欽ドン!
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欽ドン!(きんどん)とは、かつてニッポン放送で放送されたラジオ番組『欽ちゃんのドンといってみよう!』、フジテレビ系列で放送された萩本欽一司会のバラエティ番組『欽ちゃんのドンとやってみよう!』の略称およびその続編シリーズの総称である。以下、その両方について記述する。
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[編集] ラジオ 欽ちゃんのドンといってみよう!
コント55号での活動に限界を感じつつあった萩本が、新たな笑いの可能性を探ろうと始めたリスナー参加型のラジオ番組である。専門作家や芸人ではない一般のリスナーからテーマに沿ったコントを集め、それをラジオで流してよいものを選ぶというスタイルであった。スポンサーは集英社である。
放送は平日夜の帯枠、1975年4月以降は「大入りダイヤルまだ宵の口」内のコーナーとして、概ね21時40分~22時頃の間に10分間放送され、曜日ごとにテーマが決まっていた。代表的なものとしては、
- レコード大作戦 - 有名な歌の歌詞を本来とは違うシチュエーションで会話に組み込む。
- ああカン違い - 会話形式のシチューションコント。バリエーションとして「夫婦の会話」「母と子の会話」
- ヤジ将軍 - スポーツの実況中という想定で、内容のずれたヤジを飛ばす
毎回オープニングには「キャッチフレーズ」と称するジングル、エンディングには「今日の一言」という教訓のパロディ(五七五のもの)がやはりリスナー投稿から選ばれて読まれていた。(エンディングには没ハガキのリスナー名を読み上げるコーナーもあった)
コントにはおもしろさによって、スポンサーである集英社の雑誌名にちなんだ賞が贈られた。
パーソナリティは萩本と女性のアシスタントであった。ただし、収録に来ていたパジャマ党のメンバーの声が入ることもあった。パジャマ党の存在はリスナーにも知られるようになり、コントのネタとしても(内輪ネタ的に)使われたりした。萩本が企図した「既成の作家や芸人とは違った笑いの発掘」という狙いは当たり、それをもとに萩本はこれをテレビ企画とすることを構想するに至る。
テレビの「欽ちゃんのドンとやってみよう!」がヒットした後もラジオの欽ドンは続いたが、1978年12月に行われた「最高のコントに10万円を出す」という「欽ドングランプリ」の企画を花道として、1979年3月に7年間の放送を終了した。
- 放送ネット局(時差ネット含)
[編集] 欽ちゃんのドンとやってみよう!
1975年4月5日~1980年3月、毎週土曜19時30分~20時54分に放送
1970年代中期、視聴率で劣勢続きだったフジテレビが、高視聴率を誇るザ・ドリフターズのお化け番組「8時だョ!全員集合」(TBSテレビ)に対抗し、欽ちゃんこと萩本欽一を起用した番組で土曜夜8時枠で挑戦。
フジテレビ「欽ドン!」の枠は以前、坂上二郎とのコンビによる「コント55号の世界は笑う」を放送。55号初のゴールデンタイム番組として視聴率30%以上を誇るも、後発の「8時だョ!~」の追い込みによって結果的には主役の座を明渡すこととなった。よって同時間帯においての「欽ドン!」のスタートは、萩本個人としても初めての企画・主演番組であったこともあり、相当の気合を込めて制作された。
また、第1回放送後、スタッフの電話によって「17.1%」という初回にしてはいきなり高視聴率の結果を知った萩本は受話器を握り締め涙したと伝えられる。綿密に計算されたコント中心の『8時だョ!』と異なり、「欽ドン!」は視聴者からのハガキ投稿を中心に得意のアドリブ主体によって番組は構成。
NGでも面白がって放送してしまう手法は、後の土8枠を彩る「オレたちひょうきん族」への礎となり(欽ドンを担当したディレクター・三宅恵介をはじめスタッフ、作家陣も多数「ひょうきん族」に参加)、以降同枠に続く「めちゃ×2イケてるッ!」をはじめとするフジのバラエティ番組の伝統的手法となる。番組で採用されたハガキには面白かった順にバカウケ/ややウケ/ドッチラケのランク付けをされていた。これが「欽ドン!」の代名詞『良い・普通・悪い』の歴史のはじまりであった。
- 本番組の放送期間中の1977年1月~1979年1月に同じフジテレビ系で同じ土曜日に放送されていた「ヤッターマン」に登場するコックピットメカ「ちんちろりんのドッチラケ」は、言うまでもなく本番組に由来している。
