆文館より刊行。1912年、『三人の盲の話』(『中央公論』にて発表)、1913年、『印度更紗』(同前)。大正期には戯曲にも志を持ち、1913年には『夜叉ヶ池』(『演芸倶楽部』)、『海神別荘』(『中央公論』)を発表。1914年、『日本橋』を千章館より刊行し、ここではじめて装画の小村雪岱とのコンビを組む。1915年、『夕顔』(『三田文学』)。『鏡花選集』と『遊里集』を春陽堂より刊行。1916年、『萩薄内証話』。1917年、『天守物語』(『新小説』)。1919年、『由縁の女』を『婦人画報』に連載開始。1920年1月、『伯爵の釵』(『婦女界』)。このころ映画に興味を持ち、谷崎潤一郎や芥川龍之介と相知る。1922年、『身延の鶯』を『東京日日新聞』連載開始。1922年、『露宿』『十六夜』。1924年、『眉かくしの霊』(『苦楽』)。
[編集] 晩年
1925年、改造社より『番町夜講』刊行。また春陽堂より『鏡花全集』刊行開始(1927年に完結)。1927年、『多神教』(『文藝春秋』)。この年8月、『東京日日新聞』と『大阪日日新聞』の招待で十和田湖、秋田などを旅行。1928年、肺炎に罹患し、予後静養のために修善寺を訪れる。この年、各社の文学全集(所謂円本)より鏡花集が刊行される。1929年、能登半島に旅行。この前後、紀行文の類が多い。1930年、『木の子説法』(『文藝春秋』)。1931年、『貝の穴に河童の居る事』(『古東多万』)。1932年、『菊あはせ』(『文藝春秋』)。1934年、『斧琴菊』(『中央公論』)。1936年、戯曲『お忍び』(『中央公論』)。1937年、晩年の大作『薄紅梅』を『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』に連載する。『雪柳』を『中央公論』に発表。帝国芸術院会員に任ぜられる。1938年、体調悪く、文筆生活に入ってはじめて一作も作品を公表しなかった。
1939年7月、『縷紅新草』を『中央公論』に発表するも、この月下旬より病床に臥し、9月7日午前2時45分、癌性肺腫瘍のため逝去。10日、芝青松寺にて葬儀が行われ、雑司ヶ谷墓地に埋葬。戒名は幽幻院鏡花日彩居士。佐藤春夫の撰に係る。
[編集] 逸話
- 母鈴は葛野流大鼓方中田万三郎の娘で、その兄(次男)金太郎は請われて宝生流シテ方の松本家に養子入りした。すなわち宝生九郎の高弟として知られた能楽師松本金太郎がこれで、その子松本長は鏡花の従兄にあたる。長の長男は俳人松本たかし、次男は松本恵雄(人間国宝)。
- 母は鏡花にとって終生追慕の対象であった。12歳で松任の「成の摩耶祠」を訪れたとき、摩耶夫人像を母の面影に重ねて以来、彼は死ぬまで摩耶夫人を信仰していた。
- デビュー当時、ペンネームに「畠芋之助(はたけいものすけ)」を用いたことがある。
- 師である尾崎紅葉を尊崇することきわめてあつく、没後は自宅の仏壇にその遺影を飾って毎日の礼拝を怠らなかった。葬儀で門弟代表として弔辞を読んだのも鏡花である。
- 鏡花がほとんど旧師紅葉を神格化していたのに対し、同門の徳田秋声は師とのあいだに距離を置いたところがあったため、二人の仲はよくなかった。しかし後年、鏡花の弟が秋声の持っていたアパートで没して以来、二人は和解し、交流を持つようになった。
- 尾崎家の書生時代、石橋忍月のところへ使いに行った際に柿をもらい、紅葉への使いものと知らずに食べてしまって、後からいたく恐縮したことがあった。また大福餅を買ってこいといわれて、菓子屋に大福を売っているとは思ってもみなかった鏡花は、わざわざ遠くの露天へ行って屋台のやすい大福を買ってき、紅葉に笑われたことがある。
- 家紋は笹龍胆だが、紅葉にあやかって源氏香の紅葉賀を常用していた。
