ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ
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ムハンマド(محمد Muhammad 570年頃 - 632年)は、イスラーム教の創始者。イスラーム教では、モーセ、イエス・キリストその他に続く、最後にして最高の預言者とみなされている。
全名はムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ・イブン=アブドゥルムッタリブ(محمد بن عبد الله بن عبد المطلب Muhammad ibn `abdullah ibn `abd al-MuTTalib)という。かつて日本では西欧での表記(Mohammed, Mohametなど)やトルコ語での表記(Mehmet、Muhammet)にしたがって、モハメッド、マホメットなどと呼ばれることが多かったが、近年では標準アラビア語(フスハー)の発音に近い「ムハンマド」に表記・発音がされる傾向がある。字義は「より誉め讃えられるべき人」。
目次 |
[編集] 生涯
ムハンマドはアラビア半島の商業都市マッカ(メッカ)で、クライシュ族のハーシム家に生まれた。父アブド・アッラーフ(アブドゥッラーフ)は彼の誕生する数ヶ月前に死に、母アーミナもムハンマドが幼い頃に没したため、ムハンマドは祖父アブドゥルムッタリブと伯父アブー=ターリブの庇護によって成長した。
成長後は一族の者たちと同じように商人となり、シリアへの隊商交易に参加。25歳の頃、富裕な女商人ハディージャに認められ、15歳年長の寡婦であった彼女と結婚した。ムハンマドはハディージャとの間に2男4女をもうけるが、男子は2人とも成人せずに死んだ。
610年頃、悩みを抱いてマッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想にふけっていたムハンマドは、そこで大天使ジブリールに出会い、唯一神(アッラーフ)の啓示(のちにクルアーンにまとめられるもの)を受けたとされる。その後も啓示は次々とムハンマドに下され、預言者としての自覚に目覚めたムハンマドは、近親の者たちに彼に下った啓示の教え、すなわちイスラーム教を説き始めた。最初に入信したのは妻のハディージャで、従兄弟のアリーや友人のアブー=バクルがそれに続いた。
613年頃から、ムハンマドは公然とマッカの人々に教えを説き始めるが、アラビア人伝統の多神教の聖地でもあったマッカを支配する有力市民たちは、ムハンマドとその信徒(ムスリム)たちに激しい迫害を加えた。伯父アブー=ターリブはハーシム家を代表してムハンマドを保護しつづけたが、619年頃亡くなり、同じ頃妻ハディージャが亡くなったので、ムハンマドはマッカでの布教に限界を感じるようになった。
622年、ムハンマドと彼の信徒たちは、ヤスリブ(のちのマディーナ(メディナ))の住民からアラブ部族間の調停者として招かれたのをきっかけにマッカを脱出し、ヤスリブに移住した。この事件をヒジュラ(聖遷)という。ヤスリブでは、マッカからの移住者(ムハージルーン)とヤスリブの入信者(アンサール)を結合しムハンマドを長とするイスラーム共同体(ウンマ)を結成し、彼の教えやウンマの勢力増大に反発するユダヤ教徒などを排除しながらイスラーム共同体の基礎を築いた。
ムハンマド率いるイスラーム共同体は周辺のベドウィン(アラブ遊牧民)の諸部族と同盟を結んだり、マッカの隊商交易を妨害したりしながら急速に勢力を拡大し、624年のバドルの戦い、625年のウフドの戦い、627年のハンダクの戦いに相次いで勝利した。ムハンマドは628年のフダイビーヤの和議を経て630年についにマッカを征服、これによりマッカ市民はムハンマドの正しさを認めてイスラームに入信し、カアバ神殿に祭られる偶像 (複数) はムハンマド自らの手で破壊された。
ムハンマドはマッカ攻略後もマディーナに住み、イスラーム共同体の確立に努めた。632年、マッカへの大巡礼(ハッジ)を終えてまもなくムハンマドはマディーナの自宅で没し、この地に葬られた。彼の自宅跡と墓の場所はマディーナの預言者のモスクになっている。
イスラム教では男性は4人の妻を同時に持つことが許されているが、預言者であるムハンマドは預言によって12人の妻を持つことが許されている。
[編集] 家族と子孫
ムハンマドはイスラーム共同体の有力者の間の結束を強めるため多くの夫人を持ったが、アブー・バクルの娘アーイシャが最愛の妻として知られる。賢妻として知られるハディージャとの間に生まれた男子は早逝したが、4人の娘のうちムハンマドの従兄弟であるアリーと結婚したファーティマから、ハサン、フサインの2人の孫が生まれた。この2人を通じてムハンマドの子孫は現在まで数多くの家系に分かれて存続しており、サイイドの称号で呼ばれている。