この番組で、萩本欽一は、前川清とコント54号としてコンビを組んだ。もともとは上記ラジオ番組のヒットから企画を起こし、1974年秋にテレビ化トライアル番組「欽ちゃんのドンといってみよう!ドバドバ60分!」を放送。
しかしこの番組は視聴率は一桁と振るわず惨憺たる結果を生んだが、意外にも業界内での好評を得たことによって、翌1975年の春よりレギュラー化された(当初、初期の正式タイトルは『萩本欽一ショー・欽ちゃんのドンとやってみよう!』)。尚、1977年4月~8月と1978年4月~8月までは萩本の企画構想期間として同番組は一旦中断。前者は伊東四朗らをメインキャストとした、同じく三宅恵介ディレクターの「がんばれ!ピンチヒッターショー」を、後者は単発番組「土曜グランドスペシャル」をそれぞれ放送していた。
開始当時は「8時だョ!全員集合」が荒井注のドリフターズ脱退などで低迷期にあったため、そこそこの視聴率を稼いでいたが、「8時だョ!全員集合」が人気を盛り返してきたことと、7時半からの30分も「クイズダービー」が力をつけており、さらに末期にはあばれはっちゃくシリーズも登場したことから視聴率が下がり、1980年3月に終了。以降、フジテレビの土曜夜7時半は長い冬の時代に入る(その際、夜7時半にアニメ枠を、夜8時に1時間のドラマ・バラエティ枠【「土曜ナナハン学園危機一髪」(これのみ90分番組)→「ピーマン白書」→「小さな追跡者」→「オレたちひょうきん族」】をそれぞれ当てられた)。オレたちひょうきん族は土曜8時戦争を制したが、その前の30分は惨憺たる有様で、1985年10月に始まった「ハイスクール!奇面組」までの5年半はどの番組も半年以内で打ち切られている。「クイズダービー」と「あばれはっちゃく」の両番組が高視聴率を出していた谷間で低迷することになった。
[編集] 欽ドン!良い子悪い子普通の子
1981年4月6日~1983年9月12日、毎週月曜21時00分~21時54分に放送。
よくある家庭をベースにしたセットで、前番組の人気コーナーであった『母ちゃんと子供の会話』と「三段落ち」を組み合わせたような、父親役の欽ちゃんに息子の「フツオ」「ヨシオ」「ワルオ」との会話で笑いをとった。会話は視聴者からの投稿がベースであった。
前身となった「欽ちゃんのドンとやってみよう!」が一応の成果を収めて終了し、次の段階を伺うべく、再びラジオの世界に戻った萩本が、ニッポン放送で開始した「欽ちゃんのここからトコトン!」内で再び聴取者からのハガキ投稿コーナーを開始。ある日の放送で、ラジオのスタッフにいた若手作家によって放送台本の片隅に、その週のテーマとして何気なく書かれた「良い子悪い子普通の子」という文字を見て、萩本は「コレだ!」と次への構想をひらめく。これが人気番組、最初の第一歩であった。
早速企画書にまとめあげた萩本は、フジテレビ以外の各局を駆け巡った。しかし「放送枠がない」「次の改編に間に合わない」という理由で却下されてしまい、最後にかけあったのがフジテレビであった。
当時、萩本はフジで「欽ちゃんの9時テレビ」(1980年10月13日~1981年 月曜夜9時放送)というバラエティ番組の司会を担当し、「どか~ん!のど自慢」のコーナーに多少の人気が集まっていたものの、視聴率的には不振であったことから番組の降板を申し出ていたところであった。しかし局の編成担当者は「元々、フジの月曜夜9時は、開局以来20年間不振の枠なので数字のことは気にせずに。それよりも月9枠は、向こう10年は欽ちゃんに任せたから」と、萩本にとっては何物にも変え難い信頼の言葉を得ていたこともあって、一瞬のひらめきから「スグにでも番組化できる」と自信を持った萩本と、1981年の春改編にも間に合うかというフジの具体的思惑が一致したことから番組は開始された。
後に最高視聴率30%以上を誇る人気番組に成長した「欽ドン!」を見て、以前に企画書を提出されていたフジ以外の放送局は、そのチャンスを逸した意味で苦虫を噛み潰しながらその人気ぶりを注目したといわれている。
- フツオ(普通の子) … 長江健次。キャラクターは、どこにでもいる普通の高校生。
- ヨシオ(良い子) … 山口良一。キャラクターは、メガネに青の学ラン。
- ワルオ(悪い子) … 西山浩司。キャラクターは、リーゼント頭の不良少年。