- 妻・すずはもともと神楽坂に桃太郎という名で出ていた芸妓で、師紅葉は二人の関係を絶対にゆるさず、「女を捨てるか、師匠を捨てるか」とまで鏡花に迫った。二人はお互いを想いながらも泣く泣く離別を決意し、この体験が『婦系図』の湯島天神の場の下敷きになっているという。紅葉の没後、鏡花はすずと結婚し、夫婦仲ははなはだよかった。終生互いの名を彫った腕輪を身辺から離さなかったという。
- 鏡花は有名な潔癖症で、このことは文壇にひろく知られていた。食事は家で夫人の作るものしか口にせず、もらいものの菓子をアルコール・ランプで炙って食べたり、酒などはぐらぐらと煮立つまで燗をつけなければ絶対に飲まなかった(これを文壇で「泉燗」と称した)。手づかみでものを食べるときは、つかんでいた部分は必ず残して捨てた。手元にいつでもちんちんと鳴る鉄瓶があって煮沸消毒できるようになっていないと不安がったという。
- 潔癖症のせいで「豆腐」の用字を嫌い、かならず「豆府」と書いた。しかしそのわりに豆腐そのものは好きでよく食べたし、貧乏時代はおからでもっぱら飢えをしのいだ。
- 谷崎潤一郎、吉井勇と鳥鍋を囲んだとき、無頓着な谷崎は「半煮えくらいがうまい」といって次々に鳥を引きあげてしまうので、火の通った肉しかこわくて食えない鏡花は「ここからは私の領分だから手を出すな」と鍋に線を引いたという。
- 中華料理にさそわれて知らずに蛙の揚げものを食べてしまい、「とんだことをした」とあわてて宝丹を一袋ぜんぶ飲んだことがある。生ものはむろんだが、海老、蝦蛄、蛸のようなグロテスクなかたちをしたものも絶対に口にしなかった。
- お辞儀をするとき、畳に触るのは汚いと手の甲を畳につけていた。ただし信仰心はきわめてあつく寺社仏閣の前ではかならず土下座したと伝えられる。
- 狂犬病をおそれて犬ぎらいだった。蛇もきらいだったそうだが、作品にはよく登場する。
- 酉年生れの鏡花は向かい干支の兎にちなむものをコレクションするのが趣味だった(本人は母親に兎のものを大切にせよと教わったとしるしている)。マフラーにまで兎柄を用いた鏡花は収集品が大の御自慢で『東京日日新聞』の「御自慢拝見」という欄に登場したこともある。
- 文字の書かれたものを大切にすることはなはだしく、「御はし」と書いてある箸袋程度でも大事にしまっておろそかにはしなかった。人に字を教えるのに畳の上などに空で書いたあとはかならず手で掻き消すしぐさをしないと承知しなかったという。几帳面で原稿などは校正ののちかならず手元に戻して自分で保管した。原稿の大半は生涯筆で書きつづけた。
- 鏡花の作品は生涯総ルビで発表されつづけた。
- 着物の描写が丁寧で細密なことは鏡花作品の特徴だが、これは三越婦人部の発行していた『時好』というカタログ雑誌を知りあい女の人からわけてもらい、それを見て研究したものだという。鏡花はこれを紅葉に教えられた取材の方法であるといっている。
- 著書の装丁、挿絵の大半は鏑木清方か小村雪岱によるもので、ことに雪岱はその号を鏡花が名づけて以来の名コンビだった。色の好みもはっきりしていて、紺のような濃い色を嫌った。
- 里見弴は晩年の鏡花と家が近かったために始終行き来し、そのうち鏡花に弟子あつかいされるようになってしまった。いわば「おしかけ師匠」だが、人柄が好ましかったので特に異議はとなえなかったらしい。
- 幽幻院鏡花日彩居士という戒名は、弔問に訪れた文人たちがおのおの撰したなかから佐藤春夫のものが選ばれたのだという。
- 金沢市の主催している泉鏡花文学賞の正賞は「八稜鏡」。鏡花好みの兎があしらわれている。
[編集] 代表作品
- ちなみに『新・男はつらいよ』第4作(昭和45年)の中でおいちゃん(森川信)が寅次郎(渥美清)に行って聴かせる場面が出てくる。若い頃この小説を読んで涙したおいちゃんの台詞回しはまさに劇中の熱演と言えるだろう。この二人のやり取りを見て父親の死でふさぎこんでいたマドンナ春子先生(栗原小巻)に笑顔が戻るのである。
- 歌行燈
- 眉かくしの霊
- 天守物語
- 貝の穴に河童の居る事
- 草迷宮