サイイドはイスラーム世界において非常に敬意を払われており、スーフィー(イスラーム神秘主義者)やイスラーム法学者のような、民衆の尊敬を受ける社会的地位にあるサイイドも多い。ヨルダンやモロッコの王家もサイイドの家系である。
[編集] イスラーム教の教義におけるムハンマド
イスラーム教の教義においては、ムハンマドは唯一神(アッラーフ)からイスラム共同体に対して遣わされた「神の使徒」とされ、最後にして最大の預言者と位置づけられている。「ムハンマドは神の使徒である」という宣誓は、シャハーダ(信仰告白)として、信徒の義務に位置付けられる。
スンナ派では、彼に使わされた啓示を集成したクルアーンによってのみ、人々は正しい神の教えを知ることができると考える。最良の預言者であるムハンマドの言行(スンナ)には神の意志が反映されているから、その伝承の記録(ハディース)も神の意思を窺い知る手がかりとして用いることができるとされる。
しかし、このように重要な人物であってもムハンマドはあくまで神性をもたない人間であるから、崇拝の対象としてはならず、図像化することも許されない。
[編集] ムスリムの民間信仰におけるムハンマド
ムスリムの民衆にもムハンマドは非常に敬愛され、一種の聖者と見られている。ヒジュラ暦でムハンマドの誕生日とされるラビー・アル=アウワル月の12日は、預言者生誕祭として大々的に祝われる。
ムスリムの聖者崇拝においては聖者を神の特別の恩寵を与えられた者と考え、聖者に近づくことで神の恩寵の余燼をこうむることが期待されるが、なかでもムハンマドは神に対して必ず聞き届けられる特別な請願をする権利を与えられていると考えられており、人々は宗教的な罪の許しをムハンマドに請えば、終末の日における神の裁きでも、ムハンマドのとりなしを受けることができると信じられている。かつてはマッカ、メディナなどのムハンマドの生涯にゆかりの場所は最高の聖者としてのムハンマドに近づくための聖地のようになっていたが、聖者崇拝のような民間信仰をイスラームの教えから逸脱した行為とみる厳格なワッハーブ派を奉じるサウジアラビアが当地を支配する現在では、聖者崇拝的要素は廃されている。
[編集] イスラーム神秘主義におけるムハンマド
内面を重んじるイスラーム神秘主義(スーフィズム)の流れにおいては、ムハンマドは「ムハンマドの光(ヌール・ムハンマディー)」と呼ばれる、神によって人類が創造される以前から存在した「光」として、神にまず最初に創造された被造物を受け継いで人間として生まれ出でたのだ、と観念された。
このようなムハンマド観は、イブン=アラビーの系統を引く神秘主義思想によって、ムハンマドという存在は、人間としてこの世に生まれた普通の「人間としてのムハンマド」と、それ以前から存在していた「『真理』あるいは『宇宙の潜在原理』としてのムハンマド」、すなわち「ムハンマドの本質(ハキーカ・ムハンマディーヤ、ムハンマド的真実在)」とに分かれていたのだと見なされるようになった。このようなムハンマド観には仏教における仏身論との類似が指摘できる。
また、スーフィズムでは神との合一(ファナー)を成し遂げたスーフィーの聖人たちは、師資相承されてきたムハンマドの本質性、精神を継承する者として捉えられる。この点でイスラーム神秘主義におけるムハンマドは禅における釈迦如来の位置付けに似ている。
[編集] 西洋におけるムハンマド
カトリック、プロテスタント、英国国教会、ギリシャ正教会の違いこそあれ、キリスト教徒の多い西洋社会にあっては、ムハンマドは「新たな契約を結んだイエスの後に、余計なものを付け加えた者」と映ることが多かった。そのため、古来よりイスラーム教に対して敵愾心を持つことも多々あった。その最も端的な例が、イスラーム教徒に奪われた聖地エルサレムを奪回する目的で編成された十字軍といえる。
文学の世界でも、13-14世紀イタリアの詩人ダンテ・アリギエーリの代表作『神曲』の地獄篇にムハンマドが取り上げられている。そこでは、ムハンマドはアリーとともに地獄の最下層近くに堕とされており、世界に分裂と抗争の種をまいた罪として、腹を縦一文字に切り裂かれて内臓を露出させるという描写をされている。また、1980年代末にイギリスの作家サルマン・ラシュディが、ムハンマドをスキャンダラスに描写した『悪魔の詩』を発表して、イランの最高指導者アヤトラ・ホメイニから死刑宣告を受け、世界に衝撃を与えたことがあった。
[編集] ムハンマドと猫
ムハンマドは大変な猫好きであったといわれ、猫にまつわるさまざまな逸話がある。 ある日ムハンマドが外出しようとすると、着ようと思っていた服の上で猫が眠っていた。ムハンマドは猫を起こすことを忍びなく思い、服の袖を切り落とし片袖のない服で外出したという。
ムハンマドが猫好きであったとされることから、イスラーム教徒には猫好きが多いといわれる。とくに額にM字の模様が入った猫は「ムハンマドの猫」と呼ばれる。これは、あるときムハンマドが可愛がっていた猫の額に触れるとムハンマドの名前の頭文字である「M」の模様が浮かび上がったという逸話がもとになっているという。