ウマル・イブン=ハッターブ
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ウマル・イブン=ハッターブ(عمر بن الخطاب ‘Umar ibn al-Khattāb, 592年? - 644年11月3日)は、初期イスラーム共同体(ウンマ)の指導者のひとりで、第2代正統カリフ(634年 - 644年)。
アラビア半島西部の都市マッカ(メッカ)に住むアラブ人のクライシュ族に属するアディー家の出身で、若い頃は武勇に優れた勇士として知られていた。610年頃、クライシュ族の遠い親族であるムハンマド・イブン=アブドゥッラーフがイスラーム教を開くと、ウマルはクライシュ族の伝統的信仰を守る立場からその布教活動を迫害する側に回った。伝えられるところによれば、血気盛んな若者であったウマルはある日怒りに任せてムハンマドを殺そうと出かけたが、その道すがら自身の妹と妹婿がイスラームに改宗したと聞き、激怒して行き先を変え、妹の家に乗り込んで散々に二人を打ちすえた。しかし、ウマルは兄の前で妹が唱えたクルアーン(コーラン)の章句に心を動かされて改悛し、妹を許して自らもイスラームに帰依した。ウマルがムスリム(イスラーム教徒)となると、クライシュ族の人々はウマルの武勇を怖れてムハンマドに対する迫害を弱め、またマッカで人望のあるウマル一家の支援はマッカにおいて最初期の布教活動を行っていたムハンマドにとって大いに助けとなったといわれている。
622年にムハンマドらムスリムがマッカを脱出し、ヤスリブ(のちのマディーナ(メディナ))に移住するヒジュラ(聖遷)を実行したのちは、マディーナで樹立されたイスラーム共同体の有力者のひとりとなり、イスラーム共同体とマッカのクライシュ族の間で行われた全ての戦いに参加した。また、夫に先立たれていたウマルの娘ハフサはムハンマドの4番目の妻となっており、ムハンマドの盟友としてウマルは重要な立場にあったことがうかがえる。
632年にムハンマドが死去すると、マディーナではマッカ以来の古参のムスリム(ムハージルーン)とマディーナ以降の新参のムスリム(アンサール)の間で後継指導者の地位を巡る反目が表面化したが、ウマルは即座にムハンマドの古くからの友人でムハージルーンの最有力者であったアブー=バクルを後継指導者に推戴して反目を収拾し、マッカのクライシュ族出身の有力者が「神の使徒の代理人」を意味するハリーファ(カリフ)の地位を帯びてイスラーム共同体を指導する慣行のきっかけをつくった。アブー=バクルが2年後に死去するとその後継者に指名され、第2代目のカリフとなる。
ウマルは「神の使徒の代理人の代理人」(ハリーファ・ハリーファ・ラスールッラー)を名乗る一方、後世カリフの一般的な称号として定着する「信徒たちの指揮官」(アミール・アル=ムウミニーン)の名乗りを創始した。また、ヒジュラのあった年を紀元1年とする現在のイスラーム暦のヒジュラ紀元を定め、クルアーンとムハンマドの言行に基づいた法解釈を整備して、後の時代にイスラーム法(シャリーア)にまとめられる法制度を準備した。
政治の面では、アブー=バクルの時代に達成されたアラビア半島のアラブの統一を背景に、シリア、イラク、エジプトなど多方面に遠征軍を送り出してアラブの大征服を指導した。征服した土地では、アラブ人ムスリム優越のもとで非アラブ人・非ムスリムを支配するために彼らからハラージュ(地租)・ジズヤ(非改宗者に課せられる税)を徴収する制度が考案され、各征服地にはアーミル(徴税官)が派遣される一方、軍事的な抑えとしてアミール(総督)を指揮官とするアラブ人の駐留する軍営都市(ミスル)を建設された。ウマルはミスルを通じて張り巡らされた軍事・徴税機構を生かすための財政・文書行政機構としてディーワーン(行政官庁)を置き、ここを通じて徴税機構から集められた税をアター(俸給)としてイスラーム共同体の有力者やアラブの戦士たちに支給する中央集権的な国家体制を築き、歴史家によって「アラブ帝国」と呼ばれている、アラブ人主体のイスラーム国家初期の国家体制を確立した。
638年には首都のマディーナを離れて自らシリアに赴き、前線で征服の指揮をとった。同じ年、ウマルはムスリムによって征服されたエルサレムに入り、エルサレムがイスラム共同体の管理に入ったことを宣言するとともに、キリスト教のエルサレム総主教と会談して、聖地におけるキリスト教徒を庇護民(ズィンミー)として保護することを確認した。このとき、エルサレムの神殿の丘に立ち入ったウマルは、かつて生前のムハンマドが一夜にしてマッカからエルサレムに旅し、エルサレムから天へと昇る奇跡を体験したとき、ムハンマドが昇天の出発点とした聖なる岩を発見し、そのかたわらで礼拝を行って、エルサレムにおいてムスリムが神殿の丘で礼拝する慣行をつくったとされる。この伝承に従い、ウマイヤ朝時代にこの岩を覆うように築かれた岩のドームは、通称ウマル・モスクと呼ばれる。
642年にはイランに進んだムスリム軍がニハーヴァンドの戦いに勝利し、サーサーン朝を壊滅状態に追い込むが、ウマルは同じ年、マディーナのモスクで礼拝をしている最中に、主人に個人的な恨みをもったペルシア人の奴隷によって刺殺され、数日後に非業の死を遂げた。ウマルは死の直前に後継のカリフを選ぶための6人からなる有力者会議のメンバーを指名し、彼らの互選によってウスマーン・イブン=アッファーンが第3代カリフに選出された。
スンナ派では、ウマルは理想的な政治を行った指導者として非常に尊敬されている。もともと迫害側の有力者であったウマルの改宗は、ヒジュラ前の初期のイスラーム共同体にとって大きな転機となったので、ウマルはムスリムからは「ファールーク」(「真偽を分かつ者」)と呼ばれる。しかし、シーア派ではアブー=バクルとともにムハンマドの娘婿アリーが継承すべき指導者の地位を簒奪したとみなされ、呪詛の対象となることもある。なお、ウマルはカリフとしてウマル1世と呼ばれることもあるが、これは後のウマイヤ朝第8代カリフ、ウマル・イブン=アブドゥルアズィーズ(ウマル2世)と区別するためである。