三人の息子役は一般オーディションで選出された。オーディションが終了した時点では、普通の子に山口良一、良い子に西山浩司が選ばれており、悪い子は該当者無しで、長江健次はオーディションに落選していた。悪い子の配役が決まらず困っていたスタッフがオーディション会場に居残っている長江を見つけて、配役を変えて試したところしっくりきたため、上記の配役に決定した、というエピソードがある。
フツオ、ヨシオ、ワルオの3人がイモ欽トリオを結成、『ハイスクールララバイ』(フォーライフ・レコード)でレコードデビュー、大ヒットする。当時、レコードの歌詞カードに記載されていたプロフィールで、山口良一の生年月日が、他の二人より年上だったことから『不明』とされていた。
フツオ役は途中から、後藤正に交代、のちに、フッくん(沢村雅彦)、ツッくん(大野豊)、オッくん(境田晃一)の3人になった。(後にオッくんのみに)
良い妻、悪い妻、普通の妻では、「よしこ」「わるこ」「ふつこ」の三役を中原理恵が演じた。だが、当時中原が不倫騒動を起こし、萩本欽一が激怒したため途中降板した。
後に新キャラクターとして、OL3人組が登場、『よせなべトリオ』としてデビュー。歌番組に出演することもあったが、松居抜きのときが多かった(松居はデビュー当時中学生で、18歳未満の者の21時以降の就業を禁じた、労働基準法の従来規定に抵触していたため)。
番組の後半は萩本が白衣姿の博士、レギュラーメンバーが門下生に扮して、テーマ自由の「良い、悪い、普通」を発表する「萩本博士の研究レポート発表会」のコーナー、「日記」のコーナーが放送された。また、萩本と車だん吉が名作映画の一場面を再現して笑いをとるコントが随時挿入された。
番組での各コーナーで披露されるネタは一般からハガキで募集し、採用された人には番組からオリジナルトレーナーがプレゼントされた。オリジナルトレーナーは基本的に改変期ごとにデザインが変わり、また、欽ドン賞獲得者には2枚贈られるというルールの存在もあり、最多採用数を誇った視聴者がそれらをツギハギしてクッションカバーを作ったとのエピソードが番組で紹介されたこともある。
この時期「欽ドン!」と「欽ちゃんのどこまでやるの!?」(テレビ朝日系)、さらに「欽ちゃんの週刊欽曜日」(TBSテレビ系)とヒット番組をかかえ、その合計数字から欽ちゃんは「視聴率100%男」の異名を取った。
[編集] 欽ドン!良い子悪い子普通の子おまけの子
1983年9月19日~1985年5月6日、毎週月曜21時00分~21時54分に放送。
これまでのメンバーに『おまけの子』ゆみこ(遠藤由美子演ずる)が加わる。
- フツオ(普通の子) …境田晃一
- ヨシオ(良い子) … 山口良一
- ワルオ(悪い子) … 西山浩司
- ゆみこ(おまけの子) … 遠藤由美子
余談であるが、「おまけの子」役となった遠藤には、「おまけの子」のオーディション当日にトイレを我慢しながらオーディション会場へ駆け込んだ際、こともあろうに審査委員長であった萩本に向かっていきなり「トイレはどこですか?」と尋ね、その度胸を萩本が気に入ったため採用された、というエピソードがある。
新キャラクターとして、先生3人組が登場。後に『おまけの教頭』も登場。(~1984年12月10日)
- 普川先生(普通の先生) … 宮田恭男
- 良川先生(良い先生) … 柳葉敏郎。トレンディ俳優として活躍する彼の初期の代表作。
- 悪川先生(悪い先生) … 武野功雄
- ジェームス山口(おまけの教頭)… 山口良一
後に先生に代わり刑事となる。(1984年12月17日~)
- ふつた(普通の刑事) … 柳葉敏郎
- よした(良い刑事) … 関根勤
- わるた(悪い刑事) … 武野功雄
- チャーリー・チャン(おまけの刑事) … 山口良一
良いお婆ちゃん悪いお婆ちゃん普通のお婆ちゃんおまけの妻では、山口良一がお婆ちゃん三役を演じ、おまけの妻を志穂美悦子、お爺ちゃんを西山浩司が演じた。
下宿人(~1984年12月10日)
娘(1984年12月17日)
- ふつえ … 坂上とし恵
- よしえ … 梶三和子
- わるえ … 四季穂
(→BASEBALL L!VEの項を参照)
- 1985年に萩本の休養により1985年3月25日で本編が打ち切られ、残りの回はコントの内容などを一部ダイジェスト用に編集した総集編を埋めた。
- また、萩本の休養の間の月曜夜9時枠は宇崎竜童、所ジョージ出演のバラエティ番組「夜はタマたま男だけ!!」(1985年5月13日~同年9月23日)を埋めた。
[編集] マイルド欽ドン!
1985年10月7日~1986年4月28日、毎週月曜21時00分~21時54分に放送。
基本コンセプトは同じで、旅館編(宮川大助・花子が出演)などが放送された。
[編集] 欽ドン!お友達テレビ
1986年5月5日~10月27日、毎週月曜21時00分~21時54分に放送。
シブがき隊がレギュラーに参加。ステージ上でのコントに加え、観客を入れずに収録する形式のコント(教師編など)が加えられた。
[編集] 欽ドン!ハッケヨーイ笑った!
1986年11月3日~1987年2月9日、毎週月曜21時00分~21時54分に放送。
前半は電話による視聴者参加ネタコーナー、後半は視聴者からの投稿ハガキやゲストが紙相撲を持参し、それを元にデザインした着ぐるみを関根勤、ジミー大西、当時まだ大阪でも大ブレイクする前のダウンタウンが着て、等身大の紙相撲となって対戦する、という構成で放送された。審判部長をジミーの師匠のぼんちおさむが務めた。また、放送開始2カ月前の全国高等学校クイズ選手権でボケ解答を連発して一躍有名になった相馬高校の生徒がレギュラー出演者となったが、ほとんど発言の機会はなかった。 欽ドン!史上最も大幅なリニューアルとなったが、視聴率は不振を極め(後に島田紳助がダウンタウンに向かって「ハッケヨーイ終わった」と揶揄する発言があったほどである)、わずか3ヶ月で終了した。
なお、エンディングでスタッフ紹介のクレジットタイトルが流れる時は、縦書きで画面下を左から右へ流れ、スタッフの名前も本名に「 - 山」や「 - 富士」などが付け加えられるなど四股名風のものになっており、オープニングとエンディングでのスポンサー紹介の時には、そのスポンサーの名称が入った大相撲の懸賞幕のような幕を掲げて土俵のセットの周りを回る(テレビ画面ではそのスポンサー名のアップになる)というようになっていた。
[編集] 欽ドン!スペシャル
1987年2月16日~3月23日、毎週月曜21時00分~21時54分に放送。
後枠が現在も続くドラマ枠に決まった為、「欽ドン!シリーズ」最末期に放送された。
[編集] その他
欽ドン!、欽ちゃんのどこまでやるの!?、欽ちゃんの週刊欽曜日が放送されていた1983年には、フジテレビ、テレビ朝日、TBS各局が垣根を越えて、春・秋・年末の改変期に持ち回りで、3番組が合体した欽ちゃんファミリー総出演の特番を放送された。なお春を担当したフジテレビは「春の欽ちゃん祭り・欽ドン!欽どこ!欽曜日!3つまとめてドン!」。
1994年に「新春オールスター 欽ドン! 同窓会スペシャル」が放送された。
[編集] 書籍化
最初のテレビ「欽ちゃんのドンとやってみよう!」のヒットを受け、ラジオの「欽ちゃんのドンといってみよう!」のものも合わせたコント集が集英社から刊行され、これもベストセラーとなった。(続編がNo.3まで出た)
[編集] スタッフ
- 構成 : 大岩賞介、詩村博史、永井準、鈴木しゅんじ、岩城未知男、大倉利晴、鶴間政行、益子一男、村松利史、高橋等、高橋秀樹、石崎収、笠博勝、佐藤宗示、浦沢義雄
- 音楽 : あかのたちお
- 演奏 : 新音楽協会
- コーラス : EVE
- ディレクター : 竹島達修、三宅恵介
- プロデューサー : 常田久仁子
- 技術協力 : ニユーテレス
[編集] 放映ネット局(時差ネット局含)
[編集] 番組遍歴
フジテレビ系 土曜19:30~20:54 | ||
---|---|---|
前番組 | 欽ちゃんのドンとやってみよう! (第1期) |
次番組 |
オールスター90分 | がんばれ!ピンチヒッターショー | |
フジテレビ系 土曜19:30~20:54 | ||
がんばれ!ピンチヒッターショー | 欽ちゃんのドンとやってみよう! (第2期) |
土曜グランドスペシャル |
フジテレビ系 土曜19:30~20:54 | ||
土曜グランドスペシャル | 欽ちゃんのドンとやってみよう! (第3期) |
土曜ナナハン学園危機一髪 |
フジテレビ系 月曜21:00~21:54 | ||
欽ちゃんの9時テレビ | 欽ドン!良い子悪い子普通の子 ↓ 欽ドン!良い子悪い子普通の子おまけの子 |
夜はタマたま男だけ!! |
フジテレビ系 月曜21:00~21:54 | ||
夜はタマたま男だけ!! | マイルド欽ドン! ↓ 欽ドン!お友達テレビ ↓ 欽ドン!ハッケヨーイ笑った! ↓ 欽ドン!スペシャル |
アナウンサーぷっつん物語 |